第70話 裏方の玉座
数年後の、タレスの朝市は、声で、満ちていた。
「焼きたてだよ! 麦の値、今日も据え置き!」「南の港から、塩が入った。安いよ!」
かつて、飢えと盗賊で滅びかけた辺境の砦。その面影は、もう、どこにもなかった。並ぶ露店。行き交う荷車。子供の、走り回る足音。鼻をくすぐる、焼きたてのパンと、香辛料の匂い。
俺は、いつものように、市場の隅で、帳面を片手に、流れを数えていた。
「代官さま、また数えてんのかい」露店の女将が、笑った。「英雄さまが、こんな所で、樽の数なんて」
「これが、性分でして」俺は、頭を掻いた。「どこかで物が詰まってないか、誰かが困ってないか。見えてしまうと、放っておけないんですよ」
ノルドは、大陸有数の、活気ある都市圏になっていた。大陸交易網は、ヴィオラを中核に、年々、広がっている。物が、余る所から足りない所へ、淀みなく巡る。飢えで人が死ぬ土地は、大陸から、一つ、また一つと、消えていった。
「旦那ァ!」聞き慣れた声が、人混みを縫ってきた。ガロだ。今や、大陸を股にかける大交易商。だが、口調は、流しの行商人だった頃と、何も変わらない。「東の新しい交易路、開通したぜ。あんたの読み通り、半年で、元が取れそうだ」
「ガロさんの足のおかげですよ」
「よく言うぜ。俺は、旦那の数字を、運んでるだけさ」ガロが、にっと笑った。「けどよ、旦那。昔を思い出すぜ。砦で、腐った麦を前に、二人で頭抱えてた頃をよ。あの頃は、明日の飯にも、困ってた」
「ずいぶん、遠くまで来ましたね」
「ああ。遠くまで来た」ガロが、行き交う荷車を、眩しそうに眺めた。「飢えた砦が、こんな賑やかになるなんてな。あんたの数字は、ほんとに、世界を変えちまった」
ヴィオラからの便りも、月に一度は届く。大陸交易網の中核を担い、各国を飛び回る彼女は、相変わらず損得勘定が口癖だが、その算盤が弾き出すのは、もう、誰かを出し抜く数字ではなかった。どこの国も飢えさせない、流れの数字だった。
倉庫の前では、白髪のベルクが、若い倉庫番たちに、何か教えていた。町の長老格として、四十年の樽勘定の知恵を、次の世代へ。
「樽の数を、当てた流れ者がいてな」ベルクの、しわがれた声が、聞こえてきた。「あの男が来てから、この町は、飢えを忘れた。お前たちも、ちゃんと数えろ。数えるってのは、人を、生かすってことだ」
俺の口癖を、いつの間にか、ベルクが、若い者に説いている。可笑しくて、少し、こそばゆかった。
その隣を、薬包みを抱えた娘が、駆けていく。ミナだった。あの小さな子が、今は、町の治療院で、薬と栄養の配り方を学んでいる。誰かを、生かす側に。固いおにぎりを握っていた手が、今は、人の命を、支えている。
「おじさん!」ミナが、手を振った。「今日、新しい配り方、考えたの! 後で、見てね!」
「楽しみにしてます」
その夜、領館の窓辺で、俺は一日の帳面を、閉じた。
「まだ、やっているのか」リーゼが、茶を二つ、運んできた。一つを、俺の手元に置く。湯気が、立ちのぼった。「英雄どのは、相変わらず、地味な仕事が、お好きだ」
「英雄は、柄じゃないんですよ」俺は、茶を、すすった。温かさが、喉を、ゆっくり下りていく。「玉座に座って、ふんぞり返るより、こうして、数えてる方が、性に合ってる」
「裏方の玉座、だな」リーゼが、隣に腰を下ろした。剣を、立てかけて。
裏方の玉座。誰も座りたがらなかった、実務の椅子。剣の誉れも、血統の栄光も、ない。ただ、誰かが飢えないように、数字とフローを読み続ける、地味な席。前世の俺なら、その椅子を、呪っただろう。報われない、と。
だが、今は、違った。
この椅子から、人を生かしてきた。砦を、領を、国を、大陸を。剣の一振りもせずに。報われない裏方だと、自分を嫌い続けた男が、その裏方の力で、確かに、世界を、生かした。
領内の畑も、変わった。需要を読んで作付けを組み、余った作物は交易網で他領へ回す。一粒も、腐らせない。かつて飢饉で人が逃げ出した土地が、今は、よその土地の飢えまで、支えている。数字を読むだけの、地味な工夫の、積み重ねだった。
「リーゼ」俺は、窓の外を見た。灯りの灯る、平和な町。「俺、この力を、ハズレスキルだと、笑われたんですよ。最初に、この世界へ来たとき。鑑定した連中に、在庫管理しかできない、何の役にも立たない力だと」
「知っている」
「今は、思います」茶の温もりを、両手で包んだ。「ハズレなんかじゃ、なかった。たぶん、世界でいちばん、人を生かせる力だった」
リーゼは、何も言わず、ただ、肩を、そっと寄せてきた。剣だこのある、武人の肩。その温度が、夜気の中で、確かに、隣にあった。
窓の外で、誰かの家の灯りが、また一つ、灯る。今日も、誰も、飢えずに、眠る。
それを支えているのは、剣でも、魔法でもない。物の流れを読み、数字を数え、人を生かす段取りを組み続ける、地味な裏方の力だ。
戦えない元社畜は、剣も魔法もないこの世界で、たった一つの確かなものを、掴んでいた。報われない裏方だった男が、いちばん欲しかった答えを。
裏方こそが、世界を生かす。
その静かな誇りを胸に、明日もまた、俺は、市場の隅で、樽の数を、数えるのだろう。
【完】




