最終話 まま?
紬が十八歳になった春、高校を卒業した。
三年前、美咲と大喧嘩をしてまで選んだ高校だった。あの頃の紬は、「自分が行きたい学校なのに、どうしてお母さんが決めるの」と泣いていた。美咲が事故に遭ったのは、その少し後だった。結局、美咲は紬がこの高校の制服を着た姿を、一度も見ることがなかった。
卒業式の日は、朝からよく晴れていた。私は少し早く起きて、朝食を作った。
「紬、そろそろ起きないと間に合わないよ」
リビングから声をかけると、しばらくして、
「起きてるー」
と返事があった。二階からは何も聞こえない。
「陽向も!」
「俺、今日卒業式ちゃうし」
「紬ちゃんと写真撮るって言ったでしょ」
「行くって」
「じゃあ起きる」
「起きてる」
何年経っても、朝の会話は変わらなかった。紬は制服姿でリビングへ来ると、鏡を見ながら髪を整え始めた。
「ママ、後ろ変じゃない?」
「ちょっと待って」
私は紬の後ろへ回り、髪を整えた。十八歳。もう、自分で何でもできる。それでも、こういうときだけは昔と同じだった。
「これでいい?」
「うん」
紬が鏡の中で笑う。左の頬に、小さなえくぼができた。私は一瞬、手を止めた。
「どうしたの?」
「なんでもない」
もう何度も見てきた。二歳の頃から変わらない、左の頬のえくぼ。
「かわいいよ」
「知ってる」
「自分で言う?」
紬が笑った。少し遅れて陽向が降りてきた。
「紬、卒業おめでと」
「まだ式終わってないけど」
「じゃあ取り消す」
「うざ」
私は二人を見て笑った。二歳で出会った二人が、もう十八歳。陽向は陽向で、自分の高校を卒業し、春から大学へ進む。紬も同じだった。別々の大学。別々の道。もう毎日一緒にいる年齢ではない。それでも、二人の間には、他の友達とは違う空気があった。
幼なじみ。家族みたいなもの。ずっと、そう思っていた。卒業式が終わると、校門の前は写真を撮る人でいっぱいになった。
「二人、そこ並んで」
私がスマートフォンを構えると、陽向が嫌そうな顔をした。
「なんで俺まで」
「いいから」
「陽向、早く」
紬が腕を引っ張る。
「近いって」
「写真くらいいいじゃん」
二人が並ぶ。私は画面を覗いた。大きくなった。本当に。
あの頃は、二人とも私の腰にも届かなかったのに。
「撮るよ」
紬が笑う。陽向も、仕方なさそうに笑った。シャッターを押す。
「もう一枚」
「まだ撮るん?」
「記念なんだから」
「ママこういうときめっちゃ撮るよね」
「あとで撮っておけばよかったって思うよりいいでしょ」
そう言いながら、私はもう一枚撮った。撮っておけばよかった。莉央が死んだ朝、私は写真を撮らなかった。明日もいると思っていたから。
来年も、その次の年も、ずっと撮れると思っていた。だから私は、紬と陽向の写真をたくさん撮った。二度と、撮らなかったことを後悔しないように。
式のあと、三人で病院へ向かった。美咲は、まだ眠っていた。事故から三年。一度も目を覚ましていない。病室へ入ると、紬は卒業証書を美咲のベッドの横へ置いた。
「お母さん」
美咲の手を握る。
「卒業したよ」
返事はない。
「ちゃんと三年間通ったよ」
陽向が横から、
「たまに遅刻してたけどな」
と言った。
「それ言わなくていいから」
紬が笑う。
「大学も決まったよ。前に話したところ」
美咲は動かない。
「お母さん、反対してたけど、私ちゃんと頑張ったからね」
紬の声が少し震えた。
「だから、起きたら褒めてよ」
私は少し離れた場所から、その姿を見ていた。美咲は、どんな気持ちなのだろう。もし、聞こえているのなら。十八歳になった娘の声を、どう聞いているのだろう。
「ママ」
紬が振り返った。
「なあに?」
「一緒に写真撮ろ」
「私はいいよ」
「なんで?」
「今日は紬ちゃんと美咲さんで撮ったら?」
「ママも入って」
私は美咲を見た。三年前。この人は、私に言った。
――紬には、私が母親だから。
そして。
――返して。
私は少し迷ってから、美咲のベッドの横へ立った。陽向にスマートフォンを渡す。
「撮って」
「はいはい。もうちょい寄って」
紬が私の腕を引いた。私は紬の隣へ立つ。反対側には、眠ったままの美咲。
「母さん、笑って」
「笑ってるよ」
「顔固い」
「うるさい」
紬が笑った。私も笑った。シャッターの音がした。
紬。
私。
美咲。
