第六話 二人目の母親
十二歳になった紬は、少しずつ私の知らない顔を持つようになっていた。
服の好みも変わったし、休日に何をしているのか、全部を知っているわけではなくなった。学校の友達の名前も増え、スマートフォンを見ながら一人で笑っていることもある。
それでいい。子どもは大きくなれば、親に見せない顔を持つものだ。
陽向だってそうだった。昔は何でも話していたのに、最近は友達とのことを聞いても、「別に」としか言わない日がある。夫に相談していることもあるらしく、それを少し寂しく思いながらも、私は口を出しすぎないようにしていた。
だから、紬にも同じようにしようと思っていた。私は陽向の母親で、紬は幼なじみの娘。近いけれど、近すぎない。その距離を守るつもりだった。
ある日の夕方、紬が一人でうちへ来た。陽向は部活の体験に行っていて、まだ帰っていなかった。
「今日、陽向いないよ」
「知ってる」
「じゃあ何しに来たの?」
「別に」
そう言って、紬はいつものようにソファへ座った。
何かある。長く見てきたから、すぐにわかった。
「お茶いる?」
「うん」
私は麦茶を入れて、紬の前に置いた。紬はコップを両手で持ちながら、しばらく黙っていた。
「どうしたの?」
「別に」
「別にって顔じゃないけど」
「陽向ママ、そういうのすぐ気づくよね」
「何年見てると思ってるの」
そう言うと、紬は少し笑った。けれど、すぐにまた俯いた。
「絶対言わない?」
「何を?」
「お母さんに」
私は紬を見た。
「内容による」
「えー」
「危ないことなら言うし、学校で何かあったとかなら考える」
「そういうのじゃない」
「じゃあ聞いてから決める」
紬は少し迷ってから、小さな声で言った。
「好きな人できた」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。それから笑った。
「なに、その顔」
「いや、もっと大変な話かと思った」
「私にとっては大変なんだけど」
「ごめんごめん」
紬がクッションを抱える。
「同じクラス?」
「言わない」
「じゃあ部活?」
「言わない」
「陽向が知ってる人?」
「それも言わない」
「何も聞けないじゃん」
「聞くだけ聞いて」
私は笑った。
「はいはい」
紬は、ぽつぽつと話し始めた。同じクラスではない。去年から少し気になっていた。話す機会が増えて、最近よく目が合う。でも向こうがどう思っているのかわからない。LINEを送るか迷っている。
私にとっては、どれも可愛らしい悩みだった。でも紬にとっては、本気なのだろう。私は茶化さずに聞いた。
「で、どうしたいの?」
「わかんない」
「付き合いたい?」
「それもわかんない」
「じゃあまず、もうちょっと話してみたら?」
「何話すの」
「普通のことでいいじゃん。今日の授業とか、部活とか」
「そんなのでいいの?」
「いきなり好きですって言わなくていいでしょ」
紬は真剣な顔で頷いた。その表情が少し大人びて見えた。
「お母さんには絶対言わないでね」
帰り際、紬はもう一度言った。
「言わないよ」
「ほんとに?」
「ほんと」
「陽向にも」
「言わない」
「絶対ね」
「わかったって」
紬は安心したように笑って帰っていった。玄関の扉が閉まったあと、私はしばらくそこに立っていた。
嬉しかった。好きな人ができたことよりも、その話を最初に私にしてくれたことが。美咲より、先に。
紬の大切なことを、私は知った。その事実が、胸の奥をくすぐった。もちろん、親に言えないことを親以外の大人に相談するなんて珍しくない。きっと、年頃の女の子にはよくあることだ。
そう思った。
それでも、少しだけ特別なものをもらったような気がした。
十三歳になる頃には、紬が私に話すことはさらに増えた。友達との喧嘩。部活で先輩に言われたこと。好きだった男の子と、結局何もなかったこと。新しく仲良くなった子のこと。
私は全部を聞いた。何でも肯定するわけではなかった。紬が悪いと思えば、そう言った。
「それ、紬ちゃんも言い方きつかったんじゃない?」
「でも向こうが先に言ったんだよ」
「先に言われたら何言ってもいいわけじゃないでしょ」
「陽向ママ、たまにお母さんよりうるさい」
「じゃあ相談しなきゃいいじゃん」
「それは嫌」
そんなやり取りも増えた。陽向が横で聞いていることもあった。
「紬、また母さんに相談してんの?」
「悪い?」
「別に。でも母さんに言うと長いぞ」
「知ってる」
「お前も俺と同じ目に遭ってるな」
「陽向よりマシ」
「なんでやねん」
