第九話 ここにいるわ
美咲が倒れてから、半年が過ぎた。
季節が二つ変わり、紬は十六歳になった。
美咲は、まだ目を覚まさなかった。病院も変わった。急性期の治療を終え、長期的な療養をするための病院へ移った。紬は最初、それを嫌がった。
「ここにいたら起きない気がする」
何の根拠もない言葉だった。それでも、気持ちはわかった。前の病院には医師や看護師が慌ただしく出入りし、機械の音がして、何かが起きている感じがあった。治そうとしている。助けようとしている。そんな空気があった。
新しい病院は静かだった。廊下も、病室も、窓から見える景色まで、時間が止まっているように見えた。
「お母さん、ここでずっと寝てるの?」
転院した日、紬が聞いた。
「ずっとかどうかは、わからないよ」
「いつまで?」
「それも、わからない」
私は嘘をつかなかった。大丈夫。もう、簡単には言わなくなった。大丈夫ではないことを、私たちは知っていた。それでも生活は続く。美咲が目を覚まさなくても、朝は来る。学校もある。洗濯物も溜まる。お腹も空く。進路も決めなければならない。紬の生活は、止まってくれなかった。
そして、その生活の中には、いつの間にか私がいた。美咲の母親や親族とも相談しながら、紬はうちで過ごすことが増えていた。最初は週末だけだった。それが、
「今日も泊まっていい?」
になり、次の日も。その次の日も。気づけば、紬の制服がうちに置かれていた。洗面所には化粧水。クローゼットには着替え。玄関には紬のスニーカー。昔からあった黄色いコップは、もう小さく見えた。
「新しいの買う?」
私が聞くと、紬は、
「これでいい」
と言った。
「もう十年以上使ってるよ」
「だからいいの」
その言葉が、嬉しかった。朝、私は二人分の弁当を作る。
「陽向、起きて!」
返事がない。
「七時!」
二階から、
「起きてる!」
と聞こえる。絶対に起きていない。
「紬ちゃんも起きなさい!」
リビング横の部屋から、
「起きてるー」
こっちは本当に起きている。しばらくすると、紬が髪を結びながらキッチンへ来る。
「今日卵焼きある?」
「あるよ」
「甘いやつ?」
「紬ちゃんのはね」
「陽向のは?」
「だし巻き」
「めんどくさ」
「誰のせいよ。二人とも好み違うんだから」
「ママが甘やかすからじゃん」
「じゃあ明日から同じにする?」
「それは嫌」
私は笑った。少しして、陽向が髪をぐしゃぐしゃにしたまま降りてくる。
「母さん、靴下ない」
「昨日洗濯したの自分の部屋に持ってったでしょ」
「ない」
「ある」
「見たけどない」
紬がパンを食べながら、
「机の横に落ちてたよ」
と言う。
「なんで知ってんの」
「昨日ゲーム借りに行ったから」
「勝手に入んなよ」
「ノックしたし」
「俺いなかったやん」
「だから入った」
「意味わからん」
私は味噌汁を置く。
「朝から喧嘩しない」
「紬が悪い」
「陽向が片づけないのが悪い」
「二人とも食べなさい。遅刻するよ」
こんな朝が、いつの間にか普通になっていた。夫も、最初は少し戸惑っていた。でも、紬を追い出せるはずもなかった。母親が意識不明。父親とはずっと疎遠で、すぐに生活を引き取れるような状況でもない。祖母にも自分の生活がある。何より、紬自身がうちにいたがった。
「水見さんのところなら安心なので」
美咲の母親にも言われた。
「ご迷惑じゃなければ、しばらくお願いしてもいいですか」
私は
「もちろんです」
と答えた。迷わなかった。夫はその夜、
「大変になるぞ」
と言った。
「わかってる」
「陽向のこともあるし」
「わかってるよ」
私は陽向にも聞いた。二人きりのときに。
「紬ちゃん、しばらくうちにいること増えると思うけど、嫌じゃない?」
陽向は少し考えた。
「別に」
「本当に?」
「うん」
「気を遣わなくていいんだよ」
「気ぃ遣ってない」
陽向はスマートフォンを見たまま答えた。それから、少しだけ声を落とした。
「紬、一人やったらきついやろ」
私は陽向を見た。
「そうだね」
「俺は別にええよ」
「ありがとう」
「でも俺の部屋勝手に入るのだけやめさせて」
私は笑った。
「それは自分で言いなさい」
陽向も笑った。私は、ちゃんと陽向にも気を配った。紬がいるからといって、陽向のことを後回しにはしない。学校のこと。友達のこと。進路のこと。部活。夫とのこと。陽向は陽向。私の息子。大切な子。それは何も変わらない。
ただ、家の中にもう一人、大切な子が増えただけ。
そう思っていた。
紬の進路相談にも行った。美咲が倒れる前、二人があれほど揉めていた進路。美術系の活動が盛んな高校。紬はまだ、そこへ行きたがっていた。
「お母さん、反対してたから」
三者面談の前日、紬が言った。
「うん」
「今決めたら、勝手に決めたことになるかな」
私は答えに迷った。
「美咲さんが起きたら、怒るかもしれないね」
「やっぱやめたほうがいい?」
「それは違う」
「じゃあどうすればいいの」
私は少し考えた。
「美咲さんが反対してた理由も考えて、それでも行きたいなら、自分で決めたらいいと思う」
「ママは?」
その呼び方にも、もう、誰も何も言わなかった。少なくとも、この家では。
「ママはどう思う?」
私は紬を見る。
「行きたいなら、受けてみたら」
紬の顔が明るくなった。
「ほんと?」
「ただし、ちゃんと勉強すること。受験するだけじゃ入れないからね」
「わかってる」
「言ったね?」
「はいはい」
「はいは一回」
「はーい」