写真を確認すると、奇妙な一枚だった。母親が二人。一人は、紬を産んだ母親。もう一人は、紬からママと呼ばれている女。そして、その間で笑っている紬。
私は写真を閉じた。
帰り道。紬と陽向は少し前を歩いていた。二人で何か話している。
「今日、何食べる?」
「陽向さっきから食べることしか言ってない」
「腹減った」
「まだ四時だよ」
「卒業祝いするんやろ」
「私の卒業祝いね」
「俺も卒業したし」
「じゃあ合同?」
「それでいいやん」
二人の声を聞きながら、私は少し後ろを歩いた。そのとき、ふと十五年前のことを思い出した。
六月。蒸し暑い午後。赤信号。ベビーカー。二歳の陽向は眠っていた。
夫から、
《牛乳ある?》
とメッセージが来た。私は、
《ある》
と返そうとした。そのとき。
――まま?
聞こえた。私は振り返った。向こう側のベビーカー。
二歳くらいの女の子。
丸い頬。
笑ったときにできる、左のえくぼ。
莉央。
そう思った。でも、あの声。本当に、紬の声だったのだろうか。
私は歩く速度を落とした。十五年前の記憶を探る。あの日、美咲は紬について何か言っていた。何だった?
――この子、まだちゃんと喋れなくて。
そんなことを、言っていなかっただろうか。いや、別の日だったかもしれない。紬が二歳の頃の記憶と、莉央が二歳だった頃の記憶。十五年も経てば、混ざる。それだけ。
なのに、胸の奥がざわついた。
あの日、私は本当に誰かに呼ばれたのだろうか。
莉央の声。紬の声。それとも。
私が、聞きたかった声。
「ママー!」
前から紬が呼んだ。私は顔を上げた。
「早く!」
「今行く」
考えるのをやめた。どうでもいい。紬はここにいる。十八歳になって、私をママと呼んでいる。それだけでいい。三人で横断歩道まで来た。信号が赤になった。
陽向はスマートフォンを見ている。紬も友達から届いたメッセージに返事をしている。私は何となく、向かい側を見た。若い母親がいた。ベビーカー。その中に、二歳くらいの女の子。女の子と目が合った。笑った。左の頬に、小さなえくぼができた。
息が止まった。
違う。えくぼのある子なんて、いくらでもいる。そう思った瞬間。
「……まま?」
声がした。世界から音が消えた。車の音。人の声。信号機の音。全部。遠くなった。
私は振り返った。紬。陽向。
向こう側には、二歳の女の子。
誰が言った?今、誰が――。
信号が青になった。
人が動き出す。ベビーカーが、こちらへ近づいてくる。私は動けなかった。
すれ違う瞬間。女の子が私を見た。そして、笑った。
私は初めて思った。もし、あの子が莉央なら。じゃあ、紬は、誰?
「ママ?」
今度は、はっきり聞こえた。紬だった。
「どうしたの?」
私は紬を見る。十八歳。私が、十五年間愛してきた女の子。
「……なんでもない」
「ほんと?」
「うん」
「顔色悪いよ」
陽向も私を見る。
「母さん、座る?」
「大丈夫」
私は笑った。二人と一緒に歩き出す。でも、頭の中で、何かが崩れていた。
三歳。紬の髪を見て、長いほうが似合うと言った。
四歳。黄色が似合うと教えた。黄色いコップ。黄色いヘアゴム。黄色いワンピース。
莉央が好きだった絵本。うさぎ。髪型。色。遊び。食べ物。私は、紬が莉央に似ていると思っていた。
でも、違う。この子が、似ていったのではないか。私が、似せていった。少しずつ、紬が嫌がらない程度に。紬自身が選んだと思える程度に。
――黄色、似合うよ。
――この絵本、面白いよ。
――髪、こうやって結んだらかわいいよ。
強制なんてしていない。ただ、選択肢を置いただけ。紬が、自分で選びたくなる場所に。
何度も、置いただけ。
八歳。紬が髪を短くした。私は、怖くなった。莉央に似ていなくなったから。
十歳。紬が言った。
――私のお母さんみたい。
私が答えた。
――じゃあ、私のこともママって呼んでいいのよ。
紬が自分から、ママと呼んだ。ずっと、そう思っていた。でも、最初にその呼び方を紬の前へ置いたのは、私だった。
胸が苦しくなる。そして、突然雨の音がした。
駅。
階段。
美咲。
今まで曖昧だった記憶が。
一瞬だけ。
鮮明になる。
『もう紬に会わないで』
美咲が言った。
『どうして?』
『あなた、おかしいよ』
『何がおかしいの?』
『紬は莉央ちゃんじゃない』
息が止まった。美咲は、知っていた。いつ話した?
