第五話 ママって呼んでいいのよ
十歳になっても、陽向と紬は幼なじみだった。
ただ、幼い頃のように、何をするにも二人一緒というわけではなくなった。
陽向には男の子の友達が増え、放課後になるとランドセルを置くなり、「公園行ってくる!」と飛び出していく日も多い。最近はサッカーに夢中で、休日になると夫とボールを蹴りに行っている。
紬にも仲のいい女の子が何人かできたらしい。友達の家へ遊びに行ったり、習い事の帰りに一緒に買い物をしたり、私の知らない名前が会話の中に出てくることも増えた。
当たり前のことだ。
二人とも、自分たちの世界を作り始めている。
それでも、紬は週に一度くらい、うちへやって来た。約束して陽向と遊ぶ日もあれば、陽向がいないのに来ることもある。
「陽向、いる?」
「今日はサッカー」
「じゃあ帰ろっかな」
そう言いながら、帰ったことはほとんどない。
「おやつあるよ」
「じゃあ食べる」
「結局それが目的でしょ」
「違うし」
そんなやり取りをしながら、紬は当たり前のようにランドセルを下ろす。
宿題をして、お菓子を食べて、ときには私とテレビを見て、陽向が帰ってくれば二人でくだらないことで喧嘩をする。もう、紬のために特別なものを用意することもなくなっていた。
食器棚には、昔買った黄色いコップが今もある。洗面所には、紬が泊まったときに使う歯ブラシが一本。冷凍庫には、陽向が好きなチョコアイスと、紬が好きないちごアイス。私にとっては、それが普通になっていた。
陽向も何も言わない。紬が冷蔵庫を開けても、
「俺のプリン食うなよ」
と言うくらいだ。
「名前書いてないじゃん」
「俺が昨日買ったんだよ」
「おばちゃんが買ったんでしょ」
「俺が選んだの!」
「じゃあ半分ちょうだい」
「やだ!」
そんな声が聞こえてくると、私はキッチンから、
「二人とも、うるさい!」
と怒鳴る。すると数分後には、一つのプリンを二人で分けて食べている。兄妹みたい。そう思うことは、もう珍しくなかった。でも、それを口には出さなかった。
以前なら、きっと嬉しくなっていた。今は少し違う。八歳のとき、一度紬と距離を置こうとしてから、私は自分の感情に以前より気をつけるようになっていた。
紬は紬。陽向は陽向。そして、私は陽向の母親。
紬には美咲がいる。その線だけは越えない。そう決めていた。だから、紬の行事には行かないし、美咲に頼まれていないことまで世話を焼かないようにした。誕生日プレゼントも、以前ほど私の好みで選ばない。
「何が欲しい?」
と本人に聞くようになった。十歳の誕生日には、紬が欲しがっていた文房具のセットを贈った。黄色ではなく、水色だった。少しだけ迷ったけれど、ちゃんと水色を買った。紬は喜んだ。それを見て、私も嬉しかった。
ほら、大丈夫。
私はもう、莉央を重ねてなんていない。
そう思っていた。
ある日の夕方、紬が一人でやって来た。
「ただいまー」
玄関から声がした。
「おかえり……じゃないでしょ」
キッチンから顔を出すと、紬が笑った。
「間違えた。こんにちは」
「もう完全に自分の家じゃん」
「だって鍵ないだけでしょ?」
「そこが一番大事なの」
紬が靴を脱ぎながら、いつもの場所にランドセルを置く。
「陽向は?」
「友達とゲームしてる。六時には帰ってくるって」
「ふーん」
少し残念そうだった。
「美咲さんは?」
「仕事。今日遅い」
「何時くらい?」
「九時とか」
「夕飯は?」
「なんか買って食べてって」
「じゃあ、うちで食べていく?」
紬がすぐに顔を上げた。
「いいの?」
「一人でコンビニご飯食べるくらいならね。美咲さんに聞いてみな」
「やった」
紬がスマートフォンを取り出す。少しして、
「いいって!」
と嬉しそうに画面を見せてきた。美咲から、
《いつもごめん! 助かります》
と返ってきていた。
「何食べたい?」
「ハンバーグ」
「また?」
「チーズ入ってるやつ」
「陽向、チーズ嫌いなんだよね」
「じゃあ私だけ」
「はいはい」
私は冷蔵庫を開けた。ひき肉はある。玉ねぎもある。卵もある。
「手伝う?」
「えー」
「食べるだけ?」
「じゃあ玉ねぎ切る」
「泣くよ」
「もう十歳だから泣かないし」
「玉ねぎに年齢関係ないから」
紬がエプロンをつけた。昔、莉央のために買ったものではない。数年前、紬と陽向が料理を手伝いたがったときに、二人分を買った。陽向は緑。紬は白。私は包丁を渡して、横に立った。
