第二話 人違いです
信号が青になった。
私は横断歩道を渡った。
自分でも、なぜ渡ったのかわからなかった。買い物へ行くなら、本当はここを曲がる必要はなかった。家とは反対方向だった。それでも。
足が勝手に前へ出た。
ベビーカーを押して。
眠った陽向を連れて。
私は、その女の子のところへ向かっていた。道路の真ん中あたりで、一度だけ思った。
やめよう。知らない親子だ。声をかけてどうする。
「あなたの娘さん、死んだ私の娘に似ています」
そんなことを言われたら。普通なら気味が悪い。信号機から、鳥の鳴き声のような電子音が響いている。早く渡れと急かされている気がした。
向こう側に着いた。
女の子のベビーカーを押していた女性が、こちらを見た。
三十歳前後だろうか。白いブラウスにデニム。肩までの髪を耳にかけている。化粧も薄い。ベビーカーの持ち手には、小さな買い物袋がぶら下がっていた。どこにでもいる。ごく普通の母親だった。
私は立ち止まった。女性も、少し不思議そうにこちらを見る。
ここまで来たのに。言葉が出なかった。
「あの」
ようやく声が出た。
「すみません」
女性が足を止めた。
「はい?」
私は笑った。笑えていたかは、わからない。
「あの……」
視線が勝手に、ベビーカーへ落ちる。女の子はこちらを見上げていた。大きな目。少し汗ばんだ額。小さなサンダルから、丸い指が五本見えている。近くで見ると。
違う。
当たり前だった。莉央じゃない。目の形が少し違う。莉央のほうが、もう少したれ目だった。眉毛も違う。莉央はもっと薄かった。耳の形も。顎も。髪質だって違う。
似ている。
でも。
同じじゃない。
そんなこと。
最初からわかっていた。
死んだ人間が、七年後に同じ二歳の姿で道端にいるわけがない。私は何を期待していたのだろう。
「あの……知り合いの子に、すごく似ていて」
咄嗟にそう言った。
「つい声をかけちゃって」
少し笑う。
「人違いでした。すみません」
「ああ」
女性の表情が緩んだ。
「ありますよね」
あるのだろうか。私はわからなかった。けれど彼女は特に不審がる様子もなく、笑ってくれた。
「子どもって、たまにびっくりするくらい似てる子いますもんね」
「そうですよね」
私は頷いた。女の子が、ベビーカーの中で身体を揺らした。
「つむちゃん、行こっか」
女性がそう声をかけた。つむちゃん。私はその音を頭の中で繰り返した。つむ。つむちゃん。女の子は母親を見上げて笑った。
その瞬間。
左の頬に。
小さなえくぼができた。
心臓が跳ねた。
私はすぐに視線を逸らした。
「本当にすみません」
「いえいえ」
女性は軽く会釈をした。
「じゃあ」
「はい」
ベビーカーが動き出した。私はその場に立ったまま、親子の背中を見送った。追わなかった。追ってはいけないと思った。女性の白いブラウスが、人混みの向こうへ消えていく。
ベビーカーも。
女の子も。
見えなくなった。
そのあとで。私はようやく息を吐いた。気づけば。ベビーカーの持ち手を、強く握りしめていた。
「……何してるんだろ」
小さく呟いた。
陽向はまだ眠っている。私はベビーカーを覗いた。頬を少し赤くして。口を半分開けて。ぐっすり眠っていた。その顔を見て。なぜか罪悪感が湧いた。
私は今。
息子を連れて。
死んだ娘に似た女の子を追いかけた。何をしているんだろう。
「ごめんね」
眠っている陽向に言った。もちろん、返事はなかった。
その日は、そのまま家へ帰った。買い物をする気になれなかった。
冷蔵庫を開ける。何を買うつもりだったのかすら思い出せない。
夕方。夫が帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
「今日、暑かったね」
「うん」
「陽向、昼寝した?」
「したよ」
いつもの会話。私は昼間のことを言わなかった。言うほどのことではないと思った。街で、娘に似た子を見かけた。ただそれだけ。
なのに。
夕飯を食べながらも。テレビを見ながらも。風呂に入っていても。あの女の子の顔が頭から消えなかった。
左の頬のえくぼ。
あの声。
――まま?
