第七話 返して
美咲は、本当に紬を遠ざけ始めた。
最初は、ほんの少しだった。
「最近、紬ちゃん来ないね」
ある日の夕方、陽向が何気なく言った。
「そうだね」
「忙しいんかな」
「受験前だしね」
「まだそこまでちゃうやろ」
陽向はそう言いながら、冷蔵庫から麦茶を出した。紬がうちに来る回数は、目に見えて減っていた。以前なら週に一度は顔を出していたのに、それが二週間に一度になり、やがて一か月近く来ないこともあった。理由はわかっていた。美咲だ。紬がうちへ来ようとすると、
「今日は家にいなさい」
と言う。夜に私へメッセージを送れば、
「もう遅いからやめなさい」
と止める。スマートフォンを覗くようになった、と紬は言った。私とのやり取りまで気にしているらしい。
《今日、行っていい?》
と紬から届いても、その少し後に、
《やっぱ無理》
と続くことが増えた。私は理由を聞かなかった。
《また今度ね》
それだけ返した。本当は、聞かなくても、わかっていたから。
ある日、紬が久しぶりにうちへ来た。制服のまま。玄関を開けるなり、
「意味わかんない」
と言った。
「何が?」
「お母さん」
紬は靴を乱暴に脱いだ。
「また?」
「またって何」
「最近ずっと美咲さんに怒ってるでしょ」
「だっておかしいもん」
「何があったの」
紬はリビングへ入ると、ソファへ座った。
「今日、ここ寄るって言っただけでダメって言われた」
「なんで?」
「知らない」
「理由は聞いた?」
「聞いたよ。最近、水見さんの家行きすぎって」
「でも最近そんな来てないじゃん」
「だから意味わかんないの」
私は何も言わなかった。紬はスマートフォンを机に置き、そのまま腕を組んだ。
「LINEも見られるし」
「見られる?」
「全部じゃないけど、『誰と話してるの』とか聞いてくる」
「それは普通じゃない? 心配なんじゃない」
「でも私がママと話してるときだけ嫌そうにする」
ママ。その呼び方に、まだ身体が反応する。何年経っても。慣れたつもりでいても。その言葉を女の子の声で聞くたび、胸の奥が少しだけ熱くなる。
「お母さん、ママのこと嫌いなのかな」
紬が言った。私は一瞬、答えに迷った。
「どうだろうね」
「絶対嫌いだよ」
「そんなことないと思うけど」
「前は普通だったのに」
「紬ちゃんが大きくなったから、考えることも変わったんじゃない?」
「何それ」
「親ってそういうものでしょ」
「ママも?」
「私?」
「私が大人になったら、急に嫌なこと言う?」
私は笑った。
「それは知らない」
「ずる」
紬も少し笑った。でも、すぐに表情が戻る。
「私がママって呼ぶのも嫌みたい」
胸が痛んだ。
「言われたの?」
「直接じゃないけど、この前『水見さんのこと、まだママって呼んでるの?』って」
「なんて答えたの」
「呼んでるけど、って」
「怒られた?」
「『やめたほうがいいんじゃない』って」
私は黙った。美咲の声が、頭の中で蘇る。――紬には、私が母親だから。
あのとき、美咲は私に距離を置いてほしいと言った。私はその後、本当に少し距離を置いたつもりだった。夜に紬から相談が来ても、急ぎでなければ翌日に返した。喧嘩をして家を飛び出してきても、まず美咲に連絡した。美咲を飛び越えて、私が決めるようなことはしなかった。だから、これ以上、何をすればいいのだろう。
「じゃあ、やめたほうがいいね」
私は言った。紬が顔を上げた。
「何を?」
「ママって呼ぶの」
明らかに驚いた顔だった。
「なんで?」
「本当のお母さんが嫌がるなら」
私は笑った。なるべく、何でもないことのように。
「私はただの、陽向のお母さんだから」
言った瞬間、胸の奥が痛んだ。自分で言ったのに。ただの、陽向のお母さん。
それは、間違っていない。私は陽向の母親。紬の母親ではない。ずっと、そう言い聞かせてきた。紬はしばらく黙っていた。表情が読めなかった。私は立ち上がった。
「お茶、おかわりいる?」
「いらない」
「お菓子は?」
「いらない」
機嫌を悪くさせたかな。そう思った。そのとき、
「嫌」
紬が言った。
「え?」
「やめない」
「でも」
「嫌だって」
紬は私を見る。真っ直ぐに。
「私にとっては陽向ママだってママだもん」
何も言えなかった。
「本当のお母さんがいるからダメって、意味わかんない」
「紬ちゃん」
「お母さんはお母さんだよ。でもママもママ」
私は、口を開いた。何か、正しいことを言わなければいけなかった。
美咲さんが悲しむよ。
そういう呼び方は誤解されるよ。
私はあなたの母親じゃないよ。
どれでもよかった。でも、何も出てこなかった。
紬が自分で言った。私にとってはママ。それだけで、胸の中が満たされていく。
美咲。
聞いた?
