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まま?  作者: ありんこ
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7/10

第七話 返して

美咲は、本当に紬を遠ざけ始めた。


最初は、ほんの少しだった。


「最近、紬ちゃん来ないね」


ある日の夕方、陽向が何気なく言った。


「そうだね」


「忙しいんかな」


「受験前だしね」


「まだそこまでちゃうやろ」


陽向はそう言いながら、冷蔵庫から麦茶を出した。紬がうちに来る回数は、目に見えて減っていた。以前なら週に一度は顔を出していたのに、それが二週間に一度になり、やがて一か月近く来ないこともあった。理由はわかっていた。美咲だ。紬がうちへ来ようとすると、


「今日は家にいなさい」


と言う。夜に私へメッセージを送れば、


「もう遅いからやめなさい」


と止める。スマートフォンを覗くようになった、と紬は言った。私とのやり取りまで気にしているらしい。


《今日、行っていい?》


と紬から届いても、その少し後に、


《やっぱ無理》


と続くことが増えた。私は理由を聞かなかった。


《また今度ね》


それだけ返した。本当は、聞かなくても、わかっていたから。


ある日、紬が久しぶりにうちへ来た。制服のまま。玄関を開けるなり、


「意味わかんない」


と言った。


「何が?」


「お母さん」


紬は靴を乱暴に脱いだ。


「また?」


「またって何」


「最近ずっと美咲さんに怒ってるでしょ」


「だっておかしいもん」


「何があったの」


紬はリビングへ入ると、ソファへ座った。


「今日、ここ寄るって言っただけでダメって言われた」


「なんで?」


「知らない」


「理由は聞いた?」


「聞いたよ。最近、水見さんの家行きすぎって」


「でも最近そんな来てないじゃん」


「だから意味わかんないの」


私は何も言わなかった。紬はスマートフォンを机に置き、そのまま腕を組んだ。


「LINEも見られるし」


「見られる?」


「全部じゃないけど、『誰と話してるの』とか聞いてくる」


「それは普通じゃない? 心配なんじゃない」


「でも私がママと話してるときだけ嫌そうにする」


ママ。その呼び方に、まだ身体が反応する。何年経っても。慣れたつもりでいても。その言葉を女の子の声で聞くたび、胸の奥が少しだけ熱くなる。


「お母さん、ママのこと嫌いなのかな」


紬が言った。私は一瞬、答えに迷った。


「どうだろうね」


「絶対嫌いだよ」


「そんなことないと思うけど」


「前は普通だったのに」


「紬ちゃんが大きくなったから、考えることも変わったんじゃない?」


「何それ」


「親ってそういうものでしょ」


「ママも?」


「私?」


「私が大人になったら、急に嫌なこと言う?」


私は笑った。


「それは知らない」


「ずる」


紬も少し笑った。でも、すぐに表情が戻る。


「私がママって呼ぶのも嫌みたい」


胸が痛んだ。


「言われたの?」


「直接じゃないけど、この前『水見さんのこと、まだママって呼んでるの?』って」


「なんて答えたの」


「呼んでるけど、って」


「怒られた?」


「『やめたほうがいいんじゃない』って」


私は黙った。美咲の声が、頭の中で蘇る。――紬には、私が母親だから。


あのとき、美咲は私に距離を置いてほしいと言った。私はその後、本当に少し距離を置いたつもりだった。夜に紬から相談が来ても、急ぎでなければ翌日に返した。喧嘩をして家を飛び出してきても、まず美咲に連絡した。美咲を飛び越えて、私が決めるようなことはしなかった。だから、これ以上、何をすればいいのだろう。


「じゃあ、やめたほうがいいね」


私は言った。紬が顔を上げた。


「何を?」


「ママって呼ぶの」


明らかに驚いた顔だった。


「なんで?」


「本当のお母さんが嫌がるなら」


私は笑った。なるべく、何でもないことのように。


「私はただの、陽向のお母さんだから」


言った瞬間、胸の奥が痛んだ。自分で言ったのに。ただの、陽向のお母さん。


それは、間違っていない。私は陽向の母親。紬の母親ではない。ずっと、そう言い聞かせてきた。紬はしばらく黙っていた。表情が読めなかった。私は立ち上がった。


「お茶、おかわりいる?」


「いらない」


「お菓子は?」


「いらない」


機嫌を悪くさせたかな。そう思った。そのとき、


「嫌」


紬が言った。


「え?」


「やめない」


「でも」


「嫌だって」


紬は私を見る。真っ直ぐに。


「私にとっては陽向ママだってママだもん」


何も言えなかった。


「本当のお母さんがいるからダメって、意味わかんない」


「紬ちゃん」


「お母さんはお母さんだよ。でもママもママ」


私は、口を開いた。何か、正しいことを言わなければいけなかった。


美咲さんが悲しむよ。


そういう呼び方は誤解されるよ。


私はあなたの母親じゃないよ。


どれでもよかった。でも、何も出てこなかった。


紬が自分で言った。私にとってはママ。それだけで、胸の中が満たされていく。


美咲。


聞いた?


