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第59話 兵糧の前に

払暁、城門が、音もなく開いた。


リーゼ隊の精鋭が、雪の中を、北の一点へ走った。物見の篝火も乏しい、帝国軍の、最も飢えた一角。そこへ、こちらの全戦力が、束になって突き刺さる。


俺は、城壁の上から、盤面で、その一手を追っていた。矢の残り。兵の脚の速さ。退き路の安全度。物のすべてが、見える。あとは、リーゼの剣が、針の穴を、こじ開けてくれるかどうか。


帝国の北の隊は、脆かった。


三日、まともに食べていない兵は、槍を構える腕に、力が入らない。雪に膝をつき、立ち上がれない者もいた。誇り高い帝国の精鋭が、空腹で、自分の鎧の重さに、つぶれかけていた。


「物資、回ってます!」俺は、城壁から、味方の動きに合わせて指示を飛ばした。「リーゼ隊、矢の補充、間に合ってる! 退き路、確保! あと四半刻、押し込んで、合図で引いてください!」


リーゼ隊の一撃で、その一角が、呆気なく、崩れた。深手の身で、それでも先頭に立つリーゼの剣が、飢えた敵の壁を、こじ開けていく。盤面で組んだ退き路を、寸分違わず、彼女はたどっていた。前で斬る彼女と、後ろで数える俺。二つが、一つの戦になっていた。


「北、破られたぞ!」


帝国軍の中を、その叫びが、走った。


そこからは、盤面が予言した通りだった。崩れたのは、城壁でも、陣でもない。十万の、心だった。飢えて、凍えて、もう退きたい。誰もがそう思っていた軍に、「北が破られた」の報が、火薬に火を放つように、走った。


一人が退けば、隣も退く。隣が退けば、その隣も。雪崩は、止まらなかった。武装した十万の大軍が、剣の打ち合いではなく、空腹と恐慌で、自ら、総崩れを起こしていく。


「……勝った」誰かが、城壁の上で、呟いた。


歓声が、城全体に、爆ぜた。飢えと恐怖に耐え続けた人々が、肩を抱き合い、泣き、叫ぶ。その声が、雪空に、何重にも響いた。俺は、盤面を閉じることも忘れて、その光景を、ただ見ていた。


リーゼ隊は、深追いしなかった。盤面で組んだ退き路を、合図とともに、整然と引いた。崩れた十万の濁流に、一兵も、巻き込まれることなく。攻める深さと、退く際を、先に数えておいた、その通りに。


欲を出して追えば、勝った兵が、そのまま死ぬ。リーゼは、それを守った。前で斬る将が、後ろで数える者を、最後まで、信じきっていた。


退いていく帝国軍の、しんがり。一騎だけ、雪の中で、こちらを振り返る影があった。


ヴァルターだった。彼は、馬上から、城のこちらへ、ゆっくりと、頭を垂れた。武人が、敵に向ける、敗北の礼だった。それから、踵を返し、雪の向こうへ、消えていった。


数日後、一通の書状が、城に届いた。差出人は、ヴァルター。退路の途上で、したためたものらしい。


『見事だった、ノルドの代官どの』


簡潔な、武人の字だった。


『私は、貴公に敗れたのではない。兵站という現実に、敗れたのだ。十万の腹を、真冬の雪道で養い続けることの、その重さに。――だが、その現実を、これほど正確に操り、私に突きつけた者は、生涯、貴公が初めてだ』


俺は、書状を、最後まで読んだ。


『私は、武の国で、ただ一人、糧を数える者だった。誰にも理解されぬ、孤独な役目だ。貴公も、そうだろう。願わくは、いつか、敵としてではなく、語り合いたいものだ。麦の樽の数で、世界が回るという、この退屈で、最も確かな真実について』


その一文に、口の端が、つい、緩んだ。敵将と、こんなにも、同じ言葉を分かち合えるとは。


「いい負けっぷりだな」リーゼが、寝台から、書状を覗き込んだ。傷は、まだ癒えていない。それでも、起き上がれるまでに、回復していた。「自滅した連中とは、格が違う」


「ええ。あの人は、最後まで、現実から目を逸らさなかった」俺は書状を畳んだ。「武力で殴る相手より、ずっと、手強かった。そして、ずっと、敬意に値する」


「あの白い鎧の将なら」リーゼが、低く言った。父を見捨てた中央騎士団の、あの団長のことだ。「最後まで、麦の数を、笑っていただろうな」


「ええ。だから、あの人は崩れて、ヴァルターは退いた」俺は頷いた。「現実を見た者は、負けても、生きて退ける。見なかった者は、勝ってるつもりで、飢えて死ぬ。――兵站ってのは、たぶん、そういう、残酷なほど正直なものなんです」


城は、守られた。王国は、帝国を、退けた。武力も血統もない流れ者が、剣の一打ちではなく、兵糧と数字で、大陸最強の軍事大国を、打ち破った。


その報せは、その日のうちに、早馬で、大陸じゅうへ駆けていった。


だが、勝利の歓声の中で、俺は、笑えなかった。城壁の下に、雪に埋もれた、両軍の死者がいた。守れなかった命も、確かに、あった。勝った。けれど、誇る気には、なれなかった。


ただ、盤面の隅で、ずっと引っかかっているものがあった。帝国の采配の、ところどころに残された、あの「読みすぎた」痕跡。ヴァルターの用兵だけでは、説明のつかない、不自然な先回り。


この戦争もまた、陰で、あの影が、糸を引いていた。俺と同じ目を持つ、もう一人の誰かが。ヴァルターの背後で、補給線の分散を、囮の配置を、的確に指図していた、顔の見えない助言者。その正体を、確かめなければ、本当の意味で、この戦は終わらない。


勝利の歓声の中で、俺一人だけが、まだ、終わっていない戦の気配を、嗅いでいた。

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