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まま?  作者: ありんこ
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1/10

第一話 娘が死んだ日

娘が死んだのは、二歳の誕生日を迎えてから三日後だった。


その日の朝、莉央は熱を出した。三十八度を少し超えていた。けれど、機嫌は悪くなかった。いつものように、お気に入りのうさぎのぬいぐるみを脇に抱えて、テレビの前にぺたんと座っていた。画面の中では、色のついた動物たちが歌っていた。莉央は少し鼻声で、その歌を真似していた。


「今日は保育園、お休みしようね」


私がそう言うと、莉央は振り返った。


「やった」


まだしっかりと発音できない、たどたどしい言葉で、笑った。左の頬に、小さなえくぼができた。私は、その笑顔を今でも覚えている。最後の笑顔になるなんて思っていなかったから、写真すら撮らなかった。


毎日見ている顔だった。明日も見られる。明後日も。来週も。来年も。


そう思っていた。だから、撮らなかった。


あの日の私は、まだ知らなかった。

人は、失うと知っているものしか大切には残せないのだということを。


「おなか、いたい?」


「いたくない」


「頭は?」


「いたくない」


「じゃあ、だるい?」


「だるいってなあに?」


「うーん。しんどい?」


莉央は少し考えてから、


「ちょっと」


と言った。


それでも、テレビのお兄さんが変な踊りをすると笑った。私は安心した。子どもの熱なんて珍しくない。保育園に通い始めてからは、月に一度くらい何かしらもらって帰ってくる。


