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第67話 数字どおりに動かない

「ヴィオラさん。あなたは、ここで降りても、いいんです」


俺は、まず、彼女にそう言った。オルドリックは、王都の物流を握り、俺に味方する商人を、片端から干上がらせようとしていた。ヴィオラの商会も、的にされていた。俺に付けば、損をする。離れれば、生き残れる。


「あら」ヴィオラが、算盤を、ぱちりと鳴らした。「私を、見くびらないで。損得で動く女だと、知ってるでしょう?」


「だから、言ってるんです」


「ええ、損得よ」彼女は、立ち上がった。商人の目が、いつもより、ずっと強い光を帯びていた。「あなたと組んで築く大陸交易網。あれが完成したときの儲けは、目先の損なんて、桁が違う。私は、長い目で、勘定してるの。――それに」


算盤を、ぱちん、と閉じた。


「あなたに付くほうが、面白い。あの陰気な老人の駒で終わるなんて、まっぴらよ」


オルドリックの計算が、最初の一つ、狂った。利で動くはずの商人が、損を承知で、こちらに残った。彼の盤面では、絶対に、ありえない一手。


「これが、第一手です」俺は、リーゼに言った。「あいつは、ヴィオラさんを『利で動く駒』として、計算に入れてた。その駒が、計算外の動きをした。一つ狂えば、その先の読みが、全部、ずれていく。盤面ってのは、そういうものです」


「お前の盤面も、そうなのか」


「ええ。だから、怖いんですよ」俺は頷いた。「一つの読み違いが、全体を崩す。あいつは今まで、人を完璧に読んできた。だからこそ、一つの『計算外』が、致命傷になる」


次は、各地だった。オルドリックは物流を握り、地方の領主に「レンの構想から手を引けば、麦を回す」と囁いた。利で釣り、保身で縛る。完璧な手だった。数字の上では。


だが、地方から返ってきたのは、拒絶だった。


ノルドで飢えから救われた村。衛生改善で疫病を免れた町。冬越えの備蓄で生き延びた砦。レンの数字が、かつて確かに生かした人々が、口々に言った。「あの代官さまを、見捨てられるか」と。


「なぜだ」


王宮の一室で、オルドリックの声が、初めて、揺れた。盤面を前に、その指が、止まっている。


「なぜ、損をしてまで、お前に付く。麦を回すと言っているのだぞ。飢える方へ、自分から進む者が、どこにいる」


「いるんですよ」俺は言った。「あなたが、一度も、数えなかった人たちが」


ガロが、庶民の口づてで、流れを変えていた。「あの代官の数は、人を生かす数だ」と。市井の声は、盤面には映らない。だが、確かに、大陸を、駆け巡っていた。


「旦那を干上がらせようって倉は、どこだい」ガロは、酒場から酒場へ、渡り歩いた。「そういう倉の麦は、買わねえ。運ばねえ。みんな、そう決めた。利かなくたっていい。旦那に飯を食わせてもらった恩は、銭より重いんだ」


リーゼは、武人としての信望で、各地の騎士を繋いだ。父を見捨てた中央のようには、もう誰も、後ろを切り捨てさせない、と。


「補給を軽んじる戦は、もう、たくさんだ」リーゼは、各地の騎士団に、そう説いて回った。「あの男は、後方を数える代官を、守るに値する。お前たちの父が、欲しくて得られなかったものを、あの男は、配ってきた」


それは、彼女自身の、父への、長い手向けでもあった。


オルドリックの「完璧な盤面」が、人の意志で、次々と、狂っていった。利で動くはずの商人が、損を選ぶ。保身で動くはずの領主が、信義を選ぶ。飢えれば奪うはずの民が、分け合う側に立つ。


「ありえない」老人の声が、掠れた。「人は、数字で動く。四十年、そうだった。私の計算が、外れたことなど、一度も」


「あんたは、流れは見えても、人を見ていない」俺は、まっすぐ、老人を見た。「物を動かすのは、数字だ。それは、正しい。でも、人を動かすのは――信頼です。あんたが、四十年、一度も数えなかった、たった一つの変数だ」


オルドリックの盤面が、軋んだ。彼の握った物流の糸が、握った先から、人の手で、ほどけていく。利で縛ったはずの駒が、損を承知で、盤の外へ歩き出す。彼の支配は、内側から、崩れ始めていた。


「分からないでしょうね、あんたには」俺は、静かに言った。「飢えた村で、自分の分を、隣に分ける人がいる。損だと分かってて、恩を返そうとする人がいる。それは、盤面の、どこにも、映らない。数えられないものだ。でも、確かに、ある。人を、いちばん強く動かすものが」


「そんな、不確かなものに……」オルドリックの声が、震えた。「世界の流れを、賭けるのか」


「不確かじゃ、ありません」俺は首を振った。「あんたが利で縛った駒は、もっと得な話が来れば、すぐ裏切る。でも、信頼で繋がった人は、損をしてでも、踏みとどまる。長い目で見れば、信頼のほうが、ずっと、頑丈なんですよ。あんたの数字より、よっぽど」


「俺は、一人なら、あんたに勝てない」俺は言った。「力の射程も、年季も、負けてる。でも、俺の後ろには、俺が生かしてきた人たちが、いる。その人たちが、今度は、俺を、生かしてくれてる。それが、答えです」


老人は、答えなかった。落ちくぼんだ目が、崩れていく自分の盤面を、信じられないものを見るように、見ていた。


四十年、人を駒として動かしてきた男。その盤面が今、駒だと思っていた人々の意志によって、音を立てて、壊れ始めていた。

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