第四話 莉央じゃない
紬が八歳になった頃。学校から帰ってきた紬が、突然言った。
「ねえ、陽向ママ」
「なに?」
私はキッチンで麦茶を注いでいた。陽向と紬は、学校が終わると相変わらずよくうちへ来た。二人とも、二年生。ランドセルをリビングの隅に放り出して、宿題をして、終わったらゲームをしたり、公園へ行ったりする。もう私がずっとそばについている年齢ではない。
それでも、紬が家にいる日は、なんとなく嬉しかった。
「私、髪切りたい」
手が止まった。ほんの一瞬、それだけだった。
「髪?」
「うん」
私は紬を見た。背中の真ん中くらいまで伸びた髪。今日は高い位置で一つに結んでいる。朝、美咲が結んだのだろう。紬は最近、自分で髪を結ぶ練習もしていると言っていた。
「どのくらい?」
私は何気なく聞いた。
「ここ」
紬が手を、耳の下あたりに当てた。
「短くしたい」
胸の奥がざわついた。理由は、すぐにわかった。莉央は、そんな髪型をしたことがない。
「どうして?」
思ったより早く言葉が出た。紬が首を傾げる。
「どうしてって?」
「急に切りたくなったの?」
「うん」
「せっかくここまで伸ばしたのに?」
「だって暑いもん」
「もう秋になるよ」
「でも切りたい」
私は笑った。
「長いほうが似合うよ」
「そう?」
「うん」
紬の髪を手に取った。柔らかい。莉央の髪は、もっと細かった気がする。でも、二つに結んだ後ろ姿は、よく似ていた。
「もったいないよ」
「でも、由奈ちゃんも切ったんだよ」
由奈。同じクラスの女の子だった。
「由奈ちゃん、めっちゃかわいくなった」
「紬ちゃんは長いほうがかわいいよ」
言ってから、少しだけ、強すぎた気がした。紬が私を見る。私はすぐに笑った。
「まあ、紬ちゃんの髪だからね」
頭を撫でる。
「好きにしたらいいんじゃない?」
「うん!」
紬は嬉しそうに笑った。それで終わった。はずだった。
その日の夜。夕飯を食べながら、私は夫に聞いた。
「女の子って、急に髪切りたくなるものかな」
夫が箸を止めた。
「何の話?」
「紬ちゃん」
「紬ちゃん?」
「髪、短くするんだって」
夫は私を見た。それから、
「へえ」
と言った。それだけだった。
「せっかく伸ばしてたのに」
「本人が切りたいならいいんじゃない?」
「まあ、そうだけど」
「髪なんてまた伸びるし」
その言葉に、なぜか腹が立った。
「わかってるよ」
夫が少し驚いた顔をした。
「何怒ってんの?」
「怒ってない」
私はご飯を食べた。陽向は何も気づかず、テレビを見ながら笑っている。
そう。髪なんて。
また伸びる、夫の言う通りだった。それなのに、翌週。玄関のチャイムが鳴った。
「はーい」
扉を開ける。
「陽向いるー?」
紬だった。私は、一瞬。誰だかわからなかった。
本当に。ほんの一瞬だけ。知らない子が立っていると思った。
髪が、短くなっていた。肩にも届いていない。顎より少し下。軽く内側に丸まっている。前髪も少し短くなっていた。
「切ったの?」
「うん!」
紬が笑った。
「昨日切った!」
くるりと一回転する。短い髪が揺れた。
「どう?」
私は紬を見る。
違う。最初に、そう思った。似ていなかった。莉央に。驚くほど、似ていなかった。
髪が違うだけ。それだけなのに、顔まで違って見えた。
目。鼻。口。眉。全部。
こんな顔だっただろうか。私は、この子のことを、八歳になるまで何年も見てきたはずなのに。
急に、知らない女の子になったような気がした。
「ねえ」
紬が私を見る。
「かわいい?」
私は答えられなかった。
一秒。
二秒。
紬の笑顔が少し曇る。