あなたの娘が、自分で言ったのよ。私がそう呼べと命令したんじゃない。紬が。


自分で選んだ。


「……そっか」


やっと。


それだけ言った。


「怒らないの?」


「何を?」


「ママって呼ぶの」


私は笑った。


「怒らないよ」


紬も少しだけ笑った。その日、陽向が帰ってくると、紬は何事もなかったように、


「遅い」


と言った。


「何が」


「今日遊ぶって言ってたじゃん」


「俺言ってないし」


「言った」


「言ってない」


「言った!」


いつもの二人だった。陽向が冷蔵庫を開ける。


「母さん、プリン食っていい?」


「一個だけね」


紬が横から、


「私も」


と言う。


「一個しかないよ」


「じゃあ半分」


「また?」


「半分ずつ」


陽向は面倒そうな顔をしながら、結局スプーンを二本出した。私は二人を見ながら思った。これが壊れるのは、嫌だ。紬が大人になって、陽向と別々の人生を歩くようになるのは仕方ない。


でも、美咲が無理やり、今ある関係を切ろうとするのは違う。


そう思った。


数週間後。


夕方のスーパーで、美咲に会った。私は夕飯の材料を買っていた。美咲は一人だった。


目が合った瞬間、互いに少しだけ動きを止めた。


以前なら、


「あ、偶然」


と笑っていたはずなのに。その日は違った。


「美咲さん」


私から声をかけた。


「久しぶり」


「うん」


美咲は笑った。でも、疲れていた。顔色が悪いわけではない。ただ、ずっと眠れていないような目をしていた。


「少し話せる?」


美咲から言った。


「今?」


「うん」


私は買い物かごを見る。急ぎのものはない。陽向には、今日は少し遅くなると連絡すればいい。


「いいよ」


スーパーの近くにある、小さな喫茶店へ入った。


昔、美咲と何度か来たことのある店だった。まだ子どもたちが幼稚園の頃。二人を送り届けたあと。


「一時間だけお茶しよう」


と言って、ここで話した。先生のこと。夫のこと。子どもの好き嫌い。どうでもいい話。あの頃、こんなふうになるなんて、思っていなかった。


美咲はコーヒー。私は紅茶を頼んだ。


飲み物が届くまで、二人とも、ほとんど話さなかった。


先に口を開いたのは、美咲だった。


「紬に、ママって呼ばせてるんだって?」


私はカップに触れる。


「呼ばせてないよ」


「でも呼んでる」


「紬が勝手に」


「やめさせて」


私は顔を上げた。


「どうして?」


美咲が眉を寄せる。


「どうしてって……」


「もう十五歳だよ」


「だから?」


「幼稚園児じゃない。嫌なら本人に言えばいいじゃない」


「言ってるよ」


「じゃあ、それでいいでしょ」


「やめないの」


「私に言われても」


美咲はしばらく黙った。それから、


「水見さんが、『呼んでいい』って言ったんでしょ」


心臓が小さく跳ねる。


十歳。ハンバーグ。食器を拭く紬。

――じゃあ、私のこともママって呼んでいいのよ。


「五年前の冗談だよ」


「でも、それからずっと呼んでる」


「毎回じゃない」


「そういう問題じゃない」


「じゃあ何が問題なの?」


自分でも、声が冷たくなっているのがわかった。美咲が私を見る。その目。初めてではなかった。


警戒。


前にも、同じ目で見られた。


でも、今日は、もっと強かった。


「あなたは、紬の母親じゃないから」


まただ。同じ言葉。私は笑った。


「わかってるよ」


「本当に?」


「何それ」


「本当に、わかってる?」


私は美咲を見た。


「わかってるに決まってるでしょ」


「だったら、もう少し距離を取って」


「取ってるよ」


「全然取れてない」


「前みたいにしょっちゅう家に呼んでないし、夜も連絡してない」


「紬が何かあるたびに水見さんのところへ行く」


「それは紬が自分で来るから」


「だから、それを受け入れないでほしいの」


「困って来た子を追い返せってこと?」


「違う」


「同じじゃない」


美咲が唇を噛んだ。


「この前ね」


「何?」


「紬に言われたの」


美咲の声が。少し震えた。


「『ママのほうが私のことわかってる』って」


私は黙った。


「私の目の前で」


美咲は笑った。笑ったけれど、目は笑っていなかった。


