第八話 雨の日
事故が起きた。
美咲が、駅の階段から転落した。その知らせを知ったのは、夜の九時を少し過ぎた頃だった。
私は家にいた。夕食を終え、夫はリビングでテレビを見ていて、陽向は自分の部屋にいた。スマートフォンが鳴った。画面には、紬の名前。こんな時間に電話がかかってくることは珍しかった。嫌な予感がした。
「もしもし?」
『ママ……』
声を聞いた瞬間、立ち上がった。紬は泣いていた。何を言っているのか、最初はほとんど聞き取れなかった。
「紬ちゃん、落ち着いて。どうしたの?」
『お母さんが……』
「美咲さん?」
『駅で、階段から落ちたって……』
頭の中が真っ白になった。
「今どこ?」
『病院』
「一人?」
『おばあちゃんいる。でも……どうしよう、ママ、お母さん死んじゃうかもしれない』
「大丈夫」
考えるより先に、その言葉が出た。
「大丈夫だから。今から行くね」
『来てくれる?』
「行く。すぐ行くから」
電話を切る。夫が私を見ていた。
「どうした?」
「美咲さんが駅の階段から落ちたって」
「え?」
「病院に運ばれた。紬ちゃんから」
私はバッグを掴んだ。手が震えていた。財布。スマートフォン。鍵。何度も同じところを探した。
「俺も行く」
夫が立ち上がる。その声を聞いて、陽向も部屋から出てきた。
「何?」
「紬ちゃんのお母さんが事故だって」
「美咲さん?」
陽向の顔色が変わった。
「紬は?」
「病院」
「俺も行く」
「陽向は家にいて」
「なんで?」
「遅いから」
「紬一人なんやろ?」
その言葉で、何も言えなくなった。一人ではない。親族がいると言っていた。それでも、陽向にとっても、美咲は知らない大人ではない。物心つく前から知っている。紬と同じように。私たち家族も、美咲と十五年近く付き合ってきた。
「わかった。着替えて」
陽向がすぐに部屋へ戻った。夫が私を見る。
「大丈夫?」
「うん」
答えたけれど、自分でも、何に対して大丈夫と言ったのかわからなかった。
病院へ着くと、紬は手術室の前にいた。制服ではなかった。家に帰ってから連絡を受けたのだろう。パーカーに、部屋着のようなズボン。髪も少し乱れていた。私を見つけた瞬間。
「ママ!」
走ってきた。私は受け止めた。紬が強く抱きつく。
「どうしよう」
「大丈夫」
「頭、すごく打ったって」
「うん」
「血も出てたって」
「大丈夫」
「手術って……死なないよね?」
「大丈夫」
私は何度も言った。大丈夫。大丈夫。大丈夫。
言いながら、別の声を思い出していた。
――大丈夫ですよ。
莉央を病院へ連れていった日。
医師は、そんな言い方をした。ただの風邪。水分を取らせて。様子を見て。大丈夫。私は、その言葉が嫌いだった。
大丈夫なんて、誰にもわからない。
知っている。
それなのに、私は紬に言い続けた。
「大丈夫だから」
それしか、言えることがなかった。
陽向が遅れて走ってきた。
「紬」
紬が顔を上げる。
「陽向……」
陽向は何も言わなかった。紬の隣に座った。十五歳の男の子が、何を言えばいいのかわからない顔をしていた。少しして、
「飲み物買ってくるけど、何かいる?」
と聞いた。紬は首を振った。
「いらない」
「水だけ買ってくるわ」
陽向は自動販売機へ向かった。戻ってくると、紬の前にペットボトルを置いた。
「飲まんでもいいから」
「……ありがとう」
それから、陽向はずっと隣にいた。夫は美咲の母親と話していた。手続きのこと。必要なもの。車のこと。私は紬のそばにいた。手術は、何時間も続いた。深夜になった。日付が変わった。誰も、帰らなかった。
ようやく医師が出てきたとき。
全員が立ち上がった。
説明を聞いた。頭部に強い衝撃を受けていること。緊急の処置が必要だったこと。手術自体は終わったこと。でも、まだ安心できる状態ではないこと。集中治療室で経過を見ること。
私は医師の言葉を聞きながら、不思議な感覚になっていた。