私が、話したのだ。莉央のことを。ずっと前に。
『紬は私の娘なの』
美咲が言う。
『わかってるよ』
『わかってない』
美咲が、私から離れる。
『もう、私たちに関わらないで』
私は――。
「ママ」
紬の声で、記憶が切れた。
私は顔を上げた。
「ほんとに大丈夫?」
「うん」
私は笑った。それ以上、思い出さなかった。
思い出す必要はない。美咲は、駅の階段から落ちた。事故だった。警察も、そう判断した。だから、事故。それでいい。
その日の夜。卒業祝いに、ハンバーグを作った。
「チーズいっぱい入れて」
紬が言った。私は冷蔵庫の前で、手を止めた。
「そんなに好きだったっけ?」
「何言ってんの。昔から好きじゃん」
そうだった。紬は、チーズが好き。
莉央は?記憶が戻る。
小さな食卓。チーズを嫌がる莉央。
『や』
『おいしいよ』
『いや』
そうだった。莉央は、チーズが嫌いだった。
それだけじゃない。紬と莉央は、違う。
たくさん、違う。
私は、似ているところだけを集めた。違うところを、見なかった。私は紬を見る。十八歳。莉央ではない。この子は、紬。初めて、はっきり思えた。それなのに、悲しくなかった。
「ママ?」
「ううん。なんでもない」
私は笑った。
「いっぱい入れる?」
「うん」
「陽向はなしね」
「絶対入れんといて」
陽向が言う。
「わかってるって」
チーズ入り。チーズなし。ちゃんと、別々に作った。
もう、間違えない。この子は莉央じゃない。この子は紬。美咲の娘。そして、十五年かけて、私をママと呼ぶようになった子。
私は、それでいいと思った。
*
それから六年後。高校を卒業し、家を出ていた陽向が、二十四歳になった紬を連れてきた。二人が並んで座った時点で、なんとなくわかった。
「母さん、話ある」
陽向が言う。紬の左手に、指輪。私は二人を見る。
「結婚するの?」
陽向が目を丸くした。
「まだ何も言ってないやん」
「顔見ればわかるよ」
紬が笑った。左の頬。えくぼ。
「ママ、こういうときだけ鋭い」
二人が付き合い始めたのは、大学を卒業する少し前だったらしい。驚いた。でも、不思議ではなかった。二歳から、ずっと一緒にいる。一度は離れて、それぞれの人間関係を作って。
それでも最後に、お互いを選んだ。
「おめでとう」
そう言った瞬間、涙が出た。
「母さん、早いって」
陽向が笑う。紬も泣いた。
「ママも泣いてるじゃん」
「紬もでしょ」
私は紬を抱きしめた。
「幸せになってね」
「うん」
その肩越しに、陽向が見えた。私の息子。そして、紬。陽向の妻になる。私の、義理の娘。その言葉が、胸の中に落ちた。
娘。今度は、誰にも否定できない。
紬は、本当に私の娘になる。
その瞬間、雨の音が聞こえた気がした。
――あなたは、紬の母親じゃないから。
美咲の声。私は、窓を見た。外は晴れていた。
「どうしたの?」
紬が聞く。
「なんでもない」
私は笑った。
「嬉しいだけ」
*
結婚式には、美咲もいた。事故から九年。一度も、目を覚ましていなかった。紬はウェディングドレスのまま、美咲の前にしゃがんだ。
「お母さん」
手を握る。
「結婚するよ」
返事はない。
「相手、陽向」
紬が笑う。
「びっくりした?」
美咲は、動かない。
「お母さん、陽向のこと昔から知ってるもんね」
紬の目から、涙が落ちた。
「起きてほしかったな」
私は、少し離れた場所から見ていた。その日の家族写真にも、美咲はいた。
陽向。
紬。
夫。
私。
そして。
眠っている美咲。
今度は、私も、迷わず紬の隣に立った。
*
さらに二年後。
夜。紬から電話があった。
『ママ』
「どうしたの?」
声が震えている。
一瞬、嫌な予感がした。
でも、紬は笑っていた。