鼻水。咳。胃腸炎。熱。


そのたびに病院へ行って、薬を飲んで、数日で元気になる。今回もそうだと思った。


午前中に小児科へ連れていった。待合室には、同じように熱を出した子どもが何人かいた。莉央は私の膝の上で、うさぎのぬいぐるみの耳をいじっていた。


「次、水見莉央ちゃーん」


名前を呼ばれて診察室へ入る。喉を見てもらった。胸の音を聞いてもらった。


「風邪でしょう」


医師はそう言った。


「今のところ、特に変な音もないですし。水分をしっかり取らせてください。熱が高くなるようなら解熱剤を」


「わかりました」


「元気がなくなるとか、呼びかけても反応しにくいとか、明らかに様子がおかしかったらまた来てくださいね」


「はい」


よくある説明だった。私も、よくある風邪だと思った。薬局で薬を受け取って帰った。


昼には、莉央が「ちゅるちゅる食べる」と言ったので、うどんを作った。


いつもの半分くらいしか食べなかった。でも、自分でフォークを持っていた。


「もういらない」


「じゃあ、お薬飲もうか」


「いや」


「飲んだらゼリーあげる」


「いちご?」


「いちご」


莉央は渋々薬を飲んだ。そのあと、本当にいちごのゼリーを半分食べた。午後は、私の膝の上で眠った。熱を測ると三十七度台まで下がっていた。私はまた安心した。


夕方。


夫にメッセージを送った。


《莉央、今日はお休み。朝熱あったけど下がってきたよ》


少しして返事が来た。


《よかった。何か買って帰る?》


《プリン》


《了解》


そのやりとりさえ、私は覚えている。スマートフォンに残っていたから。後になって何度も見た。何度も。意味なんてないのに。


もしあのとき、


《早く帰ってきて》


と送っていたら。


もし夫が早く帰っていたら。


何か変わっただろうか。


もちろん、そんなことはわからない。夜になっても、莉央は少しぼんやりしていた。でも熱は朝より低かった。

晩ごはんはほとんど食べなかった。牛乳を少し飲んだ。


「おふろは?」


と聞いた。


「はいらない」


「今日はやめとこっか」


私は濡らしたタオルで身体を拭いた。パジャマに着替えさせる。黄色い小鳥の模様がついたパジャマだった。莉央はそのパジャマがお気に入りだった。


「うさちゃんもねる」


「そうだね」


私はうさぎのぬいぐるみをベッドに置いた。


「ママも」


「ママも一緒に寝る?」


「うん」


私は横になった。莉央は私のお腹に頭を乗せた。二歳児の頭は、意外と重い。少し暑かった。まだ熱が残っていたのだと思う。私は髪を撫でた。


「明日、元気になったら何する?」


「こうえん」


「滑り台?」


「ぶらんこ」


「ブランコ好きだねえ」


「ママも」


「ママも乗るの?」


「いっしょ」


「じゃあ一緒に乗ろっか」


「うん」


それが、莉央と交わした最後の約束になった。莉央はすぐに眠った。私はしばらく隣にいた。寝息を聞いていた。規則正しかった。少なくとも、そのときはそう思った。三十分ほどして、私はそっとベッドを抜けた。リビングへ戻った。洗濯物が溜まっていた。翌日の保育園の準備もしなければならない。明日は休むかもしれないけれど、念のため。そう思った。


夫はまだ帰っていなかった。テレビを小さな音でつけながら、私は洗濯物を畳んだ。莉央の小さな肌着。靴下。保育園用のタオル。一つ一つ畳んだ。十一時を過ぎた頃だったと思う。


突然。


妙に静かなことに気づいた。子どもが眠っているのだから、静かなのは当たり前なのに。その夜だけは。なぜか。静かすぎる。そう感じた。テレビの音がある。冷蔵庫のモーター音もする。時計の秒針も聞こえる。それなのに。何かが足りない。私は手に持っていたタオルを置いた。


寝室へ向かった。ドアを開ける。暗い。ベッドに莉央がいる。うさぎのぬいぐるみを抱えて。


「莉央?」


返事はなかった。


眠っている。そう思った。近づいた。


「莉央」


肩に触れた。その瞬間。変だと思った。冷たい。いや。完全に冷たいわけではない。でも。私の知っている子どもの温度ではなかった。


「莉央?」


身体を揺らした。反応しない。


「莉央」


少し強く揺らした。


「ねえ」


起きない。私は莉央を抱き上げた。首が力なく傾いた。その瞬間。身体の奥で何かが破裂した。


「莉央!」


叫んだ。頬を叩いた。


「莉央、起きて」


口元に手を当てた。呼吸。わからない。息をしているのか。していないのか。私はパニックになった。スマートフォンをどこに置いたのかわからなくなった。リビングへ走った。見つからない。テーブル。ソファ。床。


「あった」


震える指で救急車を呼んだ。住所がうまく言えなかった。何度も聞き返された。


「二歳です」


「娘です」


「息してるかわかりません」


「起きないんです」


電話の向こうの人が、何か指示をしていた。胸を押してください。仰向けにしてください。呼吸を確認してください。私は言われた通りにした。でも。何をどうやったのか、ほとんど覚えていない。


「莉央」


「莉央」


「お願い」


「起きて」


救急車の音が近づいてきた。玄関のチャイム。複数の人の声。部屋へ入ってくる。私は莉央から引き離された。誰かが何かをしている。酸素。胸骨圧迫。機械。私は壁際にいた。ただ立っていた。


「お母さん」


呼ばれた。


「いつからこの状態ですか?」


「わかりません」


「最後に呼吸していたのを確認したのは?」


「寝るときは……」


「何時ですか?」


「九時……九時半くらい……」


答えながら、私は思った。二時間。私は二時間も。娘を一人で。


「莉央」


救急隊員がストレッチャーに乗せた。私はついていった。救急車の中で、誰かがずっと処置をしていた。私は端に座っていた。足元が震えていた。夫に電話した。


一度目は出なかった。


二度目。


「もしもし?」


夫の声。私は何を言ったのかわからない。


「莉央が」


それしか言えなかった。夫は何度も聞いた。


「何?」


「どうした?」


「どこの病院?」


私は泣いていなかった。泣くことすらできなかった。


病院に着いた。


白い廊下。


明るすぎる照明。


閉まった扉。


私はその前に座った。


夫が来た。走ってきた。ネクタイが曲がっていた。


「莉央は?」


私は首を振った。何を意味する首振りだったのか、自分でもわからない。しばらくして医師が出てきた。口が動いた。説明された。でも。言葉が耳に入らなかった。


ただ最後に。


「申し訳ありません」


と言われた。


私はその言葉だけ覚えている。


申し訳ありません。


なぜ医師が謝るのかわからなかった。


誰に?