頭に入っているようで、入っていない。紬が泣き始めた。私は、また抱きしめた。
「大丈夫」
自分でも、もう何を根拠に言っているのかわからなかった。
それでも、言った。
数日後。
美咲の命は助かった。
その知らせを聞いたとき、紬は声を上げて泣いた。私も泣いた。本当に、安心した。死ななくてよかった。心から、そう思った。
でも、美咲は目を覚まさなかった。
一日。
二日。
一週間。
呼びかけても、反応はない。眠っているように見えた。紬は毎日、学校が終わると病院へ行った。最初の頃は、私も一緒に行った。
「お母さん、今日数学のテスト返ってきたよ」
ベッドの横で、紬は話した。
「七十八点だった。前より上がった」
美咲は、答えない。
「陽向なんか六十五点だった」
「おい、言うなよ」
一緒に来ていた陽向が言う。紬が少し笑った。
「でも英語は陽向のほうが上だった」
「当たり前」
「うざ」
いつもの会話。その声を、美咲は聞いているのだろうか。
「聞こえてるかもしれないから」
私は言った。
「いっぱい話してあげたら」
紬は頷いた。そして、また美咲に話しかけた。学校のこと。友達のこと。先生のこと。進路のこと。私は、少し離れたところから見ていた。
美咲。起きて。
そう思った。本当に、思っていた。
起きて。紬が待ってる。あなたの娘が、待ってるよ。
さらに数週間が経った。
医師から、家族へ説明があった。美咲の母親。親族。紬。そして、私は少し離れたところにいた。本来なら、私が聞く話ではない。でも、紬が
「一緒にいて」
と言ったから、そこにいた。医師は慎重に言葉を選んでいた。状態は安定している。命に関わる急性期は越えた。でも、意識が戻る兆候が見られない。
今後について、厳しい見通しも考えなければならない。紬の顔が、少しずつ歪んでいった。
「起きないってことですか?」
医師は、すぐには答えなかった。
「現時点では、意識が戻る可能性について、楽観的なことは申し上げられません」
「でも、ゼロじゃないんですよね?」
「はい」
紬は、その言葉だけを拾った。
「じゃあ起きるかもしれない」
私は、隣で頷いた。
「うん」
美咲の母親が、静かに泣いていた。病院を出てから、紬は、私の胸で泣いた。
「お母さん、起きるよね」
私は答えられなかった。
大丈夫。
いつもの言葉が、その日は出なかった。代わりに、
「待とう」
と言った。
「一緒に待とう」
紬は頷いた。それから、生活が変わった。
美咲がいない。ただそれだけで、十五歳の紬にはできないことがいくつもあった。美咲の母親も動いていた。親族も。病院の人も。
いろんな大人が、紬を支えようとしていた。
その中で私は、自分にできることをした。朝、紬が学校へ行けたか確認する。食事。制服の洗濯。必要なものの買い出し。病院へ行く日の送迎。学校との連絡。親族とのやり取り。私だけで決められないことは、美咲の母親に確認した。できることは、全部やった。
「紬、今日うちで食べる?」
「いいの?」
「陽向もいるから」
「じゃあ行く」
そんな日が増えた。夕飯のテーブルに、夫、私、陽向、紬。四人。昔から、何度もあった光景。
でも、意味が違っていた。以前は、美咲が迎えに来た。
「ごめん、遅くなった」
そう言って、玄関から紬を連れて帰った。
今は、来ない。当然、来るはずがない。
ある夜、紬がうちで夕飯を食べていた。
「紬、それ俺の唐揚げ」
陽向が言った。
「いっぱいあるじゃん」
「それ最後の一個」
「早い者勝ち」
「返せ」
「もう食べた」
「最悪」
紬が笑う。陽向も、結局笑った。私は、味噌汁をよそいながら二人を見た。夫が、私を見た。一瞬だけ、目が合った。夫は何も言わなかった。
でも、その日の夜。
紬を送ったあと、夫が聞いた。
「大丈夫か?」
「何が?」
「お前」
私は少し驚いた。
「私?」
「無理してない?」
「してないよ」