「……変?」
「ううん」
私は慌てて笑った。
「かわいいよ」
「ほんと?」
「うん」
頭に触れようとして、やめた。そこにあるはずの長い髪が、なかったから。
「すごく似合ってる」
嘘ではない。本当に似合っていた。八歳の女の子らしくて。活発そうで。かわいかった。だから、余計に、嫌だった。
その瞬間。自分の中に浮かんだ感情に、私は気づかないふりをした。
「陽向ー! 紬ちゃん来たよ!」
奥へ声をかける。
「はーい!」
陽向が走ってくる。
「うわ!」
紬を見て驚く。
「髪ない!」
「あるわ!」
紬が笑って陽向を叩く。二人で笑う。私はその姿を見ながら、一人だけ、笑えなかった。
その夜、眠れなかった。夫の寝息が聞こえる。
時計を見る。午前一時。
目を閉じる。紬の顔が浮かぶ。短い髪。
目を開ける。二時。また目を閉じる。
今度は、莉央が浮かぶ。
長い髪。二つに結んだ髪。黄色いヘアゴム。私は寝返りを打った。
何を気にしているの。髪なんて。また伸びる。紬は紬だ。そもそも、莉央じゃない。当たり前。私は、何を考えているのだろう。
あの子は、美咲の娘。紬。陽向の幼なじみ。私の娘ではない。
莉央は、死んだ。八年前に。二歳で。死んだ。私は知っている。葬儀もした。火葬もした。骨も拾った。墓にも入れた。死んだ。
死んだ。
死んだ。
何度も、頭の中で繰り返した。胸が苦しくなった。
私はベッドを抜けた。リビングへ行く。電気はつけなかった。スマートフォンだけを持って、ソファに座った。写真を開く。
莉央。二歳。
私は写真を指で送った。笑っている莉央。泣いている莉央。食べている莉央。寝ている莉央。そして、紬。陽向と一緒に写っている。三歳。四歳。五歳。六歳。七歳。八歳。
昨日までの、長い髪の紬。指が止まる。
似ている。やっぱり、この紬なら。
似ている。
私は画面を閉じた。
自分が、気持ち悪かった。何を確認しているの、私は。
翌朝。
夫が私の顔を見て言った。
「寝不足?」
「ちょっとね」
「大丈夫?」
「うん」
「最近また、莉央のこと考えてる?」
心臓が跳ねた。
「どうして?」
「いや」
夫はコーヒーを飲んだ。
「何となく」
私は何も答えなかった。夫も、それ以上は聞かなかった。
紬の髪は、当然、すぐには伸びなかった。
一週間。
二週間。
一か月。
見慣れてくると、短い髪の紬も、ちゃんと紬だった。
笑い方も、話し方も、左の頬のえくぼも。何も変わっていない。
私は、少し安心した。そう、私は、髪型なんて関係なく。紬のことが好きなのだ。
莉央に、似ているからじゃ、ない。
紬だから。そう思えた。
翌月。
紬の九歳の誕生日が近づいた。
「今年、何あげようかな」
夕飯のとき、私は何気なく言った。夫が顔を上げる。
「誰に?」
「紬ちゃん」
「ああ」
「何がいいと思う?」
「本人に聞けば?」
「それじゃ面白くないじゃん」
「美咲さんに聞いたら?」
「そうしようかな」
美咲にメッセージを送った。
《紬ちゃん、誕生日何欲しがってる?》
少しして、返信。
《何もいらないよー! 毎年もらってるし》
《そういうわけにいかない笑》
《ほんと気遣わなくていいって》
私は結局、自分で選ぶことにした。ショッピングモール、子ども服の店。
九歳。何がいいだろう。
もう、幼児向けのものは似合わない。私は服を見て回った。
白。
水色。
ピンク。
黒。
そして。
黄色。一着のワンピースの前で、足が止まった。淡い黄色。腰に小さなリボン。派手ではない。子どもっぽすぎもしない。
莉央が生きていたら、着せたかった。
