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まま?  作者: ありんこ
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2/10

第二話 人違いです

信号が青になった。


私は横断歩道を渡った。


自分でも、なぜ渡ったのかわからなかった。買い物へ行くなら、本当はここを曲がる必要はなかった。家とは反対方向だった。それでも。


足が勝手に前へ出た。


ベビーカーを押して。


眠った陽向を連れて。


私は、その女の子のところへ向かっていた。道路の真ん中あたりで、一度だけ思った。


やめよう。知らない親子だ。声をかけてどうする。


「あなたの娘さん、死んだ私の娘に似ています」


そんなことを言われたら。普通なら気味が悪い。信号機から、鳥の鳴き声のような電子音が響いている。早く渡れと急かされている気がした。


向こう側に着いた。


女の子のベビーカーを押していた女性が、こちらを見た。


三十歳前後だろうか。白いブラウスにデニム。肩までの髪を耳にかけている。化粧も薄い。ベビーカーの持ち手には、小さな買い物袋がぶら下がっていた。どこにでもいる。ごく普通の母親だった。


私は立ち止まった。女性も、少し不思議そうにこちらを見る。


ここまで来たのに。言葉が出なかった。


「あの」


ようやく声が出た。


「すみません」


女性が足を止めた。


「はい?」


私は笑った。笑えていたかは、わからない。


「あの……」


視線が勝手に、ベビーカーへ落ちる。女の子はこちらを見上げていた。大きな目。少し汗ばんだ額。小さなサンダルから、丸い指が五本見えている。近くで見ると。


違う。


当たり前だった。莉央じゃない。目の形が少し違う。莉央のほうが、もう少したれ目だった。眉毛も違う。莉央はもっと薄かった。耳の形も。顎も。髪質だって違う。


似ている。


でも。


同じじゃない。


そんなこと。


最初からわかっていた。


死んだ人間が、七年後に同じ二歳の姿で道端にいるわけがない。私は何を期待していたのだろう。


「あの……知り合いの子に、すごく似ていて」


咄嗟にそう言った。


「つい声をかけちゃって」


少し笑う。


「人違いでした。すみません」


「ああ」


女性の表情が緩んだ。


「ありますよね」


あるのだろうか。私はわからなかった。けれど彼女は特に不審がる様子もなく、笑ってくれた。


「子どもって、たまにびっくりするくらい似てる子いますもんね」


「そうですよね」


私は頷いた。女の子が、ベビーカーの中で身体を揺らした。


「つむちゃん、行こっか」


女性がそう声をかけた。つむちゃん。私はその音を頭の中で繰り返した。つむ。つむちゃん。女の子は母親を見上げて笑った。


その瞬間。


左の頬に。


小さなえくぼができた。


心臓が跳ねた。


私はすぐに視線を逸らした。


「本当にすみません」


「いえいえ」


女性は軽く会釈をした。


「じゃあ」


「はい」


ベビーカーが動き出した。私はその場に立ったまま、親子の背中を見送った。追わなかった。追ってはいけないと思った。女性の白いブラウスが、人混みの向こうへ消えていく。


ベビーカーも。


女の子も。


見えなくなった。


そのあとで。私はようやく息を吐いた。気づけば。ベビーカーの持ち手を、強く握りしめていた。


「……何してるんだろ」


小さく呟いた。


陽向はまだ眠っている。私はベビーカーを覗いた。頬を少し赤くして。口を半分開けて。ぐっすり眠っていた。その顔を見て。なぜか罪悪感が湧いた。


私は今。


息子を連れて。


死んだ娘に似た女の子を追いかけた。何をしているんだろう。


「ごめんね」


眠っている陽向に言った。もちろん、返事はなかった。


その日は、そのまま家へ帰った。買い物をする気になれなかった。


冷蔵庫を開ける。何を買うつもりだったのかすら思い出せない。


夕方。夫が帰ってきた。


「ただいま」


「おかえり」


「今日、暑かったね」


「うん」


「陽向、昼寝した?」


「したよ」


いつもの会話。私は昼間のことを言わなかった。言うほどのことではないと思った。街で、娘に似た子を見かけた。ただそれだけ。


なのに。


夕飯を食べながらも。テレビを見ながらも。風呂に入っていても。あの女の子の顔が頭から消えなかった。


左の頬のえくぼ。


あの声。


――まま?


