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第7話 戦わずに、勝つ

本作は全70話で完結予定です。

毎日5話ずつ、06:40/11:40/17:40/19:40/21:40 に予約投稿しています。

続きが気になりましたら、ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。

三日後の朝、レンは砦の物見櫓にいた。


谷を見下ろせる、北の高みだ。冷えた風が頬を切り、遠くで雲雀が鳴いている。隣でリーゼが、双眼の代わりに目を細め、谷の入り口を睨んでいた。


「来たぞ」リーゼが低く言った。


谷の奥、岩陰から、男たちが姿を現す。十数人。槍と、錆びた剣。荷を待つ顔つきだ。レンの読みどおり、盗賊は谷で待ち構えていた。


だが、彼らが待つ隊商は、来ない。


「本物の荷は、夜のうちに北の迂回路を通しました」レンは小声で言った。「今ごろ、砦の手前まで来てるはずです。谷に向かってるのは、空の荷車を引いた、囮だけだ」


「囮を引く御者は」リーゼが鋭く問う。「危なくないのか」


「身軽な若いのを選びました。荷を捨てて逃げられるように、馬の繋ぎも緩めてある」レンは答えた。「奴らの狙いは、荷です。御者じゃない。荷台が空とわかれば、御者を追うより、谷に留まるはずだ。次の本物の隊商を待つために」


ほどなく、囮の荷車が、谷へ入っていく。車輪が石を踏む音が、ここまで微かに届いた。岩陰の盗賊が色めき立ち、いっせいに襲いかかる。御者は馬を切り離し、転がるように岩陰へ逃げ込んだ。


盗賊が荷台の覆いを剥ぐ。


藁と、石ころ。男たちの動きが、ぴたりと止まった。怒声が、谷にこだまする。だが、その怒りも、レンの計算のうちだった。


「さあ、ここからだ」レンは盤面に目を移した。谷一帯の、物の流れ。盗賊たちが持ち込んだ食料と水の残量が、薄い文字で灯っている。「奴らの水は、もう半日分もない。近くの沢は、ベルクさんの隊が昨夜のうちに堰き止めた。谷の出口は、リーゼさんの兵が固めてる。逃げ場も、飲み水もない」


「攻め込まなくて、いいのか」リーゼの手が、剣の柄に伸びる。


「待ってください。今、斬り込めば、こっちにも死人が出る」レンは止めた。「奴らは、もう詰んでます。あとは、腹と喉が、勝手に答えを出す」


待つのは、奇妙な戦だった。


砦の兵は、谷を遠巻きに囲んだまま、剣を抜かない。ただ、出口を固め、沢への道を塞ぐ。それだけだ。盗賊たちは囮に騙された苛立ちと、じわじわ効いてくる渇きに、浮き足立っていく。


「動かないのが、これほど辛いとはな」リーゼが、櫓の手すりを握りしめた。兵を率いて斬り込みたい衝動を、抑えている。武人の本能だろう。「兵が、痺れを切らさんといいが」


「もう少しです」レンは盤面を睨んだ。谷の盗賊たちの水の残量が、刻一刻と削れていく。「人は、空腹には半日耐えても、渇きには耐えられない。喉が渇けば、判断が鈍る。鈍れば、無理に動く。無理に動けば、隙ができる」


沢へ向かおうとした数人が、堰の手前で兵に追い返された。岩を投げる者、わめき散らす者。だが、誰も砦の囲みを破れない。日が高くなるほど、谷の底の男たちは消耗していった。影が短くなり、谷に陽が照りつける。レン自身も、長く盤面を視続けたせいで、こめかみが疼き始めていた。それでも、目は離さない。


昼を過ぎる頃、最初の一人が剣を捨てた。


それが、合図のようだった。喉の渇きと空きっ腹には、誰も勝てない。盗賊たちは次々と武器を置き、谷の出口へ、両手を上げて歩いてきた。頭目格の男が、信じられないという顔で吐き捨てた。「飯も水も……一滴も奪えなかったのは、初めてだ」


砦の兵に、傷を負った者は一人もいなかった。


リーゼが、ゆっくりと剣の柄から手を離した。長く、谷を見下ろしている。やがて、隣のレンに、絞り出すように言った。


「私は……剣で守ることしか、知らなかった」


「剣も、要りますよ」レンは谷を見たまま答えた。「今日だって、リーゼさんの兵が出口を固めてなければ、奴らは逃げて、また襲ってくる。俺は流れを読むだけだ。止めるのは、あなたの兵です」


「だが、お前の言葉で」リーゼがこちらを向いた。その目に、これまでにない色があった。「兵が、一人も死ななかった。砦の補給も、一粒も失わなかった。これは、武功だ。流れ者。お前の、武功だ」


「武功なんて、大げさです」レンは首の後ろを掻いた。「ただの段取りですよ」


「段取りで、命が助かるなら」リーゼは谷を見下ろしたまま言った。「私は、その段取りを、これまで一度も習わなかった。剣の振り方は、嫌というほど叩き込まれたのにな」


その声に、苦いものが滲んでいた。剣だけでは守れなかった何かを、この人は知っている。レンは、それ以上踏み込まなかった。


櫓の下から、兵たちの歓声が上がった。剣を交えずに勝った戦の、奇妙な、しかし確かな勝鬨だった。


夜のうちに迂回路を抜けた本物の隊商も、塩と鉄を満載して、無事に砦へ着いた。一粒も、奪われていない。


ミナの集落でも、その晩は篝火が焚かれた。誰も飢えず、誰も死なず、隊商が無事に着いた。それだけのことが、この砦では祝祭になる。火を囲み、わずかな酒を回し、兵と村人が肩を組んで歌う。ミナが「おじさんもおいでよ!」と袖を引いた。


「剣も使わずに盗賊を追い払うなんて、聞いたことないよ」ミナが目を輝かせる。「やっぱり、魔法だ」


「魔法じゃない。引き算だよ」レンは篝火の暖かさに手をかざした。「奴らが何日でばてるか、ただ数えただけだ」


「ひきざん?」ミナが首をかしげる。よくわからない、という顔だ。それでも、笑っていた。砦じゅうが、笑っていた。


だが、レンの胸には、晴れない一点が残っていた。


盗賊は、砦の隊商の日を、正確に知っていた。誰が、その日取りを外へ漏らしたのか。倉庫から消えた塩漬け肉と、街道で消えた荷。二本の線が、頭の中で、ゆっくりと一点に寄っていく。砦の中に、まだ、何かが潜んでいる。

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