二人が言い合う。私はその会話を聞きながら、笑った。陽向も、紬が私に相談することを特に気にしていなかった。むしろ、面倒な話を自分に振られなくて助かるくらいに思っているようだった。
十四歳。
ある朝、紬からメッセージが届いた。
《今日学校休む》
私はちょうど陽向を送り出したところだった。
《風邪?》
すぐに返事が来た。
《違う》
《じゃあどうしたの》
少し間があってから、
《生理重い》
とだけ届いた。私はスマートフォンを見ながら、少し迷った。もう、そんな年齢なんだ。当たり前なのに、不思議な感じがした。
《お腹痛い?》
《めっちゃ痛い》
《薬飲んだ?》
《飲んだけどまだ痛い》
私は冷蔵庫を開けた。その日の夕飯用に買っていたスープの材料がある。身体を温めたほうがいいだろうか。何か持っていこうか。そこまで考えて、一度手を止めた。
美咲がいる。私が出る幕じゃない。
《無理して動かないで、温かくして寝てな》
それだけ送った。でも、昼過ぎにまた連絡が来た。
《暇》
私は笑った。
《寝てなさい》
《寝すぎた》
《じゃあ映画でも見たら》
《おすすめある?》
そこから、しばらくメッセージをやり取りした。映画の話。学校の話。陽向の愚痴。最後に、
《お母さんにはこういう話しにくい》
と送られてきた。指が止まった。
《なんで?》
《なんか恥ずい》
《私は恥ずかしくないの?》
《陽向ママはなんか違う》
なんか違う。その言葉を、私は何度も読み返した。どう違うのかは聞かなかった。聞いてしまうと、その答えを期待している自分がわかってしまいそうだった。
十五歳になると、進路の話が増えた。
陽向も紬も、高校を具体的に考える年齢になっていた。陽向は、部活を続けられる学校をいくつか見ていた。成績だけならもう少し上も狙えそうだったけれど、本人が通いたいと言う学校を夫と一緒に調べ、見学にも行った。
「母さん、ここええと思う?」
学校案内をテーブルに広げながら、陽向が聞く。
「いいと思うよ。でも電車一本じゃないよ」
「わかってる」
「朝早いけど大丈夫?」
「いける」
「三年間だからね。勢いだけで決めないでよ」
「わかってるって」
夫が横から、
「本人が行きたいならいいんじゃないか」
と言う。
「だから止めてないでしょ」
「母さん、心配しすぎ」
陽向が笑う。私はちゃんと、陽向の進路を考えていた。説明会の日程も、内申も、通学時間も調べた。必要なら塾の面談にも行った。陽向が自分で決めた道を歩けるようにしたいと思っていた。
その一方で、紬の進路についても、自然と耳に入ってきた。紬は美術系の活動が盛んな高校へ行きたがっていた。けれど美咲は、もう少し進学実績のある普通科を勧めていた。
「絵なんて趣味でできるでしょ」
美咲にそう言われたらしい。
「三年間通うの私なのに」
紬は何度も愚痴をこぼした。
「でも、美咲さんが心配する気持ちもわかるよ」
私は言った。
「なんで?」
「将来の選択肢が狭くならないか気にしてるんじゃない?」
「陽向ママまでお母さんの味方?」
「味方とかじゃない」
「じゃあどっち」
「どっちにもならない」
紬は不満そうな顔をした。
「ずるい」
「進路なんだから、自分で決めるの。私が決めることじゃない」
それは本心だった。私は紬に、好きな学校へ行ってほしいと思っていた。でも、私が誘導してはいけない。美咲と紬が話し合うべきことだ。
そのつもりだった。
ある夜、九時を過ぎた頃。玄関のチャイムが鳴った。夫は風呂。陽向は自分の部屋で勉強していた。こんな時間に誰だろうと思いながらドアを開けると、紬が立っていた。
「紬ちゃん?」
制服姿だった。目が赤い。
「どうしたの?」
「……入っていい?」
私はすぐに中へ入れた。
「美咲さんは?」
返事がない。
「喧嘩した?」
紬が頷いた。リビングへ連れていくと、陽向が部屋から出てきた。
「紬?」
「陽向、ちょっとお茶取って」
私が言うと、陽向は紬の顔を見て何か察したらしく、何も聞かずにキッチンへ行った。
「はい」
麦茶を置く。
「ありがとう」
「俺、部屋いるから」
そう言って、陽向は戻った。その気遣いに、少し驚いた。いつの間にか、陽向もこういうことができる年齢になっていた。
紬はしばらく黙っていた。
「何があったの?」
「高校のこと」
「また?」
「もう無理」
「何て言われたの」
「私のためって言うけど、全然私のこと見てない」
涙が落ちた。
「こっちの学校行きたいって何回も言ってるのに、そんなとこ行ってどうするのって」
「うん」
「将来困るって。でも、私がやりたいことなのに」
「うん」
「ママ、わかってくれない」
その瞬間。私は息を止めた。ママ。どちらのことを言った?美咲?私?