「指、気をつけて」
「わかってる」
「猫の手」
「学校でもやった」
「学校より家の包丁のほうが切れるから」
「陽向ママ、心配性」
そう言いながらも、紬はちゃんと指を丸めた。玉ねぎを切り始めて一分も経たないうちに、
「痛い! 目痛い!」
と言い出した。
「十歳だから泣かないんじゃなかった?」
「これは泣いてるんじゃなくて、玉ねぎが攻撃してくるだけ!」
「はいはい」
二人で笑った。そのとき、玄関が開いた。
「ただいまー!」
陽向だった。
「おかえり。手洗って」
「なんかいい匂いする」
リビングへ入ってきた陽向が、キッチンにいる紬を見つけた。
「なんでいんの?」
「ご飯食べるから」
「また?」
「何、その言い方」
「いや、別に」
陽向は冷蔵庫を開けた。
「今日何?」
「ハンバーグ」
「よっしゃ」
「紬ちゃんはチーズ入り」
「俺はいらん」
「知ってる」
紬が横から口を挟む。
「チーズ入ってるほうがおいしいのに」
「ハンバーグにチーズとか邪魔」
「子ども」
「同い年だろ」
「二人とも手伝うなら手伝う、邪魔するなら向こう行って」
私が言うと、陽向は、
「じゃあ手伝わん」
と即答してリビングへ逃げた。
「陽向だけずるい!」
紬も追いかける。
「玉ねぎ!」
私が呼び止めると、
「あ、忘れてた」
と戻ってきた。私は笑った。こういう時間が好きだった。
陽向がいて、紬がいて、二人が騒いで、私が怒る。
夫がいる日は、そこへ夫も加わる。その日は出張でいなかったけれど、私たちの家にはもう何年も、こういう日があった。
私はちゃんと陽向の母親だった。
朝起こすのも、忘れ物を届けるのも、サッカーのユニフォームを洗うのも、熱を出せば一晩中気になるのも、全部陽向だ。
通知表を見て一緒に喜んだり、宿題をやらないと叱ったり、友達と喧嘩したと聞けば心配したりする。
陽向を愛している。それに疑いはなかった。
だからこそ、紬への気持ちも、同じ種類のものなのだと思っていた。
長く一緒にいる子だから。陽向の大切な幼なじみだから。半分、家族みたいなものだから。
それだけだと。
夕飯は、三人で食べた。陽向のハンバーグにはチーズなし。紬にはチーズ入り。
「ずるくない?」
陽向が言った。
「何が?」
「紬のほうがでかい」
「チーズの分でそう見えるだけ」
「絶対でかい」
紬が自分の皿と陽向の皿を見比べる。
「ほんとだ。私のほうが大きい」
「ほら!」
「じゃあ一口あげよっか?」
「チーズ入ってるからいらん」
「じゃあ文句言うなよ」
「紬ちゃん正論」
私が笑うと、
「母さん、紬の味方ばっかするやん」
と陽向が頬を膨らませた。
「してないでしょ」
「する」
「じゃあ陽向にも一個追加で焼いてあげる」
「ほんと?」
「まだタネ残ってるから」
「やった」
「甘やかしすぎ」
紬が言う。
「誰のせいで追加することになったと思ってんの」
陽向が返す。また二人が言い合う。私は笑いながら、小さなハンバーグを一つ追加で焼いた。不思議だった。この光景を、ずっと前から知っている気がした。
莉央が生きていたら、十三歳。陽向より五歳上になる。だから、こんな食卓にはならない。わかっている。それでも。
男の子と女の子が言い合って、私がその間にいる。そんな家族を、どこかで一度、夢見たことがあったような気がした。
食事が終わると、陽向が先に風呂へ入った。
「母さん、タオルない!」
浴室から大声がする。
「棚にあるでしょ!」
「ない!」
「ちゃんと見て!」
「ないって!」
仕方なく見に行くと、目の前の棚に入っていた。
「あるじゃん」
「ほんまや」
「十歳にもなってタオルも見つけられないの?」
「見えんかった」
「どうやったらこれが見えないのよ」
リビングから紬の笑い声が聞こえた。
「陽向、アホすぎ」
「うるさい!」
「早く入りなさい!」
浴室の扉を閉めて、リビングへ戻る。紬はソファに座っていた。
「ほんと陽向って子ども」
「あなたも同い年でしょ」
「女子のほうが大人なんですー」
「はいはい」
私は食器を片づけ始めた。紬が立ち上がる。
「手伝う」
「いいよ」
「玉ねぎしかやってないし」
「じゃあ拭いて」
私は洗う。紬が拭く。しばらく、二人とも黙っていた。水の音と、浴室から聞こえる陽向の鼻歌だけが響いていた。
そのとき、紬が言った。
「陽向のお母さんってさ」
「うん?」
「なんか、私のお母さんみたい」