夜。
夫と陽向が寝たあと。私は一人で押し入れを開けた。奥にしまってある箱を取り出す。莉央のものだった。
亡くなったあと、捨てられないものだけを少しずつ箱に入れた。
といっても。
ほとんど何も捨てられなかったから、箱はいくつもある。そのうちの一つ。写真とアルバムが入った箱。
私はリビングの床に座った。
アルバムを開く。
生まれた日の写真。
病院の白いタオルに包まれた莉央。
百日祝い。
離乳食。
初めて座った日。
初めて歩いた日。
一歳の誕生日。
保育園。
海。
公園。
二歳の誕生日。
手が止まった。
いちごのケーキの前に座っている莉央。黄色いワンピース。前髪を小さなピンで留めている。
笑っている。
左の頬に。
えくぼ。
私は写真を指でなぞった。
今日の女の子。
思い出す。
目は違う。
眉も違う。
髪も違う。
でも。
笑った顔。
角度。
頬。
口元。
似ている。
私はスマートフォンを手に取った。
写真アプリを開いた。何をしているのだろう。今日の女の子の写真なんて、ない。
当然だ。撮っていない。撮るわけがない。知らない子なのだから。
でも。
私は、写真一覧を何度もスクロールした。二歳頃の莉央の写真を探す。
横顔。
正面。
笑顔。
泣き顔。
眠っている顔。
その一枚一枚に。今日の女の子を重ねた。
似ている。やっぱり似ている。
「そんなわけないよね」
私は写真の莉央に言った。
「ねえ」
返事はない。アルバムの中の莉央は、七年前と同じ顔で笑っている。私はしばらくその写真を見ていた。
そして。
昼間の声を思い出した。
――まま?
本当に。私に向かって言ったのだろうか。道路の向こう側だった。女の子の隣には母親がいた。きっと、その母親を呼んだだけだ。それが偶然。
私の耳に。莉央の声のように聞こえただけ。
そう。それだけ。
私はアルバムを閉じた。
箱へ戻そうとした。
でも、戻せなかった。
結局、その夜は、莉央の二歳の写真を一枚だけ抜いて。枕元に置いて眠った。
翌朝。
夫がそれを見つけた。
「珍しいね」
「何が?」
「莉央の写真、ここに出してるの」
私は一瞬、身体が固まった。
「昨日、アルバム見てたから」
「そっか」
夫はそれ以上何も言わなかった。私は少し安心した。
昼前。
陽向を連れて家を出た。行き先は決めていなかった。本当だ。
ただ、気づけば。昨日と同じ商店街にいた。
自分でも笑いそうになった。
偶然、買い忘れたものがあった。そういうことにした。何を買い忘れたのか。商店街に着いてから考えた。
牛乳。そうだ、牛乳。別に近所のスーパーでも買える。でも、ここのスーパーのほうが少し安い。だから来た。それだけ。
私は昨日の信号の前を通った。あの親子はいなかった。
少しだけ、胸が沈んだ。その感情に気づいた瞬間、私は自分に腹が立った。
何を期待してるの。
会ってどうするの。
知らない親子でしょう。
私は牛乳を一本買った。
それだけで帰った。
次の日。
また家を出た。陽向の散歩。そういうことにした。二歳児には外遊びが必要だ。昨日は買い物だけだったから、今日は少し歩かせよう。
公園へ向かう。その途中に、商店街がある。
仕方ない。通り道だから。
私はゆっくり歩いた。子連れの女性を見るたび、視線が向いた。
違う。
違う。
違う。
あの白いブラウス。
いや。
今日は違う服かもしれない。
ベビーカー。
二歳くらいの女の子。
違う。
陽向がベビーカーから、
「おりる」
と言った。
「あ、ごめんね」
私は我に返った。公園で陽向を遊ばせた。
滑り台。
砂場。
ブランコ。
でも私は、公園へ入ってくる親子を、ずっと見ていた。あの子はいなかった。
帰り道。もう一度商店街を通った。
いなかった。
三日目。
私は朝から迷っていた。行かない。今日は行かない。家の掃除をする。スーパーは近所でいい。公園も別の公園にする。そう思っていた。でも、午後。
陽向が昼寝から起きると、私は自然に
「お散歩行こっか」
と言っていた。
そして、商店街にいた。
さすがに、自分でもわかっていた。偶然じゃない。私は探している。あの女の子を。
でも、認めたくなかった。ただ気になっているだけ。似ていたから、もう一度見れば。きっと違うとわかる。そうしたら。もう気にならなくなる。
だから、確認したいだけ。
そう思った。
その日。
あの親子はいた。
スーパーの子ども用品売り場。紙おむつの棚の前。
見つけた瞬間、心臓が跳ねた。
本当に。声が出そうになるくらい。私は、反射的に棚の陰へ隠れた。
自分でやってから、ぞっとした。
何をしているの、私は。知り合いでもない人を。隠れて見ている。
女性は、この間とは違う服だった。
紺色のワンピース。女の子はベビーカーには乗っていなかった。母親の手を握って歩いている。小さな黄色い靴。女の子が棚の商品を指差した。
「これ」
「それは赤ちゃんのだよ」
母親が笑った。女の子も笑う。
また。左の頬。
えくぼ。
私は息を吸った。やっぱり、似ている。
女の子が突然こちらを向いた。私は慌てて視線を棚へ向けた。心臓がうるさい。どうしよう。声をかける?やめる?