何を?


私は立ち上がった。莉央のところへ行った。小さな身体がベッドに横たわっていた。顔はいつもの莉央だった。眠っているだけに見えた。だから。


「起きて」


と言った。誰かが私の肩に触れた。


「莉央、起きて」


返事はない。


「ママ、ここにいるよ」


何度も。何度も。


「明日、公園行くんでしょ」


「ブランコ乗るんでしょ」


「起きてよ」


返事はなかった。二歳だった。たった二年だった。二年。八百日にも満たない。私はこの子を産んだ。初めて抱いた。夜泣きに付き合った。寝返りを喜んだ。初めて歩いた日に動画を撮った。初めて「ママ」と呼ばれた日、夫に何度も自慢した。保育園の初日は、私のほうが泣いた。二歳の誕生日には、いちごのケーキを食べた。それなのに。三日後には。いない。意味がわからなかった。


葬儀の日。棺の中に莉央がいた。私はずっと横に座っていた。花を入れてくださいと言われた。入れたくなかった。花を入れたら。本当に終わる気がした。


火葬場へ行くとき。私は何度も、


「連れて帰る」


と言った。


夫が泣いていた。義母も泣いていた。私の母も泣いていた。みんなが泣いているのが、腹立たしかった。泣かないで。莉央は私の娘なのに。あなたたちまで悲しそうな顔をしないで。


そんなことを思った。


火葬が終わった。


小さな骨。その小ささを見て、初めて現実になった。二歳だった。本当に。小さかった。家に帰ってからも。家の中には莉央がいた。玄関には十三センチの靴。まだ砂が少しついていた。洗面所にはピンクの歯ブラシ。毛先が少し開いていた。冷蔵庫には、夫があの日買って帰るはずだったプリン。夫は結局、そのプリンを病院へ持ってきていた。袋の中に入ったまま。浴室には黄色いアヒル。水に浮かべると、莉央がいつも、


「ぐわっぐわっ」


と言っていた。寝室にはうさぎのぬいぐるみ。布団にはまだ、莉央の匂いが残っている気がした。何一つ捨てられなかった。保育園から荷物を持って帰ってきた日。私は袋を開けられなかった。先生からの手紙が入っていた。


「莉央ちゃんは、お歌が大好きで」


そこまで読んで、破いた。そのあと。破いたことが怖くなって。床に落ちた紙を全部拾った。セロハンテープで貼った。ぐちゃぐちゃになった手紙を、今度は大事に箱へしまった。自分でも、何をしているのかわからなかった。夫が一度だけ言った。


