第三話 偶然
紬と陽向が、三歳になった。
二人は同じ幼稚園に入った。偶然ではない。入園を考え始めた頃、美咲が公園で言ったのだ。
「水見さん、陽向くんって幼稚園どこにする?」
「まだ迷ってる。美咲さんは?」
「うちも。見学行った?」
「二つだけ」
そんな話をしているうちに、候補の幼稚園が一つ重なっていることがわかった。
「じゃあ、そこにしようかな」
美咲が言った。
「陽向くんと一緒なら、紬も安心するかな」
私は反対しなかった。むしろ、胸の奥が、ほんの少し温かくなった。
「陽向も喜ぶと思う」
そう答えた。本当に陽向は喜んだ。
「つむちゃんといっしょ?」
入園前にそう教えると、何度も聞き返した。
「一緒だよ」
「まいにち?」
「毎日」
「やった!」
飛び跳ねる陽向を見て、私は笑った。よかった。
陽向のためにも。
そう思った。それだけだった。
入園式の日、紬は紺色のワンピースを着ていた。髪は肩より少し長くなっていて、左右を小さなゴムで結んでいた。
「おはようございます」
美咲が手を振る。
「おはよう」
私は返事をしながら、紬を見た。何かが違う。一瞬わからなかった。
「あ」
髪だ。
「紬ちゃん、髪伸びたね」
「そうなんですよ。切ろうか迷ってて」
美咲が紬の髪を触った。
「暑くなるしね」
「もったいない」
考えるより先に言葉が出た。美咲が私を見る。
「あ、いや」
私は笑った。
「似合ってるから。長いの」
「そう?」
「うん。かわいいよね、紬ちゃん」
紬は照れたように美咲の後ろへ隠れた。
「じゃあ、もうちょっと伸ばそうかな」
美咲は何でもないことのように言った。
「ね、紬?」
紬は、
「うん」
と答えた。私は笑った。莉央も、髪が長かった。二歳の頃はまだ肩くらいだったけれど。もし生きていたら、三歳では、きっとこのくらいまで伸ばしていたと思う。
そんなことを考えた。でも、ただそれだけだった。
幼稚園生活が始まると、陽向と紬はますます仲良くなった。
朝。
二人を送る時間が重なる。
「ひなたー!」
紬が走ってくる。
「つむちゃん!」
陽向も走っていく。手を繋いで園舎へ向かう。帰りも、どちらかが先に出てくると、もう一人を待つ。
「仲良しですね」
担任の先生にも言われた。
「小さい頃からずっと一緒なんです」
美咲が答える。
「幼なじみってやつですね」
幼なじみ。その言葉が嬉しかった。
これから先も、二人は一緒に大きくなる。
三歳。
四歳。
五歳。
小学生。
中学生。
その先まで。そんな未来を想像した。その中には、当然のように紬がいた。そして、私もいた。
四歳になった頃。紬は、よく家へ遊びに来るようになった。最初は美咲も一緒だった。幼稚園が終わったあと、
「今日、ちょっと寄ってく?」
「いいんですか?」
「陽向も遊びたがってるし」
そんな流れで、美咲と紬が家に来る。子どもたちはリビングで遊び、私と美咲はダイニングでコーヒーを飲んだ。
最初は週に一度。そのうち、週に二度。三度。いつしか、特に約束をしなくても。
「今日、行っていい?」
と紬が聞くようになった。
「いいよ」
私はいつも答えた。陽向の友達だから。それだけ。
ある日、美咲が申し訳なさそうに言った。
「ねえ、ちょっとお願いしていい?」
「何?」
「スーパーだけ行ってきてもいい?」
「いいよ?」
「紬、置いてっても大丈夫かな」
私は一瞬、返事が遅れた。嬉しかったから。それを悟られないように、普通の顔を作った。
「全然いいよ。陽向もいるし」
「ほんと? 助かる」
美咲は紬に言った。
「ママ、ちょっと買い物行ってくるね」
「やだ」
「すぐ戻ってくるから」
「ここいる」
「だから、ここにいていいよ」
紬が私を見る。
「いいの?」
「もちろん」
私は笑った。
「陽向と遊んで待ってよっか」