「自分の娘にそれ言われる気持ち、わかる?」


私は、答えなかった。


「十五年間育ててきたのは私だよ」


美咲は続けた。


「夜泣きしたときも、病気したときも、保育園行きたくないって泣いたときも、ずっと私がいた」


知っている。


「水見さんが助けてくれたことは感謝してる。ほんとに」


「うん」


「でも、紬は私の娘なの」


「わかってる」


「じゃあ返してよ」


その言葉に、一瞬。時間が止まった。


「……何を?」


美咲自身も、言ってから驚いたようだった。でも、訂正しなかった。


「紬を」


私は、笑いそうになった。


返して。


その言い方は、おかしい。


私は、何も取っていない。


紬は毎日、美咲の家へ帰っている。美咲と暮らしている。美咲をお母さんと呼んでいる。私は、ほんの少し、紬の人生にいるだけ。それなのに。


返して。


まるで、私が紬を奪ったみたいに。


「紬は最初から美咲さんのところにいるじゃない」


「そういう意味じゃない」


「じゃあ、何を返せばいいの?」


美咲は答えられなかった。私は紅茶を飲んだ。


少し、冷めていた。


しばらくして、美咲が言った。


「紬が、私を必要としなくなるのが怖い」


その声は、小さかった。


私は美咲を見た。


初めて、少しだけ、かわいそうだと思った。


この人も、母親なのだ。自分の娘が、別の女をママと呼ぶ。


相談も。秘密も。進路の悩みも。別の女に先に話す。


嫌に決まっている。わかる。もし、莉央が生きていて、誰か別の人をママと呼んでいたら。


私は、どうしただろう。そう考えた瞬間、胸が痛んだ。


「ごめん」


私は言った。美咲が顔を上げる。


「紬ちゃんとは、もう少し距離取る」


本当に、そうしようと思った。


「ありがとう」


美咲は小さく言った。それで、話は終わった。


店を出る。


外は雨だった。


さっきまで降っていなかったのに、かなり強い。


美咲が空を見る。


「最悪」


「傘ない?」


「持ってない」


私は持っていた。


折り畳みではなく、大きめの傘。


「駅まで入る?」


そう聞いた。美咲は少し迷った。


「いいの?」


「これくらい」


「ありがとう」


傘を開く。二人で入る。


昔、子どもたちが小さかった頃にも、こんなことがあった。


公園の帰り。


急に雨が降って、美咲と紬と、私と陽向。

一つの傘では足りなくて、二人で子どもを抱えて走った。


笑いながら。


あの頃の美咲は、私を疑っていなかった。


駅までの道。


雨の音だけが、傘に響く。


二人とも、ほとんど話さなかった。


道が狭くなる。


美咲が、少しこちら側へ寄る。肩が触れた。


私は、美咲の横顔を見た。


この人がいなければ、紬は、どうなるのだろう。ふと、そう思った。


ただの想像。交通事故。病気。人生なんて、何があるかわからない。


莉央だって。


朝は、ただの風邪だった。


それが。


夜には、


いなくなった。


人は、突然いなくなる。母親だからといって、永遠にいるわけではない。


もし、美咲がいなくなったら、紬は。


父親のところへ行くのだろうか。祖父母?親戚?


それとも。


もう十五歳だから、ある程度は自分で選べるのだろうか。私は、紬を引き取れるのだろうか。そこまで考えて、自分で驚いた。何を考えているの。美咲は、隣にいる。


ちゃんと、生きている。


それなのに、口が動いた。


「ねえ」


美咲がこちらを見る。


「なに?」


私は雨の向こうを見た。


駅が、もう近い。


「もし、美咲ちゃんがいなくなったら」


言ってから。美咲の足が、わずかに止まった。


「え?」


私は、続けた。


「紬のこと、私に任せてくれる?」


雨の音が、急に大きく聞こえた。


美咲は、笑わなかった。私を見る。


さっきまでとは違う目。警戒でもない。怒りでもない。それより、もっと、はっきりしたもの。


恐怖。


初めて、美咲は私を怖がった。


「……どういう意味?」


私は、自分でもなぜそんなことを聞いたのかわからなかった。


ただ、もしもの話。そう言えばよかった。


なのに。


なぜか、すぐには言葉が出てこなかった。

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