「少しずつ片づけようか」


莉央が亡くなって、三か月ほど経った頃だった。


夫は悪くない。わかっている。悪気なんてなかった。でも。その言葉を聞いた瞬間。


頭の中が真っ白になった。


「何を?」


夫が黙った。


「何を片づけるの?」


「いや、だから……」


「莉央のものを?」


「全部じゃなくて」


「捨てるの?」


「捨てるっていうか……」


「莉央を?」


自分でもおかしなことを言っているのはわかった。でも止まらなかった。


「莉央が邪魔なの?」


「そんなこと言ってないだろ」


「じゃあ片づけなくていいじゃん!」


私は怒鳴った。物を投げた。何を投げたのか覚えていない。夫は何も言わなかった。それから。莉央のものを片づけようとは、二度と言わなかった。


半年ほど経った頃。


私は、もう一度子どもが欲しいと思うようになった。最初にそう思ったとき。自分を最低だと思った。


莉央が死んで。半年しか経っていないのに。もう次の子を欲しがっている。


娘の代わりを探しているみたいだった。


違う。そうじゃない。


何度も自分に言った。


娘の代わりではない。


莉央の代わりなんて、この世界のどこにもいない。


そんなことをしたら莉央に失礼だ。


ただ。もう一度。

誰かに「ママ」と呼ばれたかった。


赤ちゃんを抱きたかった。


小さな服を洗いたかった。


離乳食を作りたかった。


夜泣きで眠れなくてもいい。


抱っこしても泣き止まなくてもいい。


イヤイヤ期でもいい。


スーパーで寝転がって泣かれてもいい。


保育園から何度呼び出されてもいい。


何でもいい。


もう一度。


母親になりたかった。


夫にその気持ちを話した。夫はすぐには答えなかった。


長い沈黙のあと、


「そうだね」


と言った。でも。子どもは、なかなかできなかった。


一か月。


二か月。


半年。


一年。


生理が来るたびに泣いた。


排卵日を計算した。


基礎体温をつけた。


病院にも行った。


検査。


薬。


また検査。


待合室には、同じような女性が何人もいた。誰も目を合わせなかった。私は毎月期待した。今回は違うかもしれない。身体が熱い気がする。眠い。胸が張っている。もしかして。


そう思って検査薬を使う。一本。


その繰り返しだった。


二年。


三年。


友人の出産報告が届いた。


《生まれました!》


写真。


赤ちゃん。


「おめでとう」


と返した。


そのあとスマートフォンを伏せた。


泣いた。自分が嫌だった。他人の幸せを喜べない。赤ちゃんを見ると苦しい。莉央を思い出す。子どもが欲しい。でもできない。そんな自分がどんどん醜くなっていく気がした。


四年目。


夫が言った。


「もう、二人でもいいんじゃないか」


夕飯のあとだった。私は食器を洗っていた。蛇口から水が流れていた。夫は優しく言った。


「無理しなくてもいいんじゃないかな」


私は何も言えなかった。


「俺は」


夫は続けた。


「君と二人でもいいと思ってる」


優しい言葉だった。だから。余計につらかった。私は水を止めた。


「私は嫌」


それだけ言った。夫は黙った。私は振り返らなかった。もし振り返ったら。その顔を見たら。諦めてしまう気がした。


五年目。


ようやく妊娠した。妊娠検査薬の二本線を見たとき。私は何度も説明書を読み直した。間違っているかもしれない。線が薄い。蒸発線かもしれない。そう思った。


でも。


二本だった。


私は洗面所の床に座り込んだ。泣いた。声を殺して。震えながら。


「莉央」


なぜか。


最初に娘の名前を呼んだ。


「莉央」


もう一度。


「お姉ちゃんになるよ」


その言葉を言ってから。私はまた泣いた。病院で妊娠を確認しても。心拍を確認しても。私はずっと怖かった。またいなくなるのではないか。昨日まで元気でも。明日はいなくなるかもしれない。


私は知ってしまった。


子どもは。簡単に死ぬ。


妊娠中。


少しお腹が痛いだけで病院へ電話した。


胎動が少ない気がすると不安になった。


夜中に何度も目を覚ました。


「動いて」


とお腹を触った。


ぽこ。


動く。


そのたびに息を吐いた。


夫は、


「大丈夫だよ」


と言った。


私は、


「大丈夫って言わないで」


と怒った。大丈夫だと思った日に。莉央は死んだから。


性別がわかる日。私は診察台に横になっていた。モニターを見ながら。


医師が言った。


「男の子かな」


その瞬間。ほんの少し。胸の中で何かが沈んだ。


男の子。


そうなんだ。


自分でも驚いた。


女の子を期待していたつもりなんてなかった。莉央の代わりが欲しいわけじゃない。何度もそう思っていた。なのに。男の子だと聞いた瞬間。


違うんだ。


という言葉が頭に浮かんだ。私はその言葉をすぐに消した。何を考えているの。この子は莉央じゃない。この子はこの子だ。男でも女でも関係ない。無事なら。生きていてくれるなら。それだけでいい。


