第66話 見えない一手
オルドリックの反撃は、剣も兵も使わなかった。
ある朝、王都の市場から、麦が消えた。値が、三日で倍に跳ねた。俺の盤面を開くと、大陸じゅうの物流が、不自然にねじれていた。麦が、ある倉に集められ、別の道が、理由もなく閉ざされている。
「あの老人だ」俺は、盤面の歪みを指でなぞった。「世界の管理機構を、もう、かなり握ってる。大陸全体の流れを、上から俯瞰して、駒みたいに動かしてる」
俺の管理盤は、目の前の、触れた範囲しか映せない。オルドリックは、大陸を、一枚の盤として見下ろしている。力の射程が、桁違いだった。
「あいつは、俺の構想を、逆手に取る気です」俺は、地図に、断たれた交易路を書き込んだ。「繋いだ流れを、片端から断つ。各国を、また奪い合いに追い込む。そして、俺を、孤立させる。物流を握られたら、俺の『飢えさせない大陸』は、机上の空論に逆戻りだ」
「なぜ、わざわざ、回りくどいことを」ヴィオラが、眉をひそめた。「あなたを消したいなら、刺客でも、毒でも、あるでしょうに」
「あいつは、力を信じてるんです。剣や毒は、下々の手口だと思ってる」俺は言った。「物流を握って、飢えで人を従わせる。血を流さず、数字だけで、世界を組み伏せる。それが、あいつの美学だ。俺を殺すより、俺の理想が、現実に負けるところを、見せつけたいんでしょう」
「趣味の悪い男ね」
「ええ。けど、その美学が、隙でもある」
リーゼが、剣の柄を握った。
「斬りに行くか。あの老人を」
「無駄です。あいつは、前線に出ない」俺は首を振った。「それに、力の射程じゃ、勝てない。俺が目の前の倉を一つ整える間に、あいつは大陸十か所の流れを、組み替える。同じ土俵で殴り合えば、俺が、潰される」
その夜、一通の書状が届いた。差出人は、ヴァルター。帝国へ退いたはずの、あの知将からだった。
『貴公に、伝えておくことがある』簡潔な字だった。『帝国の侵攻、あの無謀な徴発と進軍を、陰で帝国の上層に囁いた者がいた。私が仕えた“宮廷の賢者”と、つながる影だ。私は一度だけ、その者の指図を、横から見たことがある。人を、駒の数としか呼ばぬ男だった。――気をつけられよ。貴公の戦は、まだ、終わっていない』
書状を置く手が、止まった。帝国を焚きつけたのも、あの老人。点と点が、一本に繋がった。ヴァルターの言う「命じる者」と、オルドリックは、同じ影だった。
「あのヴァルターが、わざわざ」リーゼが、書状を覗き込んだ。「敵だった男が、お前に、忠告を寄越したのか」
「あの人は、兵站を理解する、数少ない武人でした」俺は、書状を、丁寧に畳んだ。「だから、分かるんでしょう。オルドリックの『人を駒の数としか呼ばない』やり方が、どれほど危ういか。帝国を、無謀な徴発と速戦に追い込んで、何万もの兵を、飢え死にさせかけた。武人として、あれは、許せなかったんだと思う」
敵将の、最後の敬意。それが、黒幕の正体を、確信に変えてくれた。
「全部、あいつだったんですね」俺は、低く呟いた。「メルクリオも、帝国も、宮廷も。ずっと、同じ一人が、陰で、糸を引いてた」
絶望しかけた。力の射程では、まるで敵わない。だが、盤面をにらむうちに、あることに気づいた。
オルドリックの操作は、完璧だった。完璧すぎた。商人は利で動く。貴族は保身で動く。民は飢えれば奪う。その「数字どおり」を前提に、寸分の狂いもなく、組まれている。
「待てよ」俺は、顔を上げた。「あいつの計算は、人が『損得だけで動く』ことが、前提だ。利のある方へ、安全な方へ、必ず動く。でも、人は、それだけじゃない」
ヴィオラが、算盤を止めた。「どういうこと」
「損をしてでも、誰かのために動く時が、ある」俺は言った。「あいつには、それが、読めない。人を、数字としか見てこなかったから。人が、数字どおりに動かない瞬間を、あいつは、盤面に、入れられないんです」
四十年、広く深く流れを視てきた男。その目が、ただ一度も、捉えてこなかったもの。信頼。恩義。誰かのために損を引き受ける、人の意志。
「考えてみれば」俺は、リーゼに言った。「あいつの仕掛けは、ぜんぶ、人が利と恐れだけで動く前提でした。買い占めも、徴発も、宮廷の票も。利で釣り、恐れで縛る。それは、効く。たいていの場合は」
「だが、効かない時がある、と」
「ええ。腹を空かせた村人が、自分の分の麦を、もっと飢えた隣人に分ける。そんな時です」俺は、ノルドで見てきた光景を、思い出していた。「数字の上では、ありえない。損だから。でも、人は、時々、そういうことを、する。あいつには、それが、一生、理解できない」
「俺が、砦で、領で、戦場で、ずっと積んできたものが、ある」俺は、立ち上がった。掌に、じわりと汗がにじむ。「数字には還元できない、人との繋がりだ。あいつの完璧な盤面に、風穴を開けるなら――そこしか、ない」
戦えない俺が、四十年の力を持つ男に挑む武器。それは、剣でも、数字の量でもなかった。
「勝てるのか」リーゼが、静かに訊いた。
「分かりません」俺は、正直に答えた。「でも、勝ち筋は、そこにしかない。あいつの盤面に、人の意志っていう、読めない変数を、放り込む。あいつが四十年、一度も計算に入れなかったものを」
数字で世界を支配する男に、決して読めない一手。人が、損得を超えて、誰かのために動く瞬間。それを、これから、起こす。俺がこれまで、砦で、領で、戦場で、一人ずつ、積み重ねてきた信頼を、すべて、賭けて。