私は笑った。三者面談には、学校と親族側で確認を取り、私が同席した。教室に入る。教師。紬。私。三人。
「お母さまのお加減は、その後いかがですか」
先生が聞いた。
「まだ、変わりません」
私が答えた。自然に。
答えてから、少し不思議な気持ちになった。
先生が、私に聞いた。紬のことを。進路。成績。家での様子。
「最近は、ご自宅での勉強はどうですか?」
「やってますよ。前よりは」
「前よりはって何」
紬が言う。
「昨日もスマホ触ってたでしょ」
「あれ調べもの」
「動画見てたじゃん」
先生が笑った。
「仲がいいんですね」
私は。
「小さい頃から知っているので」
と答えた。
母親ではない。そう言わなければ、と思ったのに。先生はそれ以上聞かなかった。帰り道、紬が言った。
「ほんとの三者面談みたいだった」
「ほんとの三者面談でしょ」
「そうじゃなくて」
「何?」
紬は笑った。
「ママがほんとのお母さんみたいだった」
私は、少しだけ、歩く速度を落とした。
「美咲さんに怒られるよ」
冗談のつもりだった。でも、紬は笑わなかった。
「お母さん、起きないじゃん」
私は何も言えなかった。その夜、紬は病院へ行った。ベッドの横に座って、面談のことを美咲に話した。
「今日、先生と進路の話したよ」
私は病室の外にいた。紬の声が聞こえる。
「やっぱり、あの高校受けたい」
少し沈黙。もちろん、美咲から返事はない。
「お母さんが嫌なのは知ってる。でも、私、ちゃんと考えたから」
また、沈黙。
「勝手に決めてごめん」
私は、病室へ入れなかった。美咲が、かわいそうだった。本当に。
そう思った。娘が、大切なことを決めている。でも、何も言えない。その隣に私がいる。少し前まで、それを望んでいたのは、美咲だった。
紬を返して。
そう言った。私は、返そうとした。本当に、返すつもりだった。
でも、美咲がいなくなった。
私は、何もしていない。
事故だった。
だから、仕方がない。私は、紬を一人にできない。それだけ。
その夜。家へ帰ってから、紬はほとんど話さなかった。夕飯も、半分くらい残した。
「体調悪い?」
「違う」
「病院で何かあった?」
「何もない」
陽向が紬を見る。
「また考えすぎてんの?」
「うるさい」
「おばちゃん、起きるかもしれんやん」
「陽向にはわかんない」
「わからんけど」
「じゃあ言わないで」
陽向が黙った。紬は席を立つ。
「ごちそうさま」
部屋へ行ってしまった。陽向が私を見る。
「俺、なんか悪いこと言った?」
「悪くないよ」
「でも怒った」
「紬ちゃんも、いっぱいいっぱいなんだよ」
「……そっか」
陽向は残りのご飯を食べた。しばらくして。
「母さん」
「ん?」
「紬のこと、頼むわ」
私は、少し驚いた。
「陽向が言うの?」
「俺、こういうとき何言えばいいかわからんから」
「何も言わなくていいんじゃない?」
「そうなん?」
「普通にしてあげたら」
「わかった」
陽向は頷いた。
「じゃあ明日、ゲーム誘う」
私は笑った。
「それでいいよ」
十一時を過ぎた頃。紬の部屋を覗いた。まだ起きていた。ベッドの上で、膝を抱えている。
「寝ないの?」
「寝れない」
「入っていい?」
紬が頷いた。私は隣に座った。しばらく、何も言わなかった。
「ねえ」
紬が言った。
「うん」
「お母さん、もう起きないのかな」
私は、すぐには答えなかった。
「わからない」
「先生も、もうあんまり期待できないって言ってるんでしょ」
「そういう言い方はしてないよ」
「でも、そういう意味じゃん」
「……うん」
紬の目に、涙が溜まった。
「私、ずっと待ってるのに」
「うん」
「高校決まったら言おうと思ってたし、卒業式も来てほしいし」
「うん」
「成人式も」
「うん」
「結婚するときとか」
声が震えた。
「まだ全然先だけど、お母さんいると思ってた」
私は、紬の背中に手を置いた。
「怖い」
「うん」
「このまま起きなかったらどうしよう」
「うん」
「私、一人になるのかな」
その言葉に、胸が締めつけられた。
一人。
そんなわけない。
陽向がいる。
夫がいる。
美咲のお母さんも。
親族も。
友達も。
たくさん。
いる。
でも、私の口から出たのは、別の言葉だった。
「一人じゃないよ」
紬が、私を見る。私は、その手を握った。
温かい。十六歳の手。二歳の頃とは、全然違う。
大きくなった。指も長い。爪も、自分で整えている。それでも、私にはわかる。この手を、ずっと見てきた。
「ママがいるでしょう?」
紬の顔が、崩れた。泣いた。声を出して。子どもみたいに、泣いた。
そして、私に抱きついた。
「ママ」
私は、抱きしめた。強く、紬の頭を胸に押しつける。
「大丈夫」
久しぶりに、その言葉が出た。
「ここにいるから」
「ママ」
「うん」
「いなくならないで」
「いなくならないよ」
「ほんと?」
「うん」
「ずっと?」
「ずっと」
私は、紬を抱きしめた。強く、もっと、強く。
あの日、冷たくなった莉央を抱いたときよりも。
ずっと、強く。
あの子は、冷たかった。何度呼んでも、返事をしなかった。身体を揺らしても、目を開けなかった。
ママ、ここにいるよ。そう言っても、莉央は。
私を呼ばなかった。でも、今は違う。
腕の中にいる子は温かい。呼吸している。泣いている。成長している。私に、しがみついている。
「ママ」
また、呼んだ。胸の奥で、何かが繋がった。
十五年間、ずっとわからなかったこと。
なぜ、あの日。あの横断歩道で、紬に会ったのか。なぜ、あの子が私を見たのか。なぜ、声が聞こえたのか。
――まま?