手が止まった。皿から水が流れ続ける。
「どうして?」
なるべく普通に聞いた。
「だって、私の好きなもの全部知ってるじゃん」
「長い付き合いだからね」
「ハンバーグもチーズ入れてくれるし」
「それくらい美咲さんも知ってるでしょ」
「知ってるけど」
紬は皿を拭きながら笑った。
「うちにある私のコップ、まだ黄色のやつだし」
「懐かしいね。あれ何歳のときだっけ」
「四歳とか?」
「たぶん、そのくらい」
「私より長く使ってるじゃん」
「割れないからね」
「あとさ、怒るときもお母さんみたい」
私は笑った。
「私、そんなに怒る?」
「怒るよ」
「いつ?」
「宿題しろとか、ゲームやめろとか、ちゃんと挨拶しろとか」
「それは言うでしょ」
「この前なんて、靴そろえろって怒ったじゃん」
「それは紬ちゃんが毎回ぐちゃぐちゃに脱ぐから」
「ほら」
紬が笑う。
「お母さんじゃん」
私も笑った。
「じゃあ何? 私、子ども二人いるの?」
「陽向と私」
「大変だわ」
「陽向だけで大変そう」
「それはそう」
浴室から、
「聞こえてるぞ!」
と声がした。私たちは顔を見合わせて笑った。
楽しかった。本当に、ただの冗談だった。
だから、私も、冗談を返した。
何気なく、本当に、何気なく。
「じゃあ、私のこともママって呼んでいいのよ」
紬が吹き出した。
「なにそれ」
「だってお母さんみたいなんでしょ?」
「そうだけど」
「じゃあママでいいじゃん」
「陽向に怒られるよ」
ちょうど風呂から出てきた陽向が、
「何が?」
と聞いた。髪から水を垂らしている。
「ちゃんと拭きなさい」
「何の話?」
紬が笑いながら言った。
「陽向ママが、私もママって呼んでいいって」
陽向は一瞬きょとんとして。
「別にええんちゃう」
と言った。今度は、私が陽向を見た。
「いいの?」
「何が?」
「ママ二人になるよ?」
「俺の母さんは一人やろ」
当たり前のように言う。
「紬が何て呼んでも、母さんは俺の母さんやん」
その言葉に、胸が少し痛んだ。陽向は何も知らない。
莉央のことは知っている。自分に、亡くなった姉がいたことも。写真も見たことがある。でも、私が紬の中に莉央を探したことは、知らない。
当然だ。
誰にも話していない。
「そうだね」
私は陽向に笑った。
「陽向のママだもんね」
「うん」
「じゃあ髪乾かしてきなさい」
「はーい」
陽向が洗面所へ行く。紬が私を見る。
「じゃあ、私のママでもある?」
私は笑った。
「二人のママになればいいじゃない」
「欲張り」
「いいでしょ、別に」
「じゃあ美咲ママと陽向ママで二人いる」
「お得じゃん」
「ママ二人もいらんし」
「ひどい」
また笑った。それで、終わった。本当に、その場では、ただの冗談だった。
八時半。美咲から、
《仕事終わった! 今から帰ります》
と連絡が来た。私は、
《紬ちゃん夕飯済み。今から帰らせるね》
と返した。
「紬ちゃん、そろそろ帰るよ」
「はーい」
「俺送ってく」
陽向が言った。
「すぐそこだから大丈夫でしょ」
「コンビニ行きたい」
「それが目的か」
「アイス買う」
「今日もう食べたでしょ」
「食べてない」
「おやつに食べてたじゃん」
「あれはおやつ」
「アイスもおやつです」
紬が笑う。
「じゃあ私一人で帰る」
「陽向、玄関までは見送ってあげて」
「はいはい」
三人で玄関へ行った。紬が靴を履く。相変わらず、脱いだときはぐちゃぐちゃだったのに、帰るときだけは、ちゃんと揃える。私が何度も言ったから。
「忘れ物ない?」
「ない」
「宿題?」
「持った」
「スマホ?」
「ある」
「美咲さんに、今出たって連絡しといてね」
「はーい」
紬がドアに手をかける。陽向が、
「明日な」
と言う。
「うん。また明日」
そして、紬が振り返った。私を見た。
口元が、にやり、と笑っている。
「じゃあね、ママ」
心臓が。
止まった。
本当に。
一瞬。
身体の中から、全部の音が消えた。
玄関。
陽向。
紬。
目の前の景色は変わらない。
でも、私は、十年前に戻っていた。
小さな女の子の声。
「ママ」
初めて呼ばれた日。莉央は、一歳になる少し前だった。何度も、
「ママ」
と言わせた。
嬉しくて。夫が帰ってくるまで。ずっと。
「もう一回」
「ママ」
「もう一回」
「ママ」
何度も。何度も。あの声。
そして、七年前。
横断歩道の向こうから聞こえた声。
――まま?