一瞬だけ。本当に一瞬だけ、わからなかった。
すぐに意味はわかった。美咲のことだ。当然だ。紬が今、喧嘩してきた母親。それなのに、心のどこかで別の答えを期待した自分がいた。私は自分に気づかないふりをして、紬の隣へ座った。
「美咲さんも、紬が嫌いで言ってるわけじゃないよ」
「わかってる」
「心配なんだと思う」
「わかってるけど、ずっと否定されたら嫌になる」
「うん」
紬は泣いた。十五歳の女の子が泣いている。私はその背中を撫でた。昔のように膝の上に乗るほど小さくはない。もう、私とほとんど変わらない背丈になっていた。それでも。泣いている紬を見ると、抱きしめたくなった。
「私は紬の味方よ」
自然に言葉が出た。紬が顔を上げる。
「ほんと?」
「うん。ただし、何でも紬が正しいって意味じゃないからね」
少し笑う。
「進路については、ちゃんともう一回話したほうがいい。でも、紬が何をしたいのかは、最後まで伝えたほうがいい」
「聞いてくれるかな」
「感情的になってるときは無理。今日はもう帰って、明日でもいいから」
「帰りたくない」
「じゃあ美咲さんに連絡するよ」
紬が嫌そうな顔をした。
「でも、黙って泊めるわけにはいかないでしょ」
私は美咲へ電話した。なかなか出なかった。三回目で繋がった。
「もしもし」
美咲の声も疲れていた。
「紬、うちにいるよ」
少し沈黙。
「やっぱり」
「今日はうちに泊めようか?」
「……ごめん」
「大丈夫」
「本当にごめんね」
「明日、落ち着いて話したら」
「うん」
電話を切る。紬はそのまま、うちに泊まった。陽向が昔使っていた予備の布団を出した。
「俺の部屋使う?」
陽向が聞いた。
「いい。リビングで寝る」
「じゃあ俺ゲームしていい?」
「空気読め」
「はい」
紬が少し笑った。その笑顔を見て、私は安心した。
翌朝。
夫が紬を見て、
「お、久しぶりに泊まったな」
と普通に言った。事情は昨夜、簡単に話していた。夫もそれ以上は聞かなかった。四人で朝食を食べた。陽向が、
「紬、卵いる?」
と聞く。
「いる」
「一個しかない」
「じゃあ半分」
「半分どうやって分けんの」
「切ればいいじゃん」
「めんど」
いつもの二人だった。その光景を見ながら、私は妙な安心感を覚えた。
これでいい。紬が困ったときに来られる場所が、一つくらいあってもいい。それがうちなら。悪いことではない。
そう思った。
翌日の夕方。
美咲から電話が来た。
「昨日、紬そっちにいた?」
「うん」
「ごめんね」
「全然。ちゃんと朝帰したよ」
「ありがとう」
そこで会話が終わると思った。でも、美咲は黙ったままだった。
「どうしたの?」
「……水見さん」
「うん」
「最近、紬が水見さんに頼りすぎてる気がする」
私は少し驚いた。
「そう?」
「私と喧嘩すると、すぐそっち行くでしょう?」
「昨日はたまたまじゃない?」
「昨日だけじゃないよ」
美咲の声は、責めているわけではなかった。むしろ困っているようだった。
「何かあると、水見さんならわかってくれるって言うの」
「それは……」
「恋愛のことも、水見さんに話してたんでしょ?」
心臓が跳ねた。
「紬が言ったの?」
「うん。喧嘩したときに」
私は黙った。秘密にすると約束していた。でも、紬自身が話したのなら仕方ない。
「ごめん。言わないでって言われてたから」
「それはいいの」
美咲はすぐに答えた。
「そこを責めたいんじゃない」
「じゃあ?」
「なんて言えばいいかわからないけど……」
美咲は少し間を置いた。
「私より水見さんに話すことが増えてる」
私は笑ってしまった。軽く流したかった。