この間、人違いだと言った。また声をかけたら、変に思われる。
そのとき、陽向が大きな声を出した。
「ママ!」
女性がこちらを見た。目が合った。
「あ」
先に言ったのは、相手だった。
「この前の」
私はもう、笑うしかなかった。
「あ」
「また会いましたね」
「そうですね」
偶然。相手からそう思ってくれた。そのことに、少しだけ安心した。
「この前は、本当にすみませんでした」
「いえいえ」
女性は笑った。
「あれから、その知り合いのお子さんには会いました?」
一瞬、意味がわからなかった。知り合いの子。
ああ、私がついた嘘。
「あ……」
言葉が詰まった。
「昔の知り合いで。最近は会ってなくて」
「そうなんですね」
罪悪感が胸に刺さった。でも、訂正できなかった。死んだ娘です、とは言えなかった。
子ども同士が目を合わせた。陽向が先に笑った。女の子も笑った。陽向が、
「こんにちは」
と言った。最近覚えたばかりの挨拶だった。女の子は少し恥ずかしそうに、母親の脚の後ろへ隠れた。
「あら、紬。こんにちはは?」
紬。初めて。はっきり名前を聞いた。
「つむぎ?」
私は思わず聞いた。
「はい。紬です」
「かわいい名前ですね」
「ありがとうございます」
紬。
心の中で。一度。呼んでみた。
つむぎ。
莉央ではない。この子には、ちゃんと名前がある。
「こちらは?」
女性が陽向を見る。
「陽向です」
「ひなたくん?」
「はい」
「何歳ですか?」
「二歳です」
「あ、うちも二歳です」
「同い年なんですね」
そこから、話は思ったより簡単だった。子どもが同い年。それだけで、母親同士にはいくらでも話題がある。イヤイヤ期、食事、昼寝、保育園、トイレトレーニング、好き嫌い。
「うち最近、全然野菜食べなくて」
女性――美咲さんが言った。そのとき、初めて名前を聞いた。
「私、美咲っていいます」
「水見です」
「あ、じゃあ水見さん」
「はい」
何でもない自己紹介。
なのに、妙に嬉しかった。ただの知らない人ではなくなったから。
話しているうちに、住んでいる場所も近いことがわかった。徒歩十分ほど。よく行く公園まで同じだった。
「え、中央公園行きます?」
「行きます」
「うちもです」
「午前中?」
「だいたい午前です」
「じゃあ、すれ違ってたかもしれませんね」
「ですね」
美咲さんが笑った。
「じゃあ、また会うかもしれませんね」
私は笑った。
「そうですね」
その日は、それで別れた。
帰り道。私は何度も、頭の中で名前を繰り返した。
紬。
紬。
紬。
莉央じゃない。
紬。
ちゃんとそう思った。でも、次の週。
本当にまた会った。中央公園だった。
「あ!」
美咲さんが先に気づいた。
「水見さん」
「あ、美咲さん」
自然に名前を呼べた。紬は砂場に走っていった。陽向も追いかける。二人で同じバケツを取り合って、すぐ喧嘩した。そして五分後には、一緒に山を作っていた。
「子どもって早いですよね」
美咲さんが笑う。
「何がですか?」
「仲良くなるの」
「本当ですね」
私は笑った。
それから、偶然は何度も重なった。公園。児童館。スーパー。図書館。最初は、本当に偶然だったと思う。少なくとも、全部ではない。
私は美咲さんが中央公園へ行く時間を知った。児童館へ行く曜日も。よく使うスーパーも。自然と覚えた。そして、気づけば。その時間に合わせて家を出ることが増えた。
でも、それは別におかしなことではない。陽向と紬が仲良くなったから、子ども同士が遊びたがる、だから。会えそうな時間に行く。それだけ。何もおかしくない。
やがて美咲さんは、私を見つけると。
「あ、陽向くんママ」
と手を振るようになった。
私も。
「紬ちゃんママ」
と呼んだ。少しして、連絡先も交換した。
《明日、公園行きます?》
美咲さんからメッセージが来る。
《行きます》
返す。それだけで、翌日の予定が楽しみになった。