夜。


夫と陽向が寝たあと。私は一人で押し入れを開けた。奥にしまってある箱を取り出す。莉央のものだった。


亡くなったあと、捨てられないものだけを少しずつ箱に入れた。


といっても。


ほとんど何も捨てられなかったから、箱はいくつもある。そのうちの一つ。写真とアルバムが入った箱。


私はリビングの床に座った。


アルバムを開く。


生まれた日の写真。


病院の白いタオルに包まれた莉央。


百日祝い。


離乳食。


初めて座った日。


初めて歩いた日。


一歳の誕生日。


保育園。


海。


公園。


二歳の誕生日。


手が止まった。


いちごのケーキの前に座っている莉央。黄色いワンピース。前髪を小さなピンで留めている。


笑っている。


左の頬に。


えくぼ。


私は写真を指でなぞった。


今日の女の子。


思い出す。


目は違う。


眉も違う。


髪も違う。


でも。


笑った顔。


角度。


頬。


口元。


似ている。


私はスマートフォンを手に取った。


写真アプリを開いた。何をしているのだろう。今日の女の子の写真なんて、ない。


当然だ。撮っていない。撮るわけがない。知らない子なのだから。


でも。


私は、写真一覧を何度もスクロールした。二歳頃の莉央の写真を探す。


横顔。


正面。


笑顔。


泣き顔。


眠っている顔。


その一枚一枚に。今日の女の子を重ねた。


似ている。やっぱり似ている。


「そんなわけないよね」


私は写真の莉央に言った。


「ねえ」


返事はない。アルバムの中の莉央は、七年前と同じ顔で笑っている。私はしばらくその写真を見ていた。


そして。


昼間の声を思い出した。


――まま?


