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第69話 ここで、生きる

世界の管理機構は、最後に、俺に一つの選択を、差し出した。


それは、言葉ではなかった。盤面の奥に、ふと、見覚えのある光景が、滲んだ。前世の、あの町。残業で灯りの絶えないオフィス。机に突っ伏したまま、運ばれていった、あの夜。傾きを正した管理者には、元いた場所へ帰る道が、開かれる。そういう、世界からの、礼のようだった。


「帰れるのか」リーゼが、俺の顔を、覗き込んだ。声に、いつもの強さが、なかった。


「たぶん」俺は、滲む光景を、見つめた。「管理機構の傾きを正した。その役目を終えた者に、世界が、帰り道を、用意してくれてるみたいです」


ヴィオラも、ガロも、何も言わなかった。ただ、俺の答えを、待っていた。誰も、引き止めはしなかった。それが、かえって、この数年で築いたものの、重さを、教えてくれた。


俺は、しばらく、その光景を、見ていた。


前世の俺は、報われなかった。どれだけ数字を合わせても、誰も見ていなかった。倒れても、代わりはいると言われた。あの町に、帰りたい場所は、もう、なかった。


不思議なものだ、と思った。あれほど必死に生きた世界に、未練が、ほとんどない。なのに、流れ着いただけのこの世界に、手放したくないものが、いくつもある。固いおにぎりの温もり。薄い粥の塩気。土の匂いのする、老農夫の手。隣で剣を握る、武人の横顔。


どこで生きるかは、生まれた場所で決まるんじゃない。誰と、何を、守りたいかで決まる。今の俺には、それが、はっきりと、見えていた。


「帰りません」俺は、盤面を、そっと閉じた。光景が、消える。「向こうに、俺を待ってる人は、いない。でも、ここには――いる」


ミナの、固いおにぎり。ベルクの、押しつけてくれた粥。ガロの軽口。ヴィオラの算盤。焦土の村の、老農夫の、土の匂いの手。そして。


「お前が、いる」俺は、リーゼを見た。


リーゼは、すぐには、答えなかった。窓の外、王都の空を、しばらく見ていた。やがて、ぽつりと言った。


「私の父は、後ろを、見てもらえずに、死んだ」声が、低かった。「お前は、ずっと、後ろを見てきた。誰も飢えさせないように、数えて、段取りして。――その背中を、私が、守る。お前が守ったものを、私の剣で、守り抜く。それが、私の戦いだと、決めた」


「ええ」


「だから」リーゼが、こちらを向いた。いつも凛とした目が、ほんの少し、揺れていた。「私の隣で、続けてくれ。この世界を、飢えさせない段取りを。お前の数字の、いちばん近くで、私が、剣を握る」


「いいんですか」俺は訊いた。「俺は、英雄でも、騎士でもない。剣も振れない。ただの、数勘定屋ですよ」


「その数勘定屋が、私の兵を、城の民を、大陸を、飢えから救った」リーゼの声は、静かだった。「武勇より、よほど、多くの命を。私は、強い男に惚れたんじゃない。後ろを、誰より見ている男に、惚れたんだ。――言わせるな。二度は、言わん」


最後の一言は、ほとんど、聞き取れないほど、小さかった。


溺れるような言葉は、なかった。劇的な告白も。ただ、前で斬る者と、後ろで数える者が、これからも、互いの背を預け合う。その、対等な誓いだけが、二人の間に、静かに、置かれた。


「一つ、条件がある」リーゼが、付け加えた。「もう二度と、自分の椀だけ、薄くするな。籠城のとき、皆に分けて、自分は湯みたいな粥をすすってただろう。気づいていたぞ、ずっと」


「……ばれてましたか」


「お前を、飢えさせない。それが、私の役目だ」リーゼの声が、ほんの少し、和らいだ。「お前が皆を飢えさせないように。誰かが、お前を、見ていないとな。後ろで数える男の、さらに後ろを、私が見る」


その言葉が、胸の奥の、ずっと固かった場所を、ゆっくりと、ほどいていった。前世で、誰にも見られず、倒れた夜。あのとき欲しかったものを、今、この人が、当たり前みたいに、差し出してくれている。


「頼りに、してます」俺は言った。いつもの言葉だった。けれど、その重さは、もう、ただの戦友のものではなかった。


リーゼの口の端が、わずかに、緩んだ。それから、ふいと、顔をそむけた。耳のあたりが、うっすら赤いのを、俺は、見ないふりをした。


「……当たり前のことを、言うな」


それは、出会った頃と、同じ言葉だった。だが、声の温度は、まるで違っていた。


戦えない元社畜の、異世界の戦いは、こうして、終わった。


剣も、魔法も、使えなかった。ただ、物の流れと、数字を読み、人を生かす段取りを、組み続けた。報われない裏方だと、自分を嫌っていた男は、いつの間にか、飢えのない大陸と、守りたい人と、帰りたい場所を、この世界に、得ていた。


残されたのは、奪い合いから、生かし合いへと舵を切った、大陸の流れ。そして、数えきれない人々の、ありふれた暮らし。


「これから、忙しくなりますよ」俺は、リーゼに言った。「大陸交易網は、まだ、始まったばかりだ。飢えない大陸を、本当に根付かせるには、何年も、かかる」


「望むところだ」リーゼが、立てかけた剣を、手に取った。「退屈な平和より、お前の隣で、忙しく生きるほうが、性に合っている」


その世界が、これから、どうなっていくのか。奪い合いから、生かし合いへと舵を切った大陸が、何を実らせるのか。数年後の、その景色を、見届けよう。

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