「うん!」
美咲が出ていった。玄関の扉が閉まった。その音を聞いたとき、妙な感覚がした。
家の中に、私。陽向。紬。三人だけ。
「おなかすいた!」
陽向が言った。
「私も!」
紬が続く。
「じゃあ、おやつにしようか」
私はキッチンへ行った。二人分の皿を出す。二人分のジュース。二人分のお菓子。テーブルに並べた。
「手、洗ってきて」
「はーい」
二人が洗面所へ走っていく。私はその背中を見た。男の子と、女の子。二人の子ども。兄妹みたい。その考えが浮かんだ。でも、すぐに打ち消した。
違う。
幼なじみ。
ただの友達。
でも、悪い気はしなかった。
その日の夜。私はネットで子ども用のコップを注文した。今まで紬が来たときは、大人用の小さめのグラスを使わせていた。危ないから。それだけの理由だった。
二つセット。青と黄色。陽向は青。紬は黄色。
商品が届いた日、紬はすぐに黄色を選んだ。
「これ、私の?」
「そうだよ」
「ずっと?」
「紬ちゃん専用」
「やった!」
紬は嬉しそうに両手でコップを持った。黄色。莉央が好きだった色。偶然だった。店には青と黄色のセットしかなかったから。それに、陽向は青が好きだった。だから黄色が紬になった。それだけ。
「黄色好き?」
私が聞く。紬はコップを見た。
「うーん」
「嫌だった?」
「嫌じゃない」
「黄色、似合うよ」
「ほんと?」
「うん。紬ちゃんは黄色が似合う」
紬は笑った。
「じゃあ黄色好き」
私は一瞬、何も言えなかった。
「そっか」
それから。紬の身の回りに黄色が少しずつ増えた。
誕生日に贈ったヘアゴム。黄色。幼稚園で使うハンカチ。私が陽向の分と一緒に買ったものを渡した。黄色。公園でシャボン玉をするとき。
「どっちがいい?」
青と黄色。陽向は青を取った。紬は黄色を取った。
「やっぱり紬ちゃんは黄色だね」
私が言うと。
「うん。黄色好きだもん」
紬が答えた。そう。紬は黄色が好き。いつの間にか、そうなっていた。
五歳。ある冬の日。
美咲からメッセージが来た。
《紬、熱出ちゃった》
その文字を見た瞬間、心臓が強く鳴った。
《何度?》
すぐに返した。
《38.4》
手が止まった。三十八度。莉央。頭の中に、あの日が蘇った。
うさぎのぬいぐるみ。うどん。いちごのゼリー。黄色いパジャマ。冷たい頬。
《病院行った?》
《行ったよ。インフルとかじゃなくて、たぶん風邪だって》
風邪。同じ言葉。胸が苦しくなった。
《今は?》
《寝てる》
《ちゃんと息してる?》
送ってから、しまったと思った。美咲からの返信が少し遅れた。
《してるよ笑》
私はスマートフォンを握った。何を聞いているんだろう。当たり前だ。熱を出して眠っているだけ。
《ごめん。心配しすぎた》
《水見さん心配性だもんね笑》
そう返ってきた。私は、笑えなかった。
その日の夕方。買い物へ行った。ゼリー。スポーツドリンク。プリン。冷却シート。子ども用の飲み物。気づけば、買い物かごいっぱいになっていた。
多すぎる。そう思った。半分戻した。それでも、ゼリーとスポーツドリンクだけは持っていった。美咲の家のインターホンを押す。
「え?」
玄関を開けた美咲が驚いた。
「どうしたの?」
「これ」
袋を差し出す。
「紬ちゃんに」
「わざわざいいのに」
「心配だったから」
「ほんとに大丈夫だよ」
美咲が笑った。
「熱も少し下がってきたし」
その言葉を聞いて、ようやく息ができた気がした。
「よかった」
「ちょっと顔見てく?」
「いいの?」
「寝てるかもしれないけど」
私は家へ上がった。紬はリビングのソファにいた。毛布にくるまって、テレビを見ている。
「紬ちゃん」
声をかける。紬がこちらを見る。
「あ」
弱々しく笑った。
「陽向ママ」
その呼び方に、胸が温かくなる。
「大丈夫?」
「うん」