そう思った。その瞬間、手を引っ込めた。
違う。
また、そういう選び方をしている。紬へのプレゼント。莉央じゃない。
私は店内をもう一周した。
水色の服を手に取った。紬は水色も好きだ。最近は、黒い服も着る。ピンクは、あまり着なくなった。
それなのに、気づけば、私はまた黄色いワンピースの前に戻っていた。
似合う。紬に。本当に、そう思った。
莉央が好きだったからじゃない。紬に似合うから。
私は買った。誕生日の日、紬は箱を開けた。
「わあ!」
顔が輝いた。
「かわいい!」
ワンピースを胸に当てる。
「着ていい?」
「もちろん」
「今?」
「今でもいいよ」
紬は別の部屋で着替えて戻ってきた。
「どう?」
私は、息を呑んだ。黄色。短い髪。左の頬のえくぼ。莉央とは違う。
でも、少しだけ。
戻った。
そう思った。
「かわいい」
今度は、すぐに言えた。
「すごく似合ってる」
「ほんと?」
「うん」
紬は嬉しそうに鏡を見た。
「これ好き」
「よかった」
「学校にも着てく」
「汚さないでよ」
「大丈夫!」
紬は、本当にそのワンピースを気に入った。何度も着た。
休日、うちへ来る日。美咲と出かける日。
「これ、ほんと好きみたい」
美咲も笑った。
「水見さん、紬の好みわかってるね」
「長い付き合いだから」
私は笑った。それから、季節が変わった。紬の髪が、少しずつ伸びた。
顎。
肩。
肩より少し下。
ある日、紬がうちで宿題をしていた。髪が邪魔そうだった。
「結ぼうか?」
私が聞く。
「うん」
洗面所からゴムを持ってくる。黄色いゴム。私は、紬の後ろに座った。
髪を二つに分ける。右。左。同じ高さ。ゴムで結ぶ。
「できた」
紬が振り返る。黄色いワンピース。二つに結んだ髪。笑う。
左の頬。えくぼ。
胸の奥から。
ふっと、力が抜けた。安心した。その感覚は、あまりにもはっきりしていた。私は、動けなくなった。
安心?
何に?
何が。
戻った?
紬は何も変わっていない。
髪が短くても、長くても、紬。
なのに、私は。
莉央に似ていない紬を見て、不安になった。莉央に似てきた紬を見て、安心した。
その事実が。急に、目の前に突きつけられた。
「陽向ママ?」
紬が私を見る。
「どうしたの?」
「ううん」
私は笑った。
「なんでもない」
その日の夜。洗面所の鏡の前に立った。自分を見る。四十歳を過ぎた顔。目の下、少し疲れている。私は、鏡の中の自分に聞いた。
「何してるの?」
もちろん、返事はない。
「紬は莉央じゃない」
声に出した。
「莉央は死んだ」
言葉にすると、胸が痛かった。
「紬は美咲さんの娘」
もう一度。
「私は陽向の母親」
わかっている。全部。わかっている。
私は、母親を間違えているわけじゃない。
紬を、娘だと思っているわけでもない。
ただ、大切なだけ。
そう。大切になりすぎた。それだけ。
私は決めた。
少し、距離を置こう。嫌いになる必要なんてない。会わない必要もない。ただ、今までより、少しだけ、普通の距離に戻す。
陽向の友達。ママ友の娘。それくらいに。
翌日。
紬からメッセージが来た。
《今日陽向の家行っていい?》
私は、スマートフォンを見つめた。いつもならすぐに、
《いいよ》
と返す。でもその日は
《今日は用事あるからごめんね》
と送った。用事なんてなかった。
送ったあと、胸が痛んだ。これでいい。
翌日。また、
《今日陽向の家で遊べる?》
《今日はちょっと忙しい》
嘘。
これでいい。
三日目。
メッセージは来なかった。安心した。これで、少しずつ、普通に戻れる。そう思った。
夕方、玄関のチャイムが鳴った。私は夕飯を作っていた。