「年頃だからじゃない? 親には言いにくいこともあるよ」
「そうなんだけど」
「逃げ場があるのはいいことじゃない?」
「……そうなのかな」
「全部親に言わなきゃいけないわけじゃないでしょ」
「うん」
美咲はそれ以上言わなかった。電話を切ったあと。私は少しだけ違和感を覚えた。美咲は何を気にしているのだろう。紬が私を信頼している。ただそれだけ。
私は美咲の代わりになろうとしているわけじゃない。秘密を聞き出しているわけでもない。紬が自分から話してくる。それを聞いているだけだ。それなのに。
数日後。
美咲が家に来た。
紬も陽向もいない時間だった。
「急にごめん」
「どうしたの?」
私はコーヒーを出した。美咲はなかなか飲まなかった。カップに手を添えたまま、俯いている。
「水見さん」
「うん」
「ちょっと、お願いがあって」
その声を聞いた瞬間。嫌な予感がした。
「何?」
美咲は一度、深く息を吸った。
「紬と、少し距離を置いてもらえないかな」
意味がわからなかった。
「どういう意味?」
「完全に会わないでとかじゃないの」
「じゃあ何?」
「今までみたいに、何でも相談に乗ったり、泊めたりするのを少しだけ減らしてほしい」
私は笑った。うまく笑えていたかはわからない。
「どうして?」
「水見さんが悪いって言ってるんじゃないよ」
「じゃあ、どういう意味?」
美咲は困ったように眉を寄せた。
「紬が、私と話さなくなってるの」
「それは私のせいなの?」
「そういう言い方しないで」
「だって、私に距離を置けって言ってるんでしょ」
「責めたいんじゃない」
「私だって、紬から相談されたら聞くだけだよ」
「わかってる」
「困って来たら追い返せってこと?」
「そうじゃなくて」
「じゃあどうしてほしいの?」
美咲が黙った。長い沈黙だった。そして、静かに言った。
「紬には、私が母親だから」
その言葉が。妙に耳に残った。紬には、私が母親だから。私は何も言わなかった。美咲が続ける。
「水見さんがずっと紬を可愛がってくれたこと、本当に感謝してる。陽向くんと幼なじみで、家族みたいに接してくれたのも」
「うん」
「でも最近、ちょっと近すぎると思う」
「近すぎる?」
「紬、水見さんのことママって呼ぶでしょう」
胸が冷たくなった。
「ふざけてるだけだよ」
「最初はね」
「今だってそう」
「そうかな」
「何が言いたいの?」
美咲が私を見る。こんな目で見られたのは初めてだった。怒っているわけではない。怖がっているわけでもない。ただ、警戒している。そのことがわかった。
「私は、紬のお母さんでいたいの」
美咲は言った。
「当たり前じゃない」
「だから」
「私が取るとでも思ってる?」
思ったより強い声が出た。美咲が驚く。私も驚いた。
「そんなこと言ってないよ」
「じゃあ何」
「……ごめん」
美咲は立ち上がった。
「今日は帰る」
「美咲さん」
「少しだけ考えて」
玄関まで見送った。美咲は最後に、
「水見さんのこと、嫌いになったわけじゃないから」
と言った。
私は返事をしなかった。
扉が閉まる。静かになった。私はリビングへ戻った。
コーヒーは、二つともほとんど減っていなかった。
ソファに座る。腹は立たなかった。いや。腹が立っていたのかもしれない。でも、それよりも、おかしいと思った。
何がおかしいのか。
最初はわからなかった。
美咲の言葉を繰り返す。
紬には、私が母親だから。
私が母親。
母親。
私は立ち上がって、棚からアルバムを出した。
陽向のアルバム。
莉央のアルバム。
そして、いつの間にか増えていた、陽向と紬が一緒に写っている写真。
最初の一枚。
二歳。
