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第68話 生かすための数字

崩れていく盤面を前に、オルドリックは、最後の賭けに出た。


「ならば、機構ごと、握るまでだ」


老人が、両手を広げた。その瞬間、王宮の一室が、軋んだ。床も、壁も、書架も、薄い光の線に覆われていく。世界の管理機構の、権能。大陸の流れを束ねる、巨大な盤面の、本体だった。


「これを、完全に掌握すれば、人の意志など、関係ない」オルドリックの声が、高ぶった。「物流を、根こそぎ握る。誰に麦が届き、誰が飢えるか、すべて、私が決める。お前に付いた者から、干上がらせてやる。意志で、腹は、膨れんからな」


光が、渦を巻いた。大陸じゅうの流れが、老人の手元へ、吸い寄せられていく。俺の盤面でも、その奔流は、止められそうになかった。


だが、異変は、すぐに起きた。


吸い寄せたはずの流れが、老人の手の中で、ほどけていく。握ろうとするほど、すり抜ける。光の線が、彼の指を、拒むように、震えた。


「なぜ……動かん」


「あんた、勘違いしてる」俺は、静かに言った。「その機構は、世界を“生かす”ための仕組みだ。傾きを正して、淀みをなくして、みんなが生きられるように、流れを巡らせる。――人を選別して、間引くための道具じゃない」


光の奔流が、オルドリックから、離れていく。まるで、その手が、機構の目的と、相容れないと知ったかのように。


「世界は、生かす者を、求めてた」俺は、続けた。「あんたは、四十年、その力で、人を奪い、飢えさせ、戦を焚きつけた。機構の目的と、真逆のことを、してきた。だから、最後の最後で、機構が、あんたを、拒んだ」


「詭弁だ」オルドリックが、喘いだ。「機構に、意志などない。ただの、仕組みだ」


「仕組みにも、向きがあります」俺は言った。「水路は、低い方へしか流れない。逆らって、上へ流そうとすれば、堰は、壊れる。あんたは、生かすための流れを、奪うために使った。逆流させようとした。だから、機構そのものが、保たなかった。あんたの手の中で、壊れたんだ」


それは、四十年磨いた力の、皮肉な終わり方だった。誰かに討たれたのではない。自分が握ろうとした力の、本来の向きに、拒まれた。


「黙れ……っ」


光が、老人の手から、完全に離れた。四十年磨いた力が、急速に、しぼんでいく。広域を視ていた目が、濁り、彼は、よろめいた。誰に斬られたわけでもない。誰に罵られたわけでもない。ただ、人を数字で切り捨て続けた果てに、その力の源そのものに、見放された。


俺は、勝ち誇らなかった。倒れかけた老人の前に、膝をついた。


「オルドリックさん」俺は言った。「あんたは、俺の、もう一つの姿だった。前世で、俺も、人をコストとして、切ってきた。報われない裏方だと、自分を、ずっと、嫌ってた。だから、あんたの気持ちが、少しだけ、分かるんです」


老人の濁った目が、こちらを見た。


「でも、俺は、気づいたんです」俺は、静かに続けた。「数字は、人を切り捨てるためのものじゃない。誰も飢えさせないための、段取りなんだ。在庫を数えるのも、流れを読むのも、ぜんぶ、目の前の誰かを、生かすため。地味で、報われない裏方の力こそが、人を、生かす」


それは、オルドリックに告げた言葉であり、前世で潰れた、かつての自分自身に、告げた言葉でもあった。報われない裏方。そう自分を否定し続けた男が、今、はっきりと、胸を張って言えた。裏方こそが、世界を生かすのだ、と。


「お前も、いつか、分かる」オルドリックが、掠れた声で、呟いた。「人は、お前を、裏切る。信頼など、脆いものだ。私も、昔は……」


そこで、言葉が、途切れた。昔は、何だったのか。この男にも、人を信じた時代が、あったのかもしれない。それを、四十年の孤独の果てに、捨てたのかもしれない。だが、それを問う術は、もう、なかった。


「裏切られても、また、信じます」俺は言った。「裏切る人より、応えてくれる人のほうが、多い。少なくとも、俺は、そういう人たちに、囲まれてきた。それが、運じゃなく、積み重ねだってことを――あんたは、知らないまま、生きてきたんですね」


オルドリックは、何も言わなかった。ただ、長い長い時を生きた者の疲れを、その背に滲ませて、静かに、目を閉じた。四十年の孤独が、ようやく、どこかへ降りていくように。


リーゼが、そっと、俺の隣に立った。ヴィオラも、ガロも、いつの間にか、部屋の入り口に集まっていた。誰も、勝利を、はしゃがなかった。ただ、長い戦いが、終わったことを、静かに、噛みしめていた。


「お前の言う通りだったな」リーゼが、低く言った。「武で守れぬものを、お前が守った。剣の一振りも、せずに」


「俺一人じゃ、無理でした」俺は、集まった顔ぶれを見た。「みんなが、損を承知で、付いてきてくれた。あいつが、最後まで信じられなかったものに、俺は、ずっと、助けられてきた」


世界の管理機構の、傾いていた流れが、ゆっくりと、正される方向へ動き出した。「生かすための管理」へ。奪い合いではなく、巡らせ、分け合う流れへ。長く淀んでいた水が、ようやく、低い土地へと、巡り始めるように。


黒幕の脅威は、去った。だが、戦いが終わって、俺の前には、まだ、決めるべきことが、残っていた。


この力を、これから、どう使うのか。そして――俺自身が、どこで、生きるのか。

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