私は。陽向と紬が一緒に遊ぶ姿を見るのが好きだった。
本当に。ただそれだけだと思っていた。
紬が、絵本を持ってきた。
「よんで」
私の膝の前に座った。
「いいよ」
絵本を読む。紬は途中で何度もページを戻した。莉央もそうだった。一度読んだページなのに、気になる絵があると、また戻る。
「ここ」
紬が指差す。
「うさぎさん?」
「うん」
莉央もうさぎが好きだった。胸の奥が、少しだけざわついた。
でも。
偶然。
二歳の女の子なら。
うさぎが好きな子なんて。
いくらでもいる。
別の日。
紬が砂場で転んだ。膝を擦った。
「いたい!」
泣いた。美咲さんは少し離れたところで、陽向の靴を履かせていた。私は反射的に紬を抱き上げた。
「大丈夫、大丈夫」
背中を撫でる。紬は私の肩に顔を埋めた。小さな身体。腕の中の重さ。温かさ。その感覚に、一瞬。時間が戻った。
莉央を抱いている。そんな錯覚がした。
私は目を閉じた。ほんの一秒だけ。
「ごめんなさい!」
美咲さんが駆けてきた。
「ありがとうございます」
「全然」
私は、紬を渡した。離した瞬間。腕が、妙に空っぽになった。
また別の日。児童館で、紬が眠そうにしていた。床に座りながら、左手を口元へ持っていく。親指が、唇に触れる。
私は動きを止めた。
莉央も、眠くなると。
指しゃぶりをするわけではない。ただ、左の親指を唇に当てる。その癖が、そっくりだった。
私は見つめた。長く見すぎたのだろう。美咲さんが、
「どうしました?」
と聞いた。
「あ」
私は笑った。
「眠そうだなと思って」
「そうなんですよ。眠くなるとこれやるんです」
美咲さんが紬の手を見る。
「赤ちゃんの頃からの癖で」
赤ちゃんの、頃から。
その言葉が、妙に胸に残った。莉央も、赤ちゃんの頃からだった。
次は滑り台。紬は階段を登る。上まで行く。そして、一番上で、必ず一度止まる。下を見る。それから滑る。莉央もそうだった。怖いのではない。止まる。一度。必ず。そして笑って滑る。
私は、その動きを、何度も見た。
さらに、イチゴ。公園でお弁当を食べた日。美咲さんがデザートにイチゴを持ってきた。紬は一粒取った。ヘタを持つ。尖った先端から食べた。莉央も、先から食べた。普通は、どこから食べるのだろう。私はわからない。
でも、同じだった。
一つ。
二つ。
三つ。
小さな一致が、積み上がっていく。私だけが、それに気づいている。私は何度も、自分に言った。
偶然。
全部。
偶然。
二歳児なんて。
似た行動をする。
好きなものも似る。
仕草も。
笑い方も。
何も珍しくない。
わかっていた。
本当に、わかっていた。それなのに。
ある日の午後。公園のベンチで。美咲さんが笑った。
「水見さんって」
「はい?」
「紬のこと、本当に好きですよね」
心臓が。
一度。
強く鳴った。
「え?」
「だって」
美咲さんが笑う。
「紬、水見さんにすごく懐いてるし」
砂場を見る。陽向と紬が遊んでいる。二人で穴を掘って、何かを埋めている。
「水見さんも、紬のことすごく見てくれるし」
「そうですか?」
「うん。私より見てるかも」
冗談めかして笑う。私も笑った。
「そんなことないですよ」
「でも、助かってます」
美咲さんは、本当に嬉しそうだった。この人は、私を疑っていない。当たり前だ。疑う理由なんてない。私は、ただのママ友だ。息子の友達の母親。それだけ。
私は、砂場の紬を見た。紬が顔を上げた。私と目が合う。笑った。
左の頬に、小さなえくぼ。
私は言った。
「ええ」
ほんの少し間を置いて。
「大好きです」
その言葉は、自分でも驚くほど、自然に出た。美咲さんは笑った。
「よかったね、紬」
紬には聞こえていない。砂を掘り続けている。
私は、その横顔を見つめた。
大好き。
もう一度。
心の中で言った。
その言葉を、誰に向けて言ったのか。そのときの私は、まだ考えなかった。




