第54話 視る者の代償
最初に倒れたのは、文字だった。
帳簿の数字が、急に、にじんで、二重に見えた。俺は目をこすった。戻らない。盤面を開けば、城内の物資の流れが、白い霧の向こうに、ぼやけている。視ようとするほど、こめかみの奥に、焼け火箸を当てられたような痛みが走った。
籠城十五日目。俺は、朝から晩まで、城内のすべてを視続けていた。
蔵の麦が、予定通り減っているか。井戸の水が、濁っていないか。負傷者の手当てに、布が足りているか。どこかで、誰かが、こっそり多く取っていないか。視るのをやめれば、配分は、すぐに乱れる。乱れれば、最後の日数が、縮む。誰かが、飢える。
「レン」リーゼが、采配所に入ってきた。足を止め、俺の顔を見て、声を硬くした。「お前、顔が、紙より白い」
「平気です」俺は、盤面を視ようとして、また、ずきりと痛んだ。手で、口を押さえる。喉の奥から、酸っぱいものが、せり上がってきた。
「平気な人間の顔じゃない」リーゼが、卓に手をついた。「休め。一日でいい。お前が倒れたら、元も子もない」
「リーゼさんこそ、休んでください」俺は、無理に口の端を上げた。「夜襲のたびに、真っ先に城壁へ駆けてるでしょう。盤面で、あなたの隊の疲労が、一番、溜まってるのが見えてます」
「私は、剣を振るだけだ。お前のように、頭を、すり減らしてはいない」リーゼが、首を振った。「それに、私が休めば、兵が不安がる。お前が休んでも、配分の数字は、半日くらい、誰かが代われる」
「代われません」俺は、静かに言った。「ヴィオラさんが帳簿は引き受けてくれてます。でも、城全体の流れを、丸ごと視るのは、この力を持つ俺にしか、できない。どこで、何が、いつ足りなくなるか。それを読み違えたら、配分が崩れる」
「休んだら」俺は、息を整えた。「その一日で、配分が乱れます。誰が多く取り、誰が飢えるか、見えなくなる。そうしたら、最後の数日で、何人か、死ぬ。俺が視るのをやめた分が、そのまま、誰かの死に変わるんです」
リーゼが、言葉を失った。
「この力は」俺は、痛む目を、無理に開いた。「ずっと前から、知ってました。視すぎると、自分が、削られる。前は、頭痛で済んだ。今は――視界が、白く飛ぶ。けど、今、視るのをやめる選択肢は、俺には、ない」
ベルクが、湯気の立つ椀を、俺の前に置いた。具のない、薄い粥だった。麦の、淡い匂いがした。
「食え」ベルクが、ぼそりと言った。「お前さん、自分の椀だけ、ずっと薄くしてるだろう。儂が、四十年蔵を見てきた目を、舐めるな。全部、見えてる」
「……ばれてましたか」
「皆に分けるお前が、先に倒れてどうする」ベルクの、皺だらけの手が、椀を、ぐいと押した。「お前が立ってるから、城が立ってる。お前を食わせるのも、立派な兵站だぞ、代官さま」
その言葉が、妙に、胸に染みた。
前世の俺は、報われない裏方だった。どれだけ数字を合わせても、誰も見ていなかった。納期を守って当たり前。在庫を切らさず当たり前。倒れても、代わりはいると言われた。「お前のやってる仕事は、誰にも理解されない」。上司の、その一言が、今も耳に残っている。そう諦めて、心をすり減らして、最後は、机に突っ伏したまま、運ばれた。
あの時の俺は、自分の仕事に、意味を見いだせなくなっていた。数字を合わせることが、誰かの役に立っている実感が、どこにもなかった。
今は、違った。俺が削れていくのを、見て、案じてくれる人が、いる。薄い粥を、押しつけてくれる人が、いる。子供が、握り飯を、託してくれる。俺の数えた数字が、今日も、誰かの腹を、確かに満たしている。それが、目に見える。同じ「裏方の数勘定」が、ここでは、命を繋ぐ仕事になっていた。
懐から、布包みを取り出した。ミナが、別れ際に押しつけてくれた、おにぎりだった。もう、すっかり冷えて、固くなっている。それでも、俺は、まだ食べずに、取っておいた。これを食べたら、あの子との約束が、一つ、終わってしまう気がして。
「子供から、飯を貰ったのか」ベルクが、それを見て、ふっと、目を細めた。
「ええ。元気が出るからって」俺は、おにぎりを、また布に戻した。「だから、まだ、倒れるわけにいかないんです。これを、あの子の前で食べる約束が、ある」
「いただきます」俺は、ベルクの粥の椀を、両手で包んだ。掌に、じわりと熱が伝わってくる。一口すすると、薄い塩気が、舌に、しみた。
それでも、俺は、盤面を閉じなかった。粥をすすりながら、痛む目で、城内の数字を、視続けた。視る者の代償が、この頭痛なら、引き受ける。報われなかった裏方の力が、今、確かに、八千の――いや、逃がした者を含めれば、もっと多くの命を、繋いでいる。それなら、安いものだ。
夜半、城壁の方角で、鬨の声が上がった。
帝国軍の、小規模な夜襲だった。すぐに退いた。だが、盤面の中で、その動きには、妙な意図が透けていた。本気で城を落とす攻めではない。こちらに矢を使わせ、兵を起こし、糧と眠りを、削るためだけの攻撃。
「揺さぶってきてる」俺は、痛む頭を押さえた。「ヴァルターだ。俺が城の生命線だと、見抜いてる。だから、俺に、休ませない。少しずつ突いて、こっちの消耗を、誘ってる」
見えていた。だが、見えていても、対処には、また盤面を視るしかない。視れば、また、削られる。
俺を削るための攻撃を、俺は、削られながら、読むしかなかった。