私は、紬を見る。
十歳。莉央じゃない。わかっている。
髪も。
顔も。
声も。
違う。
それでも、女の子の声で、私を、ママと呼んだ。
「何その顔」
紬が笑った。
冗談。
そう。
冗談だった。
さっきの会話を、続けているだけ。
だから。
私も笑った。
「はい。またね」
なるべく、普通に。
「気をつけて帰るのよ」
「はーい」
「じゃあな」
陽向が手を振る。
「ばいばーい」
紬が外へ出る。ドアが閉まった。陽向がリビングへ戻る。
「母さん、アイスほんまにダメ?」
「……ダメ」
「ケチ」
「明日にしなさい」
「はーい」
陽向が去っていく。
私は、玄関に立ったまま、動けなかった。
ママ。
頭の中で、声が繰り返される。
ママ。
ママ。
ママ。
「母さーん!」
陽向がリビングから呼んだ。私は、びくっとした。
「何?」
「リモコンどこ?」
「テーブルの上!」
「ない!」
「ちゃんと探して!」
いつもの声で返した。私は陽向の母親だ。今も、ちゃんと、息子に呼ばれている。
毎日。
「母さん」
と。
それなのに。どうして。こんなに、嬉しいのだろう。
私はその場にしゃがみ込んだ。口を押さえた。涙が出た。
声を出さないようにした。陽向に、見つからないように。
夫にも、知られないように。
誰にも、知られてはいけない気がした。
嬉しかった。ただ、嬉しかった。
七年ぶりだった。女の子の声で。ママと呼ばれた。莉央が死んでから。一度も。聞けなかった声。
私は泣いた。でも、その涙が誰のための涙なのか、考えなかった。
莉央なのか。
紬なのか。
それとも。
もう一度。
女の子の母親になれたような気がした。
私自身のためなのか。
考えたくなかった。
その日の夜。
ベッドに入ってからも、紬の声が耳に残っていた。
――じゃあね、ママ。
私は目を閉じた。
もう一度。頭の中で再生する。
――ママ。
胸が温かくなる。その温かさを、私は拒めなかった。
翌週。
紬がまた家へ来た。陽向と二人でゲームをしていた。
「陽向、そこ違うって!」
「うるさい、わかってる!」
「下手!」
「じゃあお前やれよ!」
「やる!」
私はキッチンで夕飯を作っていた。
「二人とも、喧嘩するならゲーム終わり!」
「喧嘩してない!」
二人の声が重なる。
「十分喧嘩してる!」
少しして、紬がキッチンへ来た。
「喉乾いた」
「冷蔵庫に麦茶あるよ」
「取って」
「自分で取りなさい」
「ママー、取ってー」
包丁を持つ手が止まった。
紬を見る。紬は、にやにやしていた。私の反応を見ている。
「調子に乗らない」
私は言った。
「自分で取りなさい」
「はーい、ママ」
「もう」
私は笑った。リビングから陽向が、
「紬、キモい」
と言う。
「何が!」
「ママママ言って」
「いいって言われたもん」
「好きにすれば」
陽向は、本当に気にしていなかった。だから、私も気にしないことにした。
紬は、それから。
ときどき、私をママと呼ぶようになった。
いつもではない。
普段は「陽向ママ」たまに「おばちゃん」。
そして、ふざけているときだけ、ママ。
「ママ、お菓子」
「ママ、これ見て」
「ママ、陽向がいじめる」
そのたび。
私は。
「はいはい」
と答えた。
普通の顔で。笑って。何でもないことのように。
でも、一度も。
やめなさいとは言わなかった。
一度も。
「あなたのママは美咲さんでしょ」
とは言わなかった。
そして、いつからだったのか。私は紬に「ママ」と呼ばれるたび、心の中で、必ず。
同じ返事をするようになった。
――なあに、莉央。
声には、出さなかった。