私は額に触れた。温かい。生きている温度。それだけで、泣きそうになった。
「ちゃんと寝ないとダメだよ」
「寝た」
「お水飲んでる?」
「飲んでる」
「ご飯は?」
「いらない」
「ゼリー買ってきたよ」
「いちご?」
私は止まった。
「……いちご」
「食べる」
紬が笑った。私は袋からゼリーを出した。いちご。莉央が最後に食べたものと、同じだった。偶然。ただ、子どもが好きそうなものを選んだだけ。美咲がキッチンからスプーンを持ってきた。
「水見さん」
「ん?」
「私よりお母さんみたい」
笑いながら言った。冗談だった。わかっていた。
「そんなことないよ」
私も笑った。
「心配性なだけ」
「私なんか、熱くらいなら寝とけば治るって思っちゃう」
「それくらいのほうがいいよ」
「水見さんが二人分心配してくれるからちょうどいいか」
美咲は笑った。私も笑った。その場では、何でもない言葉として、流した。
でも、帰り道。何度も。何度も。
その言葉を思い出した。
私より。
お母さんみたい。
私より、お母さんみたい。
家に帰って。陽向の夕飯を作っているときも。風呂に入れているときも。寝かしつけたあとも。頭の中に残っていた。
私より。
お母さんみたい。
その言葉が、嬉しかった。そう認めたのは、ずっと後だった。
六歳。
春。
小学校の入学式。
陽向と紬は、また同じ学校になった。これは、住んでいる場所が近いのだから。当然だった。そして、同じクラスになった。今度こそ、本当に偶然だった。
「陽向!」
教室の前で、紬が嬉しそうに駆けてきた。
「一緒!」
クラス分けの紙を指差す。陽向も笑った。
「やった!」
美咲も。
「すごいね。幼稚園からずっと一緒」
と笑った。
「本当だね」
私も笑った。私は二人を並ばせた。
「写真撮ろう」
「えー」
陽向が嫌がる。
「一枚だけ」
「紬、こっち」
美咲が声をかける。二人が並ぶ。新品のランドセル。陽向は黒。紬は、黄色、ではなかった。赤でもなかった。薄い茶色。
「紬ちゃん、笑って」
私が言う。
紬が笑う。
左の頬に。
えくぼ。
シャッターを押した。
一枚。
もう一枚。
「もういい?」
陽向が聞く。
「待って」
私はもう一枚撮った。
二人。男の子と。女の子。大きくなった。
その夜、撮った写真を見返した。いい写真だった。
私は一枚を印刷した。そして、家族写真のアルバムを開いた。陽向が生まれた日。お宮参り。
一歳。
二歳。
三歳。
家族旅行。
夫。
私。
陽向。
そこへ、入学式の写真を入れた。
陽向と紬。
何も考えずに、本当に、自然に。そこへ入れた。
数日後。
夫が気づいた。
「これ」
「何?」
「紬ちゃんだよね?」
「そうだけど」
「ここ、家族のアルバムだよね?」
私は夫を見る。
「陽向の友達なんだから、いいでしょ」
「いや、ダメとは言ってないけど」
「じゃあ何?」
「別に」
夫はアルバムを閉じた。私は少し腹が立った。
何が言いたいの。幼なじみとの入学式の写真。それくらい、普通でしょう。
しばらくして、夫が言った。
「最近さ」
「何?」
「莉央のアルバム、よく見てるよね」
私は夫を見た。
「それが何?」
思ったより、強い声が出た。夫は少し驚いた顔をした。
「いや」
「見たらダメなの?」
「そんなこと言ってない」
「じゃあ何?」
「……何でもない」
夫は目を逸らした。
それ以上、何も言わなかった。
その夜。夫が寝たあと、私は一人でリビングにいた。テーブルの上に、二冊のアルバム。一冊は、莉央。もう一冊は、陽向。私は莉央のアルバムを開いた。
二歳。
三歳になった莉央の写真はない。
当然だ。二歳で死んだから。
だから、その先の莉央を、私は知らない。
三歳なら。
どんな顔になっただろう。四歳なら。五歳なら。六歳なら。髪は?背は?笑い方は?