本当に。私に向かって言ったのだろうか。道路の向こう側だった。女の子の隣には母親がいた。きっと、その母親を呼んだだけだ。それが偶然。


私の耳に。莉央の声のように聞こえただけ。


そう。それだけ。


私はアルバムを閉じた。


箱へ戻そうとした。


でも、戻せなかった。


結局、その夜は、莉央の二歳の写真を一枚だけ抜いて。枕元に置いて眠った。


翌朝。


夫がそれを見つけた。


「珍しいね」


「何が?」


「莉央の写真、ここに出してるの」


私は一瞬、身体が固まった。


「昨日、アルバム見てたから」


「そっか」


夫はそれ以上何も言わなかった。私は少し安心した。


昼前。


陽向を連れて家を出た。行き先は決めていなかった。本当だ。


ただ、気づけば。昨日と同じ商店街にいた。


自分でも笑いそうになった。


偶然、買い忘れたものがあった。そういうことにした。何を買い忘れたのか。商店街に着いてから考えた。


牛乳。そうだ、牛乳。別に近所のスーパーでも買える。でも、ここのスーパーのほうが少し安い。だから来た。それだけ。


私は昨日の信号の前を通った。あの親子はいなかった。


少しだけ、胸が沈んだ。その感情に気づいた瞬間、私は自分に腹が立った。


何を期待してるの。


会ってどうするの。


知らない親子でしょう。


私は牛乳を一本買った。


それだけで帰った。


次の日。


また家を出た。陽向の散歩。そういうことにした。二歳児には外遊びが必要だ。昨日は買い物だけだったから、今日は少し歩かせよう。


公園へ向かう。その途中に、商店街がある。


仕方ない。通り道だから。


私はゆっくり歩いた。子連れの女性を見るたび、視線が向いた。


違う。


違う。


違う。


あの白いブラウス。


いや。


今日は違う服かもしれない。


ベビーカー。


二歳くらいの女の子。


違う。


陽向がベビーカーから、


「おりる」


と言った。


「あ、ごめんね」


私は我に返った。公園で陽向を遊ばせた。


滑り台。


砂場。


ブランコ。


でも私は、公園へ入ってくる親子を、ずっと見ていた。あの子はいなかった。


帰り道。もう一度商店街を通った。


いなかった。


三日目。


私は朝から迷っていた。行かない。今日は行かない。家の掃除をする。スーパーは近所でいい。公園も別の公園にする。そう思っていた。でも、午後。


陽向が昼寝から起きると、私は自然に


「お散歩行こっか」


と言っていた。


そして、商店街にいた。


さすがに、自分でもわかっていた。偶然じゃない。私は探している。あの女の子を。


でも、認めたくなかった。ただ気になっているだけ。似ていたから、もう一度見れば。きっと違うとわかる。そうしたら。もう気にならなくなる。


だから、確認したいだけ。


そう思った。


その日。


あの親子はいた。


スーパーの子ども用品売り場。紙おむつの棚の前。


見つけた瞬間、心臓が跳ねた。


本当に。声が出そうになるくらい。私は、反射的に棚の陰へ隠れた。


自分でやってから、ぞっとした。


何をしているの、私は。知り合いでもない人を。隠れて見ている。


女性は、この間とは違う服だった。


紺色のワンピース。女の子はベビーカーには乗っていなかった。母親の手を握って歩いている。小さな黄色い靴。女の子が棚の商品を指差した。


「これ」


「それは赤ちゃんのだよ」


母親が笑った。女の子も笑う。


また。左の頬。


えくぼ。


私は息を吸った。やっぱり、似ている。


女の子が突然こちらを向いた。私は慌てて視線を棚へ向けた。心臓がうるさい。どうしよう。声をかける?やめる?