『赤ちゃん、できた』
私は椅子に座った。
「……ほんと?」
『うん』
「陽向は?」
『いるよ』
向こうで、陽向の声。
『母さん、泣いてる?』
「泣いてない」
『絶対泣いてるやん』
「うるさい」
紬が笑う。私も笑った。孫。陽向と、紬の子ども。
電話を切ったあと、私は一人で莉央のアルバムを開いた。
何年ぶりだろう。
二歳。黄色い服。うさぎのぬいぐるみ。左の頬のえくぼ。
「莉央」
久しぶりに、名前を呼んだ。
もう、紬と重ならなかった。
莉央は、莉央。
私の娘。
二歳で死んだ子。私は、写真を撫でた。
「おばあちゃんになるよ」
言ってみる。胸の奥が、少し痛んだ。
でも、昔とは違った。アルバムを閉じる。
それだけ。
そのつもりだった。
*
赤ちゃんは、女の子だった。妊娠がわかってから、紬はよくうちへ来た。
「名前、どうしよう」
ある日、紬が言った。テーブルには、名前の本と、スマートフォン。
候補がいくつも並んでいた。
「陽向は?」
「何でもいいって」
「何でもいいとは言ってない」
陽向がキッチンから答える。
「俺が出したやつ全部却下したやん」
「だって微妙なんだもん」
「ひど」
私は笑った。
「まだ時間あるんだから、ゆっくり決めたら」
「ママなら何つける?」
紬が聞いた。
一瞬、莉央という名前が浮かんだ。
でも、言わなかった。
「私が決めることじゃないでしょ」
「候補だよ」
「自分たちで考えなさい」
私は、それで終わらせた。その日の夜、陽向からメッセージが来た。
《母さん》
《なに》
《りおの漢字ってどう書くんだっけ》
指が止まった。
《なんで?》
《紬が名前探してて、昔母さんが姉ちゃんの名前の由来話してたの思い出した》
私は、しばらく画面を見ていた。
陽向には、莉央の話をしていた。隠してはいない。
自分には、二歳で亡くなった姉がいたこと。名前は莉央。どんな子だったか。どうしてその名前をつけたのか。
小さい頃から、何度か話している。
《莉央》
それだけ送った。すぐに
《それ》
と返ってきた。
《いい名前やんな》
私は、画面を見ながら笑った。
《そうだね》
それ以上、何も言わなかった。
*
次に紬が来たとき、私は莉央のアルバムをリビングの棚に戻しておいた。普段は奥にしまっている。でも、その日はたまたま見える場所に置いた。
何も言わない。紬も、気づかなかった。
少なくとも、そのときは。
夕方。紬が帰ったあと、テーブルにアルバムが残っていた。少しだけ、位置が変わっていた。私は、元に戻した。
*
数日後。
陽向と紬が。また名前の話をしていた。
「『り』から始まる名前かわいくない?」
紬が言った。
「りんとか?」
陽向が答える。
「友達の子にいる」
「りこ」
「いる」
「りお」
私は、料理をしていた手を止めなかった。
紬が、黙る。
「りお」
もう一度言った。
「かわいいかも」
陽向が、私を見る。一瞬だけ目が合った。私は、何も言わない。
「莉央って漢字あるやん」
陽向が言った。
「どんな字?」
紬が聞く。陽向がスマートフォンに打つ。
「これ」
紬が、画面を見る。
「あ」
小さな声。
「この名前……」
私は、振り返った。
「どうしたの?」
紬が私を見る。
「ママの娘さんの名前だよね」
「うん」
私は、それだけ答えた。
「陽向のお姉ちゃん」
「そう」
紬は、画面を見る。
「莉央ちゃん」
初めて紬の口からその名前を聞いた。胸の奥で、何かがゆっくり開いた。でも私は笑わなかった。
「同じ名前はやめたほうがいい?」
紬が聞く。私は、すぐに答えなかった。
「それは、紬ちゃんと陽向が決めることでしょ」
「ママは嫌?」
「どうして?」
「思い出すかなって」
私は少し考えるふりをした。