私は想像するしかなかった。
そして、隣のアルバムを開く。
紬がいる。三歳。四歳。五歳。六歳。
私は、気づいた。
似ている。
最初に出会った頃より、今のほうが、ずっと。
似ている。おかしい。莉央は二歳で亡くなった。六歳の莉央なんて、私は知らない。
なのに、わかる。
もし莉央が六歳になっていたら。
きっと、こんな感じだった。そんな確信があった。私は、二人の写真を並べた。二歳の莉央。六歳の紬。
顔そのものは、そこまで似ていない。それなのに。何かが、同じ。私はじっと見た。
そして、気づいた。髪。
紬は、長い髪を二つに結んでいる。莉央も、よく二つに結んでいた。
服。紬は黄色のカーディガン。黄色は、莉央が好きだった。
本。入学式の数日前。紬がうちへ持ってきた絵本。
それは、莉央が何度も読んでいた絵本だった。
「これ好き」
紬は言った。私は、嬉しかった。
でも、その絵本を、最初に紬へ渡したのは誰だった?
私だ。
四歳のとき。
「これ、面白いよ」
そう言って、莉央の本棚から、一冊。紬に読んであげた。紬は気に入った。何度も読んでと言った。そのうち、美咲が同じ本を買った。
髪型。そうだ。入園式の日。美咲は、紬の髪を切ろうとしていた。私は言った。長いほうが似合う。それから、紬はずっと伸ばしている。
黄色。最初は、紬自身が選んだわけじゃなかった。私が。
「黄色、似合うよ」
と言った。それから、紬は黄色を選ぶようになった。
私は写真を見つめた。
髪。
服。
好きな色。
好きな絵本。
少しずつ。
莉央と同じものが増えていた。
胸の奥が、ざわついた。
一瞬、嫌な考えが浮かんだ。
もしかして、私が――。
そこまで考えて、やめた。
違う。
私は。
何もしていない。
髪を切るななんて言っていない。
長いほうが似合うと言っただけ。
黄色を好きになれなんて言っていない。
似合うと言っただけ。
絵本だって。
無理やり読ませたわけじゃない。面白いよと勧めただけ。
選んだのは、紬。気に入ったのも、紬。
私は。
何もしていない。
私は二歳の莉央の写真を見る。
笑っている。
そして、六歳の紬を見る。
笑っている。
左の頬。
同じ場所に、えくぼ。
私は、二枚の写真を、そっと近づけた。
「やっぱり」
小さく呟いた。
似ている。
それは、私が似せたからじゃない。きっと、最初から。この子の中に、莉央と同じものがあった。私は、それに気づいただけ。
紬が何を好きなのか。
何が似合うのか。
他の人より、少しだけ、早くわかるだけ。
だって、私は一度、同じ子を育てているのだから。
その考えが浮かんだ。
おかしい。そんなはずはない。
私は笑った。
自分でも、馬鹿なことを考えたと思った。莉央は莉央。紬は紬。別の子。わかっている。
私は写真をアルバムへ戻した。
でも。
紬と陽向の入学式の写真だけは、家族のアルバムから出さなかった。
そのまま、私たち三人の写真の隣に置いた。
当然だった。陽向の大切な幼なじみだから。それだけ。
私は何もしていない。
ただ、黄色、似合うよ。この絵本、面白いよ。髪、こうやって結んだらかわいいよ。
そう教えただけ。
そして紬が、自分で選んだ。
だから、これは偶然だ。
全部。
偶然。
私はただ、この子が本来好きになるはずだったものを、少しだけ。
教えてあげただけだ。