十か月後。


元気な赤ちゃんが生まれた。


産声を聞いた瞬間。私は泣いた。大きな声だった。


生きている。


それだけで涙が出た。


「男の子ですよ」


助産師さんが言った。胸の上に赤ちゃんを乗せてもらう。重い。温かい。泣いている。


私は恐る恐る頬に触れた。柔らかかった。指を握らせる。小さな手が、私の指を握った。


「来てくれて、ありがとう」


何度も言った。


「ありがとう」


名前は陽向とつけた。明るい場所で育ってほしいと思った。


もう。


暗いところへ行かないでほしかった。


私は陽向を愛した。本当に愛した。夜泣きで眠れない夜も。離乳食を投げられた日も。高熱を出した日も。全部怖くて。全部愛しかった。


陽向が熱を出した最初の夜。私は一睡もできなかった。


何度も胸に手を当てた。


呼吸しているか確認した。


夫に、


「寝なよ」


と言われても寝なかった。陽向が眠るたび。私は怖かった。


朝になるまで。ずっと。


でも。少しずつ。私は普通の母親になった。


陽向が一歳になった。


歩いた。


二歳になった。


よく喋るようになった。


莉央とは違う。


顔も。


性格も。


好きなものも。


陽向は車が好きだった。


恐竜が好きだった。


バナナが好きだった。


莉央は車に興味なんてなかった。


恐竜を見ると怖がった。


バナナは嫌いだった。


違う。


だからよかった。


私はそう思った。


この子は莉央じゃない。


陽向だ。


私は陽向を愛している。


莉央の代わりだと思ったことは、一度もない。


少なくとも。そのときまでは。


陽向が二歳になった、六月のある日。


私はベビーカーを押して、駅前の商店街へ買い物に出た。


蒸し暑い午後だった。梅雨の晴れ間。雲の隙間から強い日差しが落ちていた。


陽向はスーパーで散々騒いだあと。


ベビーカーの中で眠ってしまった。


片手に買い物袋。もう片方でベビーカーを押す。信号が赤になった。私は横断歩道の前で立ち止まった。何気なくスマートフォンを取り出した。夫からメッセージが来ていた。


《牛乳ある?》


私は、


《ある》


と打とうとした。そのときだった。


「……まま?」


小さな声がした。


私は動かなかった。


一瞬。


時間が止まったような気がした。


二歳くらいの。


女の子の声。ありふれた声だった。


街中なら。


どこにでもある。


母親を呼ぶ声。


でも。


私は。


その声を知っていた。


そんなはずがないのに。


身体が勝手に動いた。


振り返った。


横断歩道の向こう側。


道路を挟んだ反対側に。


一台のベビーカーが止まっていた。


若い女性が押している。


ベビーカーには。


女の子が乗っていた。


二歳くらい。


肩に触れるくらいの髪。


丸い頬。


少しだけ上を向いた鼻。


小さな口。


私は動けなかった。


女の子がこちらを見ていた。


私を。


まっすぐ。


そして。


笑った。


左の頬に。


小さなえくぼができた。


息が止まった。


指からスマートフォンが滑りそうになった。


私は、その顔を知っていた。


世界で一番よく知っていた。


毎朝見ていた。毎晩見ていた。


泣いた顔も。


怒った顔も。


笑った顔も。


全部知っていた。


夢の中で。


何度も探した。


もう一度見たいと願った。


その顔だった。


唇が勝手に動いた。


「……莉央?」


車が通り過ぎた。


音が聞こえなかった。


世界の全部が。


遠くへ行った。


女の子だけが見えた。


その子は。


私を見て。


もう一度笑った。


左の頬に。


あのえくぼ。


信号が青になった。

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