「もう昔のことだから」
嘘ではない。昔のこと。ずっと、昔。
「でも」
私は続けた。
「いい名前だとは思うよ」
それだけ。本当に、それだけ。紬が、また画面を見る。
「莉央かあ」
お腹を撫でる。
「かわいいね」
陽向が言う。
「俺も好き」
私は、二人を見た。
何も勧めていない。
私は、名前を出していない。
莉央にしなさいとも、言っていない。
アルバムを少し見えるところに置いただけ。
陽向に昔、姉の話をしていただけ。
いい名前だと、言っただけ。
選んだのは二人。
私は、何もしていない。
*
出産の日。
病院の廊下で私は夫と待っていた。
陽向から連絡が来る。
《生まれた》
写真。
小さな、女の子。
赤い顔。目を閉じている。私は、画面を拡大した。
頬を見る。まだ、えくぼなんて。
わからない。当たり前。
《母子ともに元気》
夫が。
「よかったな」
と言った。私は頷いた。
「うん」
少しして、陽向から、もう一通届いた。
《名前決めた》
心臓が、ゆっくり大きく鳴った。画面を開く。
《莉央にする》
私はしばらく動けなかった。
夫が
「どうした?」
と聞く。私は、スマートフォンを見せた。夫も黙った。
「……そうか」
それだけ言った。私は、笑った。
「いい名前でしょう?」
夫は、私を見た。何かを言いかけた。でも、言わなかった。
*
初めて、莉央に会った。
陽向が小さな赤ちゃんを私の腕に乗せる。
「はい、ばあば」
「やめてよ」
「ばあばやん」
紬がベッドの上で笑っている。
「ママ、抱っこして」
私は赤ちゃんを見る。
温かい。
小さい。
軽い。
二十年以上前。
同じように。
私は、莉央を抱いた。
そして、失った。
今、もう一度、莉央が腕の中にいる。
違う。
この子は、あの莉央じゃない。
わかっている。同じ名前の、別の子。
陽向と紬の娘。私の、孫。
「莉央」
呼んでみる。赤ちゃんがわずかに動いた。
「かわいいね」
紬が言う。
「うん」
私は、赤ちゃんの頬に指を触れた。柔らかい。
「ママ」
紬が私を見る。
「名前、莉央にしてよかった」
「どうして?」
「なんかね」
紬は、少し考えた。
「ずっと前から、この名前だった気がする」
私は、紬を見る。
「変だよね。私が決めたのに」
「変じゃないよ」
私は笑った。
「きっと、この子の名前だったのよ」
紬も笑った。左の頬に、えくぼ。私は、腕の中の莉央を見る。まだ、何も知らない。
好きな色も。
好きな本も。
好きな食べ物も。
何も、決まっていない。
私は、もう、間違えない。
紬は、莉央じゃなかった。
あの横断歩道で、私を呼んだのが誰だったのかも、もう、どうでもいい。
私は、十五年かけて紬を娘にした。
そして、紬は陽向を選んだ。
二人は、私に孫をくれた。
その子の名前を莉央と、自分たちで決めた。
私は、何もしていない。
ただ、少しだけ、選びやすい場所に置いてあげただけ。
昔と同じように、私は赤ちゃんの小さな手を握った。
指が、私の指を掴む。
「莉央」
もう一度、呼ぶ。
今度は、生まれたときから知っている。
今度は、髪が伸びる前から。
好きな色を決める前から。
言葉を覚える前から。
ずっと、そばにいられる。
私は、赤ちゃんを抱いたまま紬に聞いた。
「退院したら、しばらくうちに来るでしょう?」
「うん。ママ、手伝ってね」
「もちろん」
「助かる」
私は、莉央の顔を見る。眠っている。
小さな口が、わずかに動いた。
私は、そっと顔を近づけた。
声なんて、聞こえるはずがない。
まだ、生まれたばかりなのだから。
それでも、確かに聞こえた気がした。
――まま?
私は笑った。
「なあに、莉央」
今度こそ。
最初から、私が育ててあげる。




