第60話 英雄への召喚
雪が解け始める頃、城下に、子供たちの声が、戻ってきた。
疎開していた民が、安全圏から、続々と帰ってきた。その列の中に、見慣れた小さな影を見つけて、俺は、采配所を飛び出した。
「おじさん!」
ミナが、雪解けのぬかるみを蹴って、駆けてくる。母親の手を振りほどいて、まっすぐ、俺のところへ。
「ちゃんと、生きてた!」ミナが、息を切らして、俺を見上げた。「あたしのおにぎり、食べてくれた?」
懐から、布包みを取り出した。あの日、ミナが押しつけてくれた、おにぎり。籠城のあいだ、ずっと、食べずに取っておいた。もう、固く、乾ききっている。
「ごめんなさい。食べられなかった」俺は、しゃがんで、目線を合わせた。「これを食べたら、約束が終わる気がして。あなたが帰ってくるまで、取っておきたかった」
ミナが、目を、まんまるにした。それから、ぷっと吹き出して、笑った。
「変なの! 固くなっちゃってるよ!」笑いながら、ミナの目が、潤んでいた。「新しいの、握ってあげる。今度は、ちゃんと、あったかいの」
その夜、ミナの握った、温かいおにぎりを食べた。塩だけの、何の変哲もない握り飯だった。それが、これまで食べた、どんなご馳走よりも、旨かった。米の温もりが、喉を通って、胸の奥まで、じんと染みた。
「うまい」俺は、思わず呟いた。
「でしょ!」ミナが、得意げに胸を張った。「あたし、おにぎり名人なんだから」
その隣で、母親が、深く頭を下げた。
「代官さま。あんたが、逃がす順番を、ちゃんと考えてくれたから」声が、震えていた。「うちの子も、年寄りも、一人も欠けずに、帰ってこられた。あの晩、弱い者から先に、って言ってくれて……ありがとう、ございます」
返す言葉が、喉でつかえた。俺は、ただ、頭を下げ返した。守れたのだ。この、ありふれた親子の夕餉を。それだけで、削られた身体の疲れが、少し、報われた気がした。
戦後の城は、忙しかった。城壁の修復。畑の再建。焦土にした村への、約束通りの補償。戦死者の弔い。リーゼは、傷を癒やしながら、騎士団の再編に動いた。やるべきことは、山ほどあった。
焦土にした村の、あの老農夫のところへも、足を運んだ。約束通り、種籾と、畑が実るまでの食い扶持を、領の蔵から運ばせた。
「戻ってきたな、代官さま」老農夫は、土の匂いのする手で、俺の手を握った。「あんたの言った通り、生きて、ここに戻れた。焼いた畑も、また、耕せる」
「補償が、遅くなってすみません」
「何を言う」老農夫は、首を振った。「焼くと決めたとき、頭を下げに来た領主なんざ、聞いたこともない。あの一年は、あんたに託して、正解だった」
その手の温もりが、勝利の代償の重さを、少しだけ、軽くしてくれた。数字で人を切るのではなく、補償と再建で、人を立たせ直す。それが、俺の選んだ道だった。
「英雄、ねえ」ガロが、酒の杯を片手に、にやにやした。「旦那、知ってるかい。今や大陸じゅうで、あんたの噂で持ちきりだぜ。『剣も魔法も使えねえ流れ者が、兵糧だけで帝国を退けた』ってな」
「やめてください」俺は、帳簿から顔を上げた。「俺がやったのは、ただ、数えただけです。戦ったのは、リーゼさんと、城のみんなだ」
「その『ただ数えた』が、誰にもできねえんだよ」ガロが、肩をすくめた。
ヴィオラが、算盤を置いて、口を挟んだ。
「英雄になるのは、いいことばかりじゃないわよ」彼女の目が、商人の冷たい光を帯びた。「目立てば、利用したい者が、群がってくる。特に――王侯貴族はね」
その言葉が、現実になった。
数日後、王都アーレンシアから、一通の召喚状が届いた。きらびやかな封蝋。帝国を退けた英雄を、宮廷へ召す、という。
俺は、その召喚状を、盤面で「視た」。紙と蝋。それだけのはずだった。なのに、その向こうに、嫌な流れが、透けて見えた気がした。宮廷の思惑。誰かの、計算された招き。
「行くのか」リーゼが、訊いた。
「行きます」俺は、召喚状を畳んだ。「気になることが、ある。この戦争の、帝国の采配。ところどころ、ヴァルターの用兵じゃ、説明がつかない先回りがあった。メルクリオの買い占めのときと、同じ手口だ」
「同じ力を持つ、誰か」
「ええ。俺と同じように、流れが見える誰かが、この戦争も、陰で動かしてた」俺は、窓の外、王都の方角を見た。「その糸を、たどれば――たぶん、王都に、行き着く」
「一人では、行かせん」リーゼが、傷の癒えた脇腹に、手を当てて言った。「宮廷は、戦場より、よほど剣呑だ。後ろで数えるお前を、誰が、前で守る。私が行く」
「ヴィオラさんも、来てくれると?」
「あら、大陸交易網の話、忘れてないでしょうね」ヴィオラが、算盤を鳴らした。「英雄の隣にいれば、商いの種は、いくらでも拾える。利のあるところに、私はいるわ」
その軽口が、これから向かう先の、得体の知れない重さを、わずかに、ほぐしてくれた。
剣も魔法も使えない流れ者が、大陸の英雄として、宮廷へ召される。だが、そのきらびやかな招きの奥に、ずっと俺を追ってきた影が、待っている予感がした。
俺と同じ目を持ち、その力を、人を救うためではなく、人を支配するために使う、もう一人の転移者。
長い冬は、終わった。だが、本当の対決は、これから、始まろうとしていた。