あなたの娘が、自分で言ったのよ。私がそう呼べと命令したんじゃない。紬が。
自分で選んだ。
「……そっか」
やっと。
それだけ言った。
「怒らないの?」
「何を?」
「ママって呼ぶの」
私は笑った。
「怒らないよ」
紬も少しだけ笑った。その日、陽向が帰ってくると、紬は何事もなかったように、
「遅い」
と言った。
「何が」
「今日遊ぶって言ってたじゃん」
「俺言ってないし」
「言った」
「言ってない」
「言った!」
いつもの二人だった。陽向が冷蔵庫を開ける。
「母さん、プリン食っていい?」
「一個だけね」
紬が横から、
「私も」
と言う。
「一個しかないよ」
「じゃあ半分」
「また?」
「半分ずつ」
陽向は面倒そうな顔をしながら、結局スプーンを二本出した。私は二人を見ながら思った。これが壊れるのは、嫌だ。紬が大人になって、陽向と別々の人生を歩くようになるのは仕方ない。
でも、美咲が無理やり、今ある関係を切ろうとするのは違う。
そう思った。
数週間後。
夕方のスーパーで、美咲に会った。私は夕飯の材料を買っていた。美咲は一人だった。
目が合った瞬間、互いに少しだけ動きを止めた。
以前なら、
「あ、偶然」
と笑っていたはずなのに。その日は違った。
「美咲さん」
私から声をかけた。
「久しぶり」
「うん」
美咲は笑った。でも、疲れていた。顔色が悪いわけではない。ただ、ずっと眠れていないような目をしていた。
「少し話せる?」
美咲から言った。
「今?」
「うん」
私は買い物かごを見る。急ぎのものはない。陽向には、今日は少し遅くなると連絡すればいい。
「いいよ」
スーパーの近くにある、小さな喫茶店へ入った。
昔、美咲と何度か来たことのある店だった。まだ子どもたちが幼稚園の頃。二人を送り届けたあと。
「一時間だけお茶しよう」
と言って、ここで話した。先生のこと。夫のこと。子どもの好き嫌い。どうでもいい話。あの頃、こんなふうになるなんて、思っていなかった。
美咲はコーヒー。私は紅茶を頼んだ。
飲み物が届くまで、二人とも、ほとんど話さなかった。
先に口を開いたのは、美咲だった。
「紬に、ママって呼ばせてるんだって?」
私はカップに触れる。
「呼ばせてないよ」
「でも呼んでる」
「紬が勝手に」
「やめさせて」
私は顔を上げた。
「どうして?」
美咲が眉を寄せる。
「どうしてって……」
「もう十五歳だよ」
「だから?」
「幼稚園児じゃない。嫌なら本人に言えばいいじゃない」
「言ってるよ」
「じゃあ、それでいいでしょ」
「やめないの」
「私に言われても」
美咲はしばらく黙った。それから、
「水見さんが、『呼んでいい』って言ったんでしょ」
心臓が小さく跳ねる。
十歳。ハンバーグ。食器を拭く紬。
――じゃあ、私のこともママって呼んでいいのよ。
「五年前の冗談だよ」
「でも、それからずっと呼んでる」
「毎回じゃない」
「そういう問題じゃない」
「じゃあ何が問題なの?」
自分でも、声が冷たくなっているのがわかった。美咲が私を見る。その目。初めてではなかった。
警戒。
前にも、同じ目で見られた。
でも、今日は、もっと強かった。
「あなたは、紬の母親じゃないから」
まただ。同じ言葉。私は笑った。
「わかってるよ」
「本当に?」
「何それ」
「本当に、わかってる?」
私は美咲を見た。
「わかってるに決まってるでしょ」
「だったら、もう少し距離を取って」
「取ってるよ」
「全然取れてない」
「前みたいにしょっちゅう家に呼んでないし、夜も連絡してない」
「紬が何かあるたびに水見さんのところへ行く」
「それは紬が自分で来るから」
「だから、それを受け入れないでほしいの」
「困って来た子を追い返せってこと?」
「違う」
「同じじゃない」
美咲が唇を噛んだ。
「この前ね」
「何?」
「紬に言われたの」
美咲の声が。少し震えた。
「『ママのほうが私のことわかってる』って」
私は黙った。
「私の目の前で」
美咲は笑った。笑ったけれど、目は笑っていなかった。