なぜ、あれほど、莉央に似ていたのか。
左の頬のえくぼ。
眠くなると、左手を口元へ持っていく癖。
滑り台の上で、一度止まる。
イチゴを先から食べる。
うさぎが好き。
黄色が似合う。
何度も、同じ絵本を読む。
全部。
偶然だと思おうとした。
でも、偶然がこんなに続くのだろうか。
違う。
最初から、答えは出ていた。
私は、気づかなかっただけ。
神様は、莉央を奪ったのではなかった。
一度、預かっただけ。二歳で、私のところから連れていった。
どうしてそんなことをしたのかはわからない。
でも、五年後、莉央は戻ってきた。
別の名前で。別の家に。別の母親から生まれて。私の前へ。
戻ってきた。
最初は、わからなかった。だから、莉央が教えてくれた。横断歩道。赤信号。ベビーカー。二歳の女の子。私は、陽向を連れていた。
そして、聞こえた。
――まま?
あれは、偶然じゃない。
美咲を呼んだんじゃない。
私を、呼んだ。
ずっと、そうだったのだ。
私は、ちゃんと見つけた。
莉央も、ちゃんと私を見つけた。
生まれてくる場所。戻ってくる場所を。少しだけ、間違えた。
だから、時間がかかった。十五年。少しずつ近づいて、ようやくここまで来た。
紬が、腕の中で少しずつ泣き止んでいく。
「ママ」
「なあに」
今度は、心の中だけではなかった。私は、ちゃんと答えた。
「ここにいるわ」
紬の背中をゆっくり撫でる。
「ずっと、ここにいるから」
紬は、安心したように目を閉じた。私は、その顔を見た。十六歳。もう、二歳の莉央には似ていない。当たり前だ。莉央だって、生きていたら、大きくなった。顔も変わった。声も変わった。好きなものだって、変わったかもしれない。
だから、似ていなくてもいい。
この子が、莉央ならそれでいい。
そのとき、廊下から足音が聞こえた。陽向だった。開いたままの扉から、こちらを見る。
「寝た?」
私は、小さく頷いた。
「うん」
「泣いてた?」
「少しね」
陽向は、眠った紬を見る。
「大丈夫そう?」
「大丈夫」
「そっか」
陽向は、少し安心した顔をした。
「母さんも早よ寝えや」
「わかってる」
「最近、寝るん遅いやろ」
「陽向に言われたくない」
「俺は若いからいいねん」
「関係ない」
陽向が笑う。
「おやすみ」
「おやすみ」
扉が閉まる。私は、陽向の背中を見送った。大切な、私の息子。
そして、腕の中には、私の娘。
二人。
私は、二人の母親。ようやく、そう思えた。
罪悪感はなかった。
だって、私は誰も奪っていない。
美咲は、病院にいる。
勝手に一人で倒れてる。
私は、美咲の代わりをしているだけ。紬が一人にならないように、守っているだけ。
そして、もし美咲が目を覚ましたら、そのときはまた考えればいい。
ふと、雨の音がした気がした。私は窓を見る。降っていない。静かな夜だった。なのに、一瞬だけ、頭の中に駅の階段が浮かんだ。美咲の顔。何かを言っている。
――もう紬に。
私は、目を閉じた。
消えた。
今は、考えなくていい。事故だった。何度も、そう確認した。そして、腕の中の紬を見る。
この子は、ここにいる。生きている。温かい。それだけでいい。
私は、もう一度紬の髪を撫でた。
「おかえり」
小さく、言った。紬は眠ったまま、少しだけ私の服を握った。私は笑った。
もう、間違えない。
今度こそ、この子を失くさない。