「最近ずっと紬ちゃんのことやってるだろ」
「今は仕方ないでしょ」
「それはそうだけど」
夫は少し黙った。
「莉央のときのこともあるし」
胸の奥が、固くなった。
「何が言いたいの?」
「責めてるんじゃない」
「じゃあ何?」
「また、お前がしんどくならないか心配してるだけ」
私は夫を見る。
「大丈夫」
今度は、はっきり言った。
「紬ちゃんが大変なんだから、今は助けるだけ」
夫は、それ以上言わなかった。
「ならいいけど」
私は、腹が立った。どうしてみんな、私を疑うのだろう。私は何もしていない。困っている子を、助けているだけ。美咲が起きるまで。母親が戻ってくるまで。
その代わりを、少しだけ、しているだけ。
ある日、美咲の母親に言われた。
「水見さんがいてくれて、本当によかった」
病院の廊下だった。
「私も、できることしかしてないので」
「紬、水見さんのところだと落ち着くみたいで」
「小さい頃からずっと一緒ですから」
「陽向くんもいるしね」
「はい」
私は頭を下げた。
「昔から、家族みたいなものなので」
家族。口にしてから、胸が温かくなった。好きな言葉だった。家族みたい。本当の家族ではない。でも、限りなく、家族に近い。
私は、それで十分だと思った。美咲が、目を覚ますまでは私が紬のそばにいればいい。
それだけ。ただ、一つだけ。
誰にも話していないことがあった。
事故の日。
私は、美咲と会っていた。
スーパーで、偶然会った。
それから、喫茶店へ行った。
話をした。紬のこと。私のこと。ママという呼び方。
――あなたは、紬の母親じゃないから。
そう言われた。私は、わかってるよ。と答えた。
店を出ると、雨が降っていた。美咲は、傘を持っていなかった。私は、持っていた。
「駅まで入る?」
そう聞いた。美咲は、少し迷って
「ありがとう」
と言った。二人で、同じ傘に入った。そこまでは、覚えている。
雨の音。傘に当たる水滴。濡れた道路。美咲の肩。駅の灯り。私は、聞いた。
――もし、美咲ちゃんがいなくなったら。
――紬のこと、私に任せてくれる?
美咲は、笑わなかった。
「どういう意味?」
そう聞かれた。
そこも、覚えている。
それから、駅へ入った。
階段。濡れた床。人の声。
そこから先が、妙に曖昧だった。
美咲が、何か言った。私も何か言った。
「もう」
という言葉。
聞いた気がする。
――もう、紬に。
その先が、出てこない。
美咲が怒った。そんな気もする。
私の腕を、振り払った?
違う。
私が、何かに触れた?
誰かが、美咲に当たった?
電車に乗ろうと前を向いて、私は、歩き出した?
思い出そうとすると、雨の音だけが大きくなる。
ザーッ。ザーッ。
駅のアナウンス。誰かの足音。私の後ろには、ただ、人が歩いていく気配があるだけ。
それから、私は。
目を開けた。ベッドの中だった。
隣で、夫が寝ている。
心臓が、速く鳴っていた。夢。
そう思った。事故の日のことを、夢に見ただけ。私は水を飲みにキッチンへ行った。窓の外を見る。雨は降っていない。
大丈夫。
私は、何もしていない。警察にも話を聞かれた。駅で美咲と一緒だったことも、話した。別れたあとに、事故が起きた。
そう、事故。
誰も、私を疑わなかった。だから、何も問題はない。
それなのに、ときどき夢を見る。
雨の日。
階段。
美咲の顔。
そして、聞こえる。
――返して。
目を覚ます。それだけ。私は、疲れているのだと思った。紬のこと。病院のこと。家のこと。陽向の受験。やることが多い。記憶なんて、曖昧になることもある。
それに、思い出す必要もない。
美咲は、駅の階段から転落した。事故だった。ふらついて、誰かに当たって、そのまま落ちた。誰もが、そう言っている。
そうであるなら、事故なのだ。
私は、そう思うことにした。
だって、もし事故ではなかったのなら、私は、あの日、雨の中で何をしたのだろう。