この間、人違いだと言った。また声をかけたら、変に思われる。


そのとき、陽向が大きな声を出した。


「ママ!」


女性がこちらを見た。目が合った。


「あ」


先に言ったのは、相手だった。


「この前の」


私はもう、笑うしかなかった。


「あ」


「また会いましたね」


「そうですね」


偶然。相手からそう思ってくれた。そのことに、少しだけ安心した。


「この前は、本当にすみませんでした」


「いえいえ」


女性は笑った。


「あれから、その知り合いのお子さんには会いました?」


一瞬、意味がわからなかった。知り合いの子。


ああ、私がついた嘘。


「あ……」


言葉が詰まった。


「昔の知り合いで。最近は会ってなくて」


「そうなんですね」


罪悪感が胸に刺さった。でも、訂正できなかった。死んだ娘です、とは言えなかった。


子ども同士が目を合わせた。陽向が先に笑った。女の子も笑った。陽向が、


「こんにちは」


と言った。最近覚えたばかりの挨拶だった。女の子は少し恥ずかしそうに、母親の脚の後ろへ隠れた。


「あら、紬。こんにちはは?」


紬。初めて。はっきり名前を聞いた。


「つむぎ?」


私は思わず聞いた。


「はい。紬です」


「かわいい名前ですね」


「ありがとうございます」


紬。


心の中で。一度。呼んでみた。


つむぎ。


莉央ではない。この子には、ちゃんと名前がある。


「こちらは?」


女性が陽向を見る。


「陽向です」


「ひなたくん?」


「はい」


「何歳ですか?」


「二歳です」


「あ、うちも二歳です」


「同い年なんですね」


そこから、話は思ったより簡単だった。子どもが同い年。それだけで、母親同士にはいくらでも話題がある。イヤイヤ期、食事、昼寝、保育園、トイレトレーニング、好き嫌い。


「うち最近、全然野菜食べなくて」


女性――美咲さんが言った。そのとき、初めて名前を聞いた。


「私、美咲っていいます」


「水見です」


「あ、じゃあ水見さん」


「はい」


何でもない自己紹介。


なのに、妙に嬉しかった。ただの知らない人ではなくなったから。


話しているうちに、住んでいる場所も近いことがわかった。徒歩十分ほど。よく行く公園まで同じだった。


「え、中央公園行きます?」


「行きます」


「うちもです」


「午前中?」


「だいたい午前です」


「じゃあ、すれ違ってたかもしれませんね」


「ですね」


美咲さんが笑った。


「じゃあ、また会うかもしれませんね」


私は笑った。


「そうですね」


その日は、それで別れた。


帰り道。私は何度も、頭の中で名前を繰り返した。


紬。


紬。


紬。


莉央じゃない。


紬。


ちゃんとそう思った。でも、次の週。


本当にまた会った。中央公園だった。


「あ!」


美咲さんが先に気づいた。


「水見さん」


「あ、美咲さん」


自然に名前を呼べた。紬は砂場に走っていった。陽向も追いかける。二人で同じバケツを取り合って、すぐ喧嘩した。そして五分後には、一緒に山を作っていた。


「子どもって早いですよね」


美咲さんが笑う。


「何がですか?」


「仲良くなるの」


「本当ですね」


私は笑った。


それから、偶然は何度も重なった。公園。児童館。スーパー。図書館。最初は、本当に偶然だったと思う。少なくとも、全部ではない。


私は美咲さんが中央公園へ行く時間を知った。児童館へ行く曜日も。よく使うスーパーも。自然と覚えた。そして、気づけば。その時間に合わせて家を出ることが増えた。


でも、それは別におかしなことではない。陽向と紬が仲良くなったから、子ども同士が遊びたがる、だから。会えそうな時間に行く。それだけ。何もおかしくない。


やがて美咲さんは、私を見つけると。


「あ、陽向くんママ」


と手を振るようになった。


私も。


「紬ちゃんママ」


と呼んだ。少しして、連絡先も交換した。


《明日、公園行きます?》


美咲さんからメッセージが来る。


《行きます》


返す。それだけで、翌日の予定が楽しみになった。


私は。陽向と紬が一緒に遊ぶ姿を見るのが好きだった。


本当に。ただそれだけだと思っていた。


紬が、絵本を持ってきた。


「よんで」


私の膝の前に座った。


「いいよ」


絵本を読む。紬は途中で何度もページを戻した。莉央もそうだった。一度読んだページなのに、気になる絵があると、また戻る。


「ここ」


紬が指差す。


「うさぎさん?」


「うん」


莉央もうさぎが好きだった。胸の奥が、少しだけざわついた。


でも。


偶然。


二歳の女の子なら。


うさぎが好きな子なんて。


いくらでもいる。


別の日。


紬が砂場で転んだ。膝を擦った。


「いたい!」


泣いた。美咲さんは少し離れたところで、陽向の靴を履かせていた。私は反射的に紬を抱き上げた。


「大丈夫、大丈夫」


背中を撫でる。紬は私の肩に顔を埋めた。小さな身体。腕の中の重さ。温かさ。その感覚に、一瞬。時間が戻った。


莉央を抱いている。そんな錯覚がした。


私は目を閉じた。ほんの一秒だけ。


「ごめんなさい!」


美咲さんが駆けてきた。


「ありがとうございます」


「全然」


私は、紬を渡した。離した瞬間。腕が、妙に空っぽになった。


また別の日。児童館で、紬が眠そうにしていた。床に座りながら、左手を口元へ持っていく。親指が、唇に触れる。


私は動きを止めた。


莉央も、眠くなると。


指しゃぶりをするわけではない。ただ、左の親指を唇に当てる。その癖が、そっくりだった。


私は見つめた。長く見すぎたのだろう。美咲さんが、


「どうしました?」


と聞いた。


「あ」


私は笑った。


「眠そうだなと思って」


「そうなんですよ。眠くなるとこれやるんです」


美咲さんが紬の手を見る。


「赤ちゃんの頃からの癖で」


赤ちゃんの、頃から。


その言葉が、妙に胸に残った。莉央も、赤ちゃんの頃からだった。


次は滑り台。紬は階段を登る。上まで行く。そして、一番上で、必ず一度止まる。下を見る。それから滑る。莉央もそうだった。怖いのではない。止まる。一度。必ず。そして笑って滑る。


私は、その動きを、何度も見た。


さらに、イチゴ。公園でお弁当を食べた日。美咲さんがデザートにイチゴを持ってきた。紬は一粒取った。ヘタを持つ。尖った先端から食べた。莉央も、先から食べた。普通は、どこから食べるのだろう。私はわからない。


でも、同じだった。


一つ。


二つ。


三つ。


小さな一致が、積み上がっていく。私だけが、それに気づいている。私は何度も、自分に言った。


偶然。


全部。


偶然。


二歳児なんて。


似た行動をする。


好きなものも似る。


仕草も。


笑い方も。


何も珍しくない。


わかっていた。


本当に、わかっていた。それなのに。


ある日の午後。公園のベンチで。美咲さんが笑った。


「水見さんって」


「はい?」


「紬のこと、本当に好きですよね」


心臓が。


一度。


強く鳴った。


「え?」


「だって」


美咲さんが笑う。


「紬、水見さんにすごく懐いてるし」


砂場を見る。陽向と紬が遊んでいる。二人で穴を掘って、何かを埋めている。


「水見さんも、紬のことすごく見てくれるし」


「そうですか?」


「うん。私より見てるかも」


冗談めかして笑う。私も笑った。


「そんなことないですよ」


「でも、助かってます」


美咲さんは、本当に嬉しそうだった。この人は、私を疑っていない。当たり前だ。疑う理由なんてない。私は、ただのママ友だ。息子の友達の母親。それだけ。


私は、砂場の紬を見た。紬が顔を上げた。私と目が合う。笑った。


左の頬に、小さなえくぼ。


私は言った。


「ええ」


ほんの少し間を置いて。


「大好きです」


その言葉は、自分でも驚くほど、自然に出た。美咲さんは笑った。


「よかったね、紬」


紬には聞こえていない。砂を掘り続けている。


私は、その横顔を見つめた。


大好き。


もう一度。


心の中で言った。


その言葉を、誰に向けて言ったのか。そのときの私は、まだ考えなかった。

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