「自分の娘にそれ言われる気持ち、わかる?」
私は、答えなかった。
「十五年間育ててきたのは私だよ」
美咲は続けた。
「夜泣きしたときも、病気したときも、保育園行きたくないって泣いたときも、ずっと私がいた」
知っている。
「水見さんが助けてくれたことは感謝してる。ほんとに」
「うん」
「でも、紬は私の娘なの」
「わかってる」
「じゃあ返してよ」
その言葉に、一瞬。時間が止まった。
「……何を?」
美咲自身も、言ってから驚いたようだった。でも、訂正しなかった。
「紬を」
私は、笑いそうになった。
返して。
その言い方は、おかしい。
私は、何も取っていない。
紬は毎日、美咲の家へ帰っている。美咲と暮らしている。美咲をお母さんと呼んでいる。私は、ほんの少し、紬の人生にいるだけ。それなのに。
返して。
まるで、私が紬を奪ったみたいに。
「紬は最初から美咲さんのところにいるじゃない」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、何を返せばいいの?」
美咲は答えられなかった。私は紅茶を飲んだ。
少し、冷めていた。
しばらくして、美咲が言った。
「紬が、私を必要としなくなるのが怖い」
その声は、小さかった。
私は美咲を見た。
初めて、少しだけ、かわいそうだと思った。
この人も、母親なのだ。自分の娘が、別の女をママと呼ぶ。
相談も。秘密も。進路の悩みも。別の女に先に話す。
嫌に決まっている。わかる。もし、莉央が生きていて、誰か別の人をママと呼んでいたら。
私は、どうしただろう。そう考えた瞬間、胸が痛んだ。
「ごめん」
私は言った。美咲が顔を上げる。
「紬ちゃんとは、もう少し距離取る」
本当に、そうしようと思った。
「ありがとう」
美咲は小さく言った。それで、話は終わった。
店を出る。
外は雨だった。
さっきまで降っていなかったのに、かなり強い。
美咲が空を見る。
「最悪」
「傘ない?」
「持ってない」
私は持っていた。
折り畳みではなく、大きめの傘。
「駅まで入る?」
そう聞いた。美咲は少し迷った。
「いいの?」
「これくらい」
「ありがとう」
傘を開く。二人で入る。
昔、子どもたちが小さかった頃にも、こんなことがあった。
公園の帰り。
急に雨が降って、美咲と紬と、私と陽向。
一つの傘では足りなくて、二人で子どもを抱えて走った。
笑いながら。
あの頃の美咲は、私を疑っていなかった。
駅までの道。
雨の音だけが、傘に響く。
二人とも、ほとんど話さなかった。
道が狭くなる。
美咲が、少しこちら側へ寄る。肩が触れた。
私は、美咲の横顔を見た。
この人がいなければ、紬は、どうなるのだろう。ふと、そう思った。
ただの想像。交通事故。病気。人生なんて、何があるかわからない。
莉央だって。
朝は、ただの風邪だった。
それが。
夜には、
いなくなった。
人は、突然いなくなる。母親だからといって、永遠にいるわけではない。
もし、美咲がいなくなったら、紬は。
父親のところへ行くのだろうか。祖父母?親戚?
それとも。
もう十五歳だから、ある程度は自分で選べるのだろうか。私は、紬を引き取れるのだろうか。そこまで考えて、自分で驚いた。何を考えているの。美咲は、隣にいる。
ちゃんと、生きている。
それなのに、口が動いた。
「ねえ」
美咲がこちらを見る。
「なに?」
私は雨の向こうを見た。
駅が、もう近い。
「もし、美咲ちゃんがいなくなったら」
言ってから。美咲の足が、わずかに止まった。
「え?」
私は、続けた。
「紬のこと、私に任せてくれる?」
雨の音が、急に大きく聞こえた。
美咲は、笑わなかった。私を見る。
さっきまでとは違う目。警戒でもない。怒りでもない。それより、もっと、はっきりしたもの。
恐怖。
初めて、美咲は私を怖がった。
「……どういう意味?」
私は、自分でもなぜそんなことを聞いたのかわからなかった。
ただ、もしもの話。そう言えばよかった。
なのに。
なぜか、すぐには言葉が出てこなかった。




