第55話 守れない数字
ヴァルターの揺さぶりは、執拗だった。
夜に小さな攻めをかけては退き、明け方にまた別の門を突く。そのたび、城は兵を起こし、矢を放ち、糧を食う。一度の攻めで失うものは、わずかだ。だが、それが、毎日続けば、塵も山になる。俺は、その消耗を、盤面で追い続けた。眠る暇は、ほとんどなかった。
「向こうも、苦しいはずなんです」俺は、痛む目を押さえて、ヴィオラに言った。「焦土で現地調達を断った。本国からの補給線も、細い。十万の腹は、こっちより、ずっと重い」
「なら、なぜ、攻めを強める の」
「焦ってるんです、ヴァルターも」俺は盤面の、敵の糧の流れを示した。日に日に、細くなっている。「長期戦になれば、自分が干上がる。それが分かってるから、短期で、城を落とすしかなくなった。揺さぶりは、その前段だ。本気の総攻撃の前に、こっちを、削れるだけ削っておく腹づもりです」
「向こうの蔵が、いつ底をつくか」俺は、痛む目で、盤面の敵の糧を追った。「こっちの蔵が、いつ尽きるか。本当の勝負は、そこです。あと十日、城がもてば、たぶん、向こうが先に、退く。十万を飢えさせるより、八千を飢えさせるほうが、まだ、易しい」
「あと十日」ヴィオラが、算盤を止めた。「綱渡りね」
「ええ。だから、ヴァルターは、十日を待てない」俺は頷いた。痛みで、視界がまた白く滲む。「待てば、自分が負ける。だから、その前に、力ずくで決めにくる。揺さぶりじゃ、もう、間に合わない。次は、本気で、来ます」
その読みは、正しかった。
包囲十九日目の朝、帝国軍が、これまでにない数で、東の城壁に押し寄せた。揺さぶりではない。本気の、城を落とすための攻めだった。
地を埋めた兵が、梯子を担いで、城壁へ取りつく。矢が、雪空を、黒く埋めた。城壁の上から、煮えた油の、焦げ臭い匂いが立ちのぼる。守る兵の怒号と、攻める兵の喊声が、一つにまざって、城全体を揺らした。
「東門、来ます!」俺は采配所から叫んだ。「リーゼさん、東です! 一番、厚いところが来てる!」
「分かっている!」リーゼが、剣を抜いて、城壁へ駆けた。鎧の音が、遠ざかる。
俺は盤面で、戦いの「物」を追った。矢の残り。城壁の崩れかけた箇所。兵の疲労の偏り。どこに矢を回し、どこの守りを厚くするか。物資の流れなら、手に取るように見える。指示は、的確に飛ばせた。
「西の備蓄から、矢を東へ二百! 油は、北門の分を半分、東へ回す!」俺は、伝令を次々に走らせた。「東の三番櫓、兵が疲れてる。南の予備と、半刻で交代! 疲れた腕は、矢を外す。当たらない矢は、ただの無駄だ!」
数字が、戦線を、支えていた。どこが薄く、どこが厚いか。どこで兵が力尽きかけているか。盤面は、戦場の「足りない」を、正確に教えてくれる。それを埋めるだけで、崩れかけた守りが、ぎりぎり、繋がっていく。
だが――盤面は、物しか映さない。
リーゼが、今、どこで、誰と斬り結んでいるか。次の一撃が、彼女に届くのか、彼女が躱すのか。それだけは、数字にならなかった。剣の行方は、俺の盤面の、外にあった。
「物資は、回してます!」俺は、城壁へ向かって叫んだ。声が、嗄れた。「東の壁、あと半刻、もたせれば、敵の前列が、疲れて退きます! それまで――」
盤面が、敵の攻めの「底」を、映していた。この猛攻は、長くは続かない。帝国兵もまた、飢えと寒さで、疲弊している。死に物狂いの一撃に、ありったけを注いでいる。それを半刻、しのぎ切れば、向こうの腕が、先に上がらなくなる。数字は、はっきりと、そう告げていた。
あと半刻。たった半刻だ。城壁の兵に、それを信じさせ、踏ん張らせれば、勝てる。俺は、伝令に、ありったけの予備兵を、東へ送らせた。
その時だった。
城壁の上で、喊声が、ひときわ高く上がった。東の防壁の一角が、敵兵に取りつかれた。その最前で、剣を振るう、見慣れた背中があった。
リーゼだった。崩れかけた壁の、一番危ない場所を、彼女が、自分の体で塞いでいた。守るとは、兵を飢えさせないことだ――そう言ってくれた、あの背中が。
盤面の中で、俺は、東門に回せる矢の数を、正確に数えていた。城壁のどこが崩れるかも、見えていた。あと半刻の、しのぎ方も、組めていた。
なのに。
俺は、この城の、何万という物の流れを、頭の中に収めている。麦の一粒、矢の一本、薪の一束まで。誰が、いつ、何を、どれだけ要るか。それを読み切って、八千の命を、繋いできた。城の運命さえ、数字で、背負ってきた。
その俺が、たった一人の、剣の行方だけは、どうしても、読めなかった。彼女の足の運び。次の一手。迫る刃。それは、物ではない。だから、盤面に、映らない。
その背中に、横合いから、敵兵の槍が、突き出されるのが見えた。リーゼは、正面の敵に、剣を合わせていた。横は、見えていない。
声が、出なかった。喉が、貼りついたように、動かない。盤面なら、まだ間に合う配分も、迫る危機も、いくらでも読める。だが、今この瞬間に、彼女を救う数字は、どこにも、なかった。
「リーゼッ!」
俺は、采配所を飛び出していた。盤面も、帳簿も、放り出して。声が、届くはずもない距離だった。物資なら、いくらでも数えられる。城の命運を、数字で背負える。
それなのに、たった一人、守りたい人の命だけは、俺の数字の、どこにも、なかった。
リーゼの体が、城壁の上で、ぐらりと傾いだ。