「はーい」
手を拭いて、玄関を開ける。紬が立っていた。一人だった。陽向もいない。ランドセルを背負ったまま。
「紬ちゃん?」
「……うん」
いつもの元気がない。
「どうしたの?」
紬は、私を見上げた。
「最近」
「うん?」
「なんで遊んでくれないの?」
胸を掴まれたような気がした。
「そんなことないよ」
「ある」
「たまたま忙しかっただけ」
「でも、前は遊んでくれた」
「ごめんね」
紬は俯いた。短かった髪が、今は肩の少し下まで伸びている。
「私」
小さな声。
「なんかした?」
「え?」
「陽向ママが嫌なことした?」
私は、何も言えなかった。紬は続けた。
「この前、勝手に冷蔵庫開けたから?」
「違うよ」
「ゲーム長くやったから?」
「違う」
「宿題しなかったから?」
「違うよ」
「じゃあ、なんで?」
紬が顔を上げた。
目に、涙が溜まっていた。
その顔を見た瞬間、全部、どうでもよくなった。
距離。普通。美咲の娘。陽向の友達。
莉央。
そんなこと。
全部。
どうでもよかった。
私は、紬を抱きしめた。
「何もしてないよ」
紬の身体が、腕の中に収まる。
八歳。
もう、二歳の頃のように小さくない。それでも、温かかった。
「ほんと?」
「ほんと」
「嫌いになってない?」
「なるわけないでしょ」
私は、紬の髪を撫でた。
「大好きだから」
言ってから。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
でも、訂正しなかった。
紬が、私の背中に腕を回した。
「私も」
「うん」
「陽向ママ、大好き」
私は目を閉じた。
嬉しかった。ただ、嬉しかった。それでいい。そう思った。
誰かを愛することの、何が悪いのだろう。紬を傷つけたいわけじゃない。奪いたいわけでもない。美咲から、何かを取ろうとしているわけでもない。
ただ、この子が大切。それだけ。
それだけなら、何も悪くない。
私は紬を離した。
「今日、ご飯食べてく?陽向は今友達の家だから、もうすぐ帰ってくると思うけど」
紬の顔が明るくなる。
「いいの?」
「美咲さんに聞いてみよっか」
「うん!」
「何食べたい?」
紬は少し考えた。そして
「オムライス!」
と言った。私は笑った。
「わかった」
「ケチャップで絵描いて」
「何描く?」
「うさぎ」
一瞬、時間が止まった。うさぎ。莉央が好きだった。でも、私はすぐに笑った。
「いいよ」
紬も笑った。
その夜。紬のオムライスに、私はうさぎを描いた。紬は喜んだ。写真を撮った。美咲に送った。
《今ご飯食べてます》
すぐに。
《ありがとう!助かる!》
と返ってきた。私はスマートフォンを伏せた。
目の前には。
陽向と紬。二人で、くだらないことで笑っている。
その光景を見て、私は思った。
ほら、何も悪くない。
美咲だって、喜んでいる。
陽向も、楽しそう。紬も、笑っている。
私も、幸せ。
誰も困っていない。なら、これでいい。
私は、間違っていない。
そのとき、紬がオムライスを食べながら言った。
「ねえ、陽向ママ」
「なに?」
「私、大きくなってもここ来ていい?」
私は笑った。
「もちろん」
「高校生でも?」
「いいよ」
「大人になっても?」
「いいよ」
「おばあちゃんになっても?」
「その頃、私生きてるかな」
三人で笑った。
「じゃあ、ずっとね」
紬が言った。私は、答えた。
「うん」
「ずっと」
その言葉だけは、なぜか、約束のように聞こえた。
誰かを愛することの、何が悪いのだろう。
私はまだ。
本気でそう思っていた。




