第61話 思惑の流れ
王都アーレンシアの大広間は、香の煙と、磨かれた大理石の匂いで満ちていた。
帝国を退けた英雄、ノルドの代官レン。その名を、居並ぶ貴族たちが、口々に称える。だが、向けられる笑顔の裏で、いくつもの視線が、こちらを値踏みしていた。剣も魔法も使えない流れ者が、なぜ大陸の英雄になったのか。その問いが、絹の衣の下で、ちらちらと光っている。
「歓迎の宴は、いかがかな、英雄どの」恰幅のいい貴族が、杯を掲げて寄ってきた。財務を握るドラン侯爵だと、リーゼが小声で教えてくれた。「貴公のような逸材、ぜひ我が派閥に。悪いようにはせぬ」
「身に余るお言葉です」俺は頭を下げた。「ですが、俺は、ただの数勘定屋でして」
その言い方の裏で、彼の目が、こちらの価値を、値札をつけるように、測っていた。
侯爵が去ると、別の貴族が来た。その次も。誰もが、俺を自分の駒に加えたがり、あるいは、邪魔者として、いつ消すか測っていた。差し出される笑顔の数だけ、見えない刃が、こちらへ向いている。
「気持ち悪いだろう」リーゼが、壁際で、剣の柄に手を置いたまま言った。慣れない宮廷服の襟を、窮屈そうに引いている。「私は、こういう場所が、どうにも苦手だ。父も、こういう連中の都合で、死んだ」
「不思議と、苦手じゃないんですよ」俺は、広間を見渡した。「これも、流れだ。誰が、何を欲しがって、どこへ動くか。物の流れと、よく似てる」
盤面を、そっと開いてみた。物資は映らない。だが、人の「負荷の偏り」、誰が誰に頭を下げ、誰が誰を避けるか。その力関係の偏りが、薄い濃淡になって、広間に浮かんで見えた。
「人も、結局、流れなんです」俺は、小声でリーゼに言った。「物が、安い所から高い所へ流れるように、人も、得になる方へ、損を避ける方へ動く。誰が、何を欲しがってるか。それさえ読めれば、宮廷も、市場と、そう変わらない」
「市場と、宮廷を、同じに見るのか」リーゼが、呆れたように、こちらを見た。
「同じですよ。売り買いしてるのが、麦か、権力か、の違いだけで」俺は、広間を見渡した。「あの侯爵は、味方を増やしたがってる。あの伯爵は、損をしたくなくて、強い方に付こうとしてる。みんな、顔に書いてある。盤面なんて、なくても」
ドラン侯爵の周りに、人が集まる。その侯爵が、なぜか、広間の奥の一点を、たびたび気にしている。誰かの顔色を、窺うように。
その視線の先に、一人の老人がいた。
豪奢でもない、地味な灰色の衣。王の傍らに控えながら、自分からは何も語らない。なのに、広間の権力の流れが、なぜか、その老人を中心に、静かに渦を巻いていた。誰もが、無意識に、その存在を避けるか、機嫌を窺っている。
「あれは」俺は、リーゼに小声で訊いた。
「王室顧問官、オルドリックどのだ」リーゼが、声を潜めた。「三代の王に仕えた賢者、と言われている。表には出ないが、王都の政の、裏の歯車を回しているのは、あの老人だと」
謁見の間で、俺は王に拝謁した。爵位を、領地を、王都の地位を。様々な褒賞が、提示された。それは、俺を王都に縛りつけ、飼い慣らすための、甘い鎖でもあった。
「ありがたきお話です」俺は、慎重に言葉を選んだ。「ですが、俺が欲しいのは、地位ではありません。一つだけ、お許しいただきたいことが、あります」
王が、先を促した。
「飢えで人が死なない大陸を、作りたいのです」俺は言った。「帝国との戦も、突き詰めれば、糧の奪い合いでした。物が、余る所から足りない所へ、ちゃんと流れれば、奪い合う理由が、減る。そういう仕組みを、大陸に」
「大陸、と申したか」王の眉が、動いた。「一領の代官が、大陸を語るか」
「分不相応は、承知しています」俺は頭を下げた。「ですが、ノルドの砦一つを飢えから救うのも、大陸を救うのも、やることは、同じなんです。どこに何が足りないかを数え、余った所から、回す。桁が、違うだけで」
謁見の間が、ざわついた。理想論だと、嘲笑する声も、混じった。気宇壮大に過ぎる、と顔をしかめる老臣もいた。
その時、広間の奥の灰色の老人――オルドリックが、初めて、こちらを見た。
落ちくぼんだ目が、俺を、まっすぐに射た。値踏みでも、嘲笑でもない。もっと冷たい、品定めの目。同じ種類の何かを、見つけた者の目だった。
その視線を浴びた瞬間、背筋を、氷の指が撫でた。盤面を開いてもいないのに、こちらの考えを、すべて読まれている。そんな感覚が、確かに、あった。
「リーゼさん」俺は、声を潜めた。「あの老人、何者だと思います」
「賢者と、皆は言うが」リーゼも、声を落とした。「私は、好かん。あの目だ。人を、人として見ていない。物の値踏みでもするような、冷たい目だ」
その通りだった。だが、俺が感じた寒気は、それだけではなかった。あの老人の視線は、宮廷の誰の目とも、違った。俺の盤面が物の流れを測るように、あの目は、俺という人間の「流れ」を、根こそぎ、読み取ろうとしていた。
同じ、なのだ。俺と、あの老人は、たぶん、同じものを、見ている。
老人は、何も言わず、また目を伏せた。だが、俺は、悟っていた。
この王都に、俺と同じ「流れを読む目」を持つ何かが、いる。そして、その目は、ずっと前から、俺を、見ていた。剣も兵糧も通じないこの宮廷で、本当に向き合うべき相手は、あの灰色の老人だ。そんな予感が、胸の底で、静かに、根を張り始めていた。




