第64話 鏡の中の男
王宮の奥の一室は、古い羊皮紙と、埃の匂いで、むせ返るようだった。窓のない部屋で、燭台の火だけが、揺れていた。
天井まで届く書架。床に積まれた帳簿の山。その中央に、灰色の衣の老人が、一人で座っていた。王室顧問官、オルドリック。卓には、茶が二つ。湯気が、静かに立っている。
「よく来た」老人は、向かいの椅子を、手で示した。「座りなさい。同じ目を持つ者と、こうして話せる日を、長く、待っていた」
俺は、座った。茶には、手をつけなかった。
「あなたも、見えるんですね」俺は言った。「物の流れも、人の疲れも、金の動きも。数字とフローで」
「ああ。お前のそれより、ずっと広く、ずっと深くな」オルドリックの落ちくぼんだ目に、暗い光が灯った。「私は、お前より、四十年も早く、この世界へ来た。同じ力を授かって。四十年だ。私の盤面は、もう、一つの国の隅々まで、同時に映せる」
四十年。気の遠くなる年月、この男は、その力を、磨き続けてきた。
「茶を、飲まんのか」オルドリックが、自分の杯を、口に運んだ。「警戒するな。毒など盛らん。お前を消すなら、こんな回りくどいことは、しない。お前と、話したいのだ。同じ言葉が通じる相手と、四十年ぶりに、な」
四十年ぶり。その言葉に、滲む孤独があった。だが、その孤独の使い道を、この男は、決定的に、間違えていた。
「あなたが、メルクリオを操った。帝国を焚きつけた。今、俺の構想を、潰そうとしてる」俺は言った。「なぜ、です。同じものが見えるなら、なぜ、人を飢えさせる方に使う」
「飢えさせる?」オルドリックは、心外だ、という顔をした。「逆だよ。私は、最適化しているのだ」
その言葉に、聞き覚えがあった。前世の、会議室で、何度も聞いた言葉。
「この世界は、非効率の塊だ」老人は、帳簿の山を、撫でた。「愚かな王が、無駄な戦をする。無能な民が、無駄に増えて、無駄に飢える。流れは、詰まり、淀んでいる。だから、私が、管理する。淀みを、間引く。飢える者、無駄な者を、流れの最適化のために、整理する。それの、何が悪い」
「整理、って」俺の声が、低くなった。「人を、ですか」
「人も、数字だ」オルドリックは、こともなげに言った。「お前も、分かるはずだ。同じ力を持つなら。城の籠城で、お前は、誰を生かし、誰を後回しにするか、数字で決めただろう。焦土で、誰かの土地を焼いただろう。私とお前は、同じことを、している。規模が、違うだけだ」
その一言が、刃のように、胸に刺さった。
否定したかった。だが、できなかった。籠城で、命の優先順位を、俺は確かに、数字で背負った。前世では、採算の合わない部署を、線一本で、切ってきた。「人を、コストとして扱う」誘惑は――俺の中にも、確かに、あった。
この男は、俺の、もう一つの可能性だ。同じ力を授かって、その誘惑に、最後まで、抗わなかった姿。鏡の中に、裏返しの自分が、座っていた。報われない裏方として潰れた前世、もし、この力を「人を見下す」方へ振り向けていたら。俺も、こうなっていたかもしれない。
その想像は、ぞっとするほど、近かった。
「……違います」俺は、絞り出した。喉が、渇いていた。
「ほう?」
「焦土のとき、俺は、頭を下げに行きました」俺は、老農夫の、土の匂いの手を、思い出していた。「補償も、再建も、約束した。籠城で、弱い者から先に逃がした。一人でも多く、生かすために。俺は、人を、数字で切らなかった。数字で、生かそうとした。同じ力でも、俺は、あなたとは、使い道が違う」
「補償だと?」オルドリックが、眉を寄せた。「焼いた村に、種籾を返したのか。なぜ、そんな無駄を。切り捨てれば、済むものを」
「無駄じゃ、ありません」俺は言った。「人は、数字じゃない。切られた村は、恨む。恨みは、次の戦の、種になる。生かせば、味方になる。次の畑を、耕してくれる。――長い目で見れば、生かすほうが、ずっと、効率がいい。あなたの計算には、その『次』が、抜けてる」
「次、か」
「あなたは、四十年、広く深く視てきた。でも、人を、数字としてしか見てこなかった」俺は、老農夫の固い手の感触を、思い出していた。「だから、村人が、なぜ俺に土地を託したのか、分からないでしょう。その理屈は、盤面には、映らないから」
「青いな」オルドリックが、初めて、笑った。乾いた、冷たい笑みだった。「だが、その甘さが、いつまで保つかな。今は英雄でも、いずれ、お前も思い知る。人を生かす数字は、人を切る数字より、ずっと、骨が折れる。お前は、まだ、この力が、本当は何なのかすら、知らないのだ」
老人の目が、すっと細くなった。
「お前は、なぜ、自分がこの力を得て、ここにいるのか。考えたことが、あるか」
その問いが、ずっと心の隅にあった違和感を、突いた。砦で、触れてもいない領都の取引が見えたこと。戦場で、観てもいない遠くの流れが、勝手に視界に滑り込んできたこと。便利なだけのハズレスキル。そう思って、深く考えないようにしてきた、いくつもの綻び。
「あれは、ただの、力の余技じゃ、なかったんですか」俺は、思わず訊いた。
「管理盤の、正体」俺は、呟いた。
「そう」オルドリックは、ゆっくりと頷いた。「それを知れば、お前も、私の側に来る。なぜなら、この力の正体こそが――この世界の、最大の秘密なのだから」