横断歩道で会った少し後。
公園で撮った写真。
陽向と紬が砂場に座っている。
次。
三歳。
幼稚園。
四歳。
家のリビング。
五歳。
誕生日。
六歳。
入学式。
七歳。
八歳。
九歳。
十歳。
十一歳。
十二歳。
十三歳。
十四歳。
十五歳。
私は、十五年分の紬を知っている。
いや、十五年ではない。出会ったのは二歳だから、十三年。
それでも、十三年。十分に長い。
母親とは、何だろう。産んだ人?それだけ?血が繋がっている人?毎日一緒に暮らした人?それなら、私は違う。
わかっている。
でも。
紬が好きな食べ物を知っている。嫌いなものも。体調が悪いときに何が食べられるかも。眠れないときにどんな話をすると落ち着くかも。怒っているとき、すぐ話しかけないほうがいいことも。本当に傷ついているときほど、「別に」と言うことも。好きな人ができたことを、誰より先に聞いた。友達と喧嘩したときも。進路に悩んだときも。泣いたとき。何度も抱きしめた。それでも。私は母親ではない。
なぜ?
産んでいないから?
私はアルバムをめくった。
二歳の莉央。黄色い服。笑っている。左の頬にえくぼ。
次に。二歳の紬。公園。同じように笑っている。
私は二枚の写真を並べた。
よく似ている。やっぱり。
最初から、似ていた。
私が似せたわけじゃない。
私は、ただ。
気づいた。
好きなものを教えただけ。
似合うものを勧めただけ。
それなのに。
私は十三年間、この子を見てきた。もしかしたら、ずっと間違えていたのは、私ではないのかもしれない。
そんな考えが浮かんだ。紬が。間違った場所に生まれただけ。
莉央は、一度いなくなって。
五年後、私の前に現れた。
でも、私のお腹からではなかった。別の母親のところに。
ただ、戻る場所を、少しだけ間違えた。それだけではないのか。
私は写真に触れた。
「莉央」
小さく名前を呼んだ。
胸の奥が、妙に静かだった。
おかしい考えだということは、わかっていた。生まれ変わりなんて。証明できない。紬は紬。莉央は莉央。別人。そんなこと。わかっている。それでも。もし。本当にそうだったら。私は十三年間。自分の娘を。他人の娘として見ていたことになる。
美咲の言葉が蘇る。
――紬には、私が母親だから。
私は写真を見つめた。
「本当に?」
声に出た。
誰に聞いたのか。
自分でもわからなかった。
美咲に。
紬に。
莉央に。
それとも。
私自身に。
母親は、一人でなければいけないのだろうか。
産んだ人だけが、母親なのだろうか。
私はずっと、陽向の母親だった。
今も、それは変わらない。陽向を愛している。
でも、それと同じように。紬も、愛してしまった。
それなら、私が二人目の母親になって、何が悪いのだろう。
美咲から奪うわけじゃない。美咲は美咲。私は私。紬に、母親が二人いる。ただ、それだけ。そう思えばいい。
私はアルバムを閉じた。
そのとき、玄関が開いた。
「ただいまー」
陽向の声。
「おかえり」
私は慌てて写真を片づけた。陽向がリビングへ入ってくる。
「母さん、今日ご飯何?」
「カレー」
「また?」
「昨日は魚でしょ」
「カレー最近多い」
「じゃあ食べなくていいよ」
「食べる」
陽向が笑う。いつもの会話。いつもの息子。私はその顔を見た。
大切だった。この子は、間違いなく、私の息子。
そして、ふと思った。
陽向を愛しているからといって、莉央を愛せなくなるわけではなかった。
莉央を愛しているからといって、紬を愛してはいけない理由もない。
愛情は、一人分しか持てないものではない。
それなら、何も問題はない。
私は、誰からも何も奪っていない。




