第56話 二人で守る
リーゼは、死ななかった。
槍は、脇腹の肉を抉ったが、急所を外していた。城壁から運び下ろされた彼女を、医療班が囲む。血を止め、傷を縫う。その光景を、俺は、采配所の入り口で、立ち尽くしたまま見ていた。
手が、動かなかった。
盤面を開けば、城の数字が、待っている。東の壁の矢の残り。疲れた兵の配置。配給の刻限。視て、采配を続けなければ、城がもたない。それは、分かっていた。分かっていて、指が、一文字も、帳簿をめくれなかった。
「レンさん」ヴィオラが、肩を揺すった。「しっかりして。あなたが止まったら、城が止まる」
「……守れなかった」声が、掠れた。「城の物は、全部見えてた。矢の一本まで。なのに、彼女に槍が迫るのだけは、見えなかった。この力に、何の意味が、あるんだ」
握りしめた手の中で、爪が、掌に食い込んでいた。
その時、布越しに、掠れた声が飛んだ。
「……情けない顔を、するな」
リーゼだった。縫合の最中、脂汗を浮かべ、それでも、こちらを睨んでいる。意識が、あった。
「喋るな。傷が開く」医療班が、慌てて押さえる。
「黙れ。少しだけだ」リーゼは、痛みに顔を歪めながら、俺だけを見ていた。「レン。そんな顔を、するな。私は、生きてる。槍は、急所を、外した」
「動かないでください。お願いだから」俺は、その手を、取った。冷たく、血で汚れた手だった。
「レン。よく、聞け」
俺は、近づいて、膝をついた。汗と血の、鉄臭い匂いがした。
「私が、城壁で守ろうとしたもの」リーゼの声は、切れ切れだった。「あれを、お前が、数字で守れ。私の剣が届かない所を、お前の数字が守る。それが――私と、お前の、戦いだろう」
「リーゼさん」
「父は、守れなかった」リーゼの指が、俺の袖を、弱く掴んだ。「補給が、来なかったから。誰も、後ろを、見なかったから。だが、今は、違う。お前が、後ろを見てる。なら、父が守れなかったものを――今度こそ、二人で、守れる。私が前で、お前が後ろで」
その言葉が、止まっていた俺の中の、何かを、つき動かした。
父の最期の手紙。「腹が、減った」。あの一行に、十数年、苦しんできた人が、今、自分の傷も忘れて、俺に、託している。あなたの剣が守るものを、俺の数字で守れ、と。
「守ります」俺は言った。声が、震えていた。それでも、はっきりと。「あなたが守ろうとしたものも。城の、八千も。それから――あなた自身も。全部、俺が、数えて、守る」
リーゼの口の端が、わずかに、緩んだ。それから、力尽きたように、目を閉じた。眠っただけだ、と医療班が言った。
俺は、立ち上がった。采配所へ戻る。盤面を開く。今度は、指が、震えなかった。
東の壁、矢があと二百。疲れた三番櫓、南の予備と交代。負傷者の手当てに、布が不足。数字が、次々と流れ込んでくる。さっきまで、ただ冷たかったその数字の一つひとつが、今は、守るべき誰かの、命の重さを帯びていた。
「ヴィオラさん。配給、続けます」俺は、帳簿を引き寄せた。「リーゼさんが、命がけで稼いでくれた時間を、無駄にしません。一刻も、一粒も」
「ずいぶん、顔が変わったわね」ヴィオラが、算盤を構え直した。「さっきまで、幽霊みたいだったのに」
「やることが、はっきりしたんです」俺は、帳簿に数字を書き込んだ。「彼女が前で守る。俺が後ろで守る。それだけ、考えてればいい」
ベルクが、薬湯の椀を、リーゼの枕元に運んでいた。傷に効く薬草を、煎じたものだ。城の蔵の隅に、わずかに残っていた。
「薬草も、数えてあったのか」ベルクが、ぼそりと言った。
「籠城前に、負傷者が出ることは、見込んでました」俺は答えた。「武具や矢と同じで、薬も兵站です。傷を治して、一人でも多く、また立てるようにする。それも、戦力の維持なんです」
感情を、殺すんじゃない。感情を、力に変える。報われない裏方だった俺が、初めて、心の底から、守りたいと思える人と、ものを、持っていた。それは、過労で潰れたあの夜には、想像もできなかった重さだった。
夜半、盤面をにらみ続けるうちに、俺は、ふと、別の流れに気づいた。
城を囲む、帝国の大軍。その糧の流れが、ここ数日、明らかに、細くなっている。焦土が効いている。補給線が、雪と地形に、苦しんでいる。
攻めているはずの十万が、籠るこちらより先に、痩せ始めていた。長い包囲が、いつの間にか、攻める者の首を、絞め返していた。
「これは」俺は、盤面の数字を、二度、見直した。見間違いではなかった。
ヴァルターの強攻には、誤算があった。彼は、城を短期で落とせると踏んで、糧を一気に前線へ注いだ。だが、城は落ちなかった。リーゼの守りと、徹底した籠城采配が、彼の想定を、超えて持ちこたえた。その間に、前へ注いだ糧が、戻らない。後ろの補給は、雪道で痩せ細る。
その誤算の輪郭が、盤面の中に、はっきりと、浮かび始めていた。攻めあぐねた十万が、自分の重さで、沈みかけている。
「リーゼさんが、稼いでくれた時間だ」俺は、眠る彼女の方を見た。「あなたの守った一日、一日が、向こうの首を、確実に絞めてる」




