表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
58/70

第58話 針の穴

勝機は、針の穴ほどの、小さな一点だった。


俺は、三日三晩、盤面と地図を、にらみ続けた。帝国軍の、十万の糧の流れ。どの隊が、いつ、最も飢えるか。どこの配給が、最初に途切れるか。冷たい数字が、敵の弱点を、一つずつ、浮かび上がらせていく。


「ここです」四日目の朝、俺は地図の一点を、指で押さえた。「帝国軍の、北の一角。ヴァルターの本隊から、一番遠い。補給線の、末端だ。ここの隊が、明後日の朝、糧が尽きて、最も飢える」


「なぜ、そこだと言い切れる」老将が訊いた。


「糧は、本隊から、末端へ、順に配られます」俺は、敵陣に、糧の流れる線を描いた。「本隊に近い隊は、まだ食える。一番遠い末端は、最後に回ってくる。補給が細れば、真っ先に干上がるのは、その末端だ。盤面で、一日ごとの配給を追うと、北の隊の蓄えが、明後日の払暁に、ちょうど底を打ちます」


「そこまで、見えるのか」


「物の流れは、嘘をつきません」俺は答えた。「どこに、何が、どれだけ運ばれたか。それを足し引きすれば、いつ、どこが空になるか、計算で出る。当てずっぽうじゃ、ないんです」


リーゼが、寝台に半身を起こして、地図を覗き込んだ。傷は、まだ癒えていない。だが、目だけは、戦場の鋭さを取り戻していた。


「そこを、突くのか」


「明後日の払暁。飢えて、寒さで、一番動けない時間です」俺は、味方の戦力を、その一点へ集める線を引いた。「うちの精鋭を、ここに集中させる。数では、まったく敵わない。でも、飢えた一点だけなら、こっちの少数で、こじ開けられる」


「一点を破って、どうする」老将が訊いた。「十万は、十万だぞ」


「飢えた軍は、一か所崩れると、雪崩を打ちます」俺は、盤面の士気の偏りを示した。「腹が減って、寒くて、もう退きたい。兵が皆、そう思ってる。そこへ『北が破られた』の報が走れば――『もう駄目だ』が、全軍に、伝染する。崩れるのは、剣じゃない。心です」


「博打だな」


「いいえ。計算です」俺は首を振った。「向こうの糧が尽きる刻限。最も手薄になる地点。兵の士気が折れる臨界点。全部、数えました。針の穴は、小さい。でも、確かに、空いてる。そこへ、ありったけを、通すんです」


リーゼが、寝台から、足を下ろそうとした。


「動かないでください」俺は止めた。「あなたは、まだ」


「指揮は、執れる」リーゼが、脂汗を浮かべて言った。「この一点突破、私の隊が、先頭を切る。父が守れなかったものを、二人で守る。後ろは、お前が数える。前は、私が斬る。そういう約束だっただろう」


その目を見て、俺は、止める言葉を、呑み込んだ。代わりに、頷いた。


「分かりました。なら、あなたの隊の糧と、退き路の段取りは、俺が、寸分の狂いもなく組みます」俺は言った。「突いたあと、深追いはさせない。崩れた敵に巻き込まれない、引き際まで、全部、数えておきます」


「引き際まで、か」リーゼが、口の端を緩めた。「攻める前に、退き方を決める将は、初めて見た」


「攻めるのは、一瞬です。でも、退くのを間違えれば、勝った兵が、そのまま死ぬ」俺は言った。「飢えた敵でも、十万は十万だ。崩れた群れに飲み込まれたら、こっちの精鋭も、無事じゃ済まない。だから、突く深さと、退く合図を、先に決めておく。欲を出して深追いした瞬間に、勝ちは、負けに変わります」


「お前のそれは、勝ちに、酔わない采配だな」


「酔ったら、数えられなくなりますから」


決行は、明後日の払暁と決まった。


その日まで、城内の士気を、保たねばならなかった。俺は、兵と民に、はっきりと告げた。隠さずに。


「あと二日、持ちこたえれば、勝てます」采配所の前に集まった人々へ、俺は言った。「攻めてる帝国が、先に飢えてる。これは、推測じゃない。数えた事実です。二日後の朝、こっちから、一点を突く。それで、長い冬が、終わる」


ざわめきが、広がった。疑いと、かすかな希望が、混じったざわめきだった。二十日を超える籠城で、誰もが、痩せ、疲れ切っていた。だが、誰かが、ぽつりと言った。


「代官さまの数は、いつも、当たる」


その一言が、波紋のように、広がっていった。飢えと寒さで、折れかけていた人々の背に、もう一度、芯が通っていく。


決行前夜、リーゼが、采配所に来た。痛むはずの脇腹を押さえながら、それでも、自分の足で。


「明日、お前の数字に、私の命を預ける」リーゼが言った。「いいか、レン。一つだけ、約束しろ」


「なんでしょう」


「私が突っ込んでも、お前は、盤面を見ていろ」リーゼの目は、まっすぐだった。「私を心配して、采配の手を止めるな。お前が後ろで数えているから、私は前で、思い切り斬れる。お前の冷静が、私の刃だ。――分かるか」


その言葉は、城壁で倒れたときに、彼女が託したものと、同じ重さだった。前で斬る者と、後ろで数える者。互いを信じきって、初めて、一つの戦になる。


「分かりました」俺は頷いた。「俺は、盤面から、目を離しません。あなたの退き路が、一瞬でも崩れたら、すぐ手を打てるように。だから――必ず、その路を通って、帰ってきてください」


「ああ。約束だ」


決行前夜。城は、奇妙な静けさに包まれた。誰もが、息を潜め、その時を待っている。


俺は、最後にもう一度、盤面を開いた。すべての数字が、明後日の払暁、北の一点へ、収束していく。読みが正しければ、武力大国が、兵糧の前に、膝をつく。


針の穴に、糸を通す時が、来ようとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