第52話 焼く者の手
「焦土だと?」リーゼの声が、采配所の空気を裂いた。「味方の土地を、焼くというのか」
地図の上には、城の外に点々と散る、村と畑のしるしがあった。包囲の外側。まだ、帝国の手が、完全には及んでいない場所。
「帝国の十万は、本国からの補給だけじゃ、足りません」俺は、その点を、一つずつ指した。「足りない分を、この辺りの村や畑から、奪って補ってる。現地調達です。ここを、こちらが先に焼いて、断つ。そうすれば、奴らは、長い補給線一本だけが、頼りになる」
「そこを、断てば」リーゼが、息を呑んだ。
「敵は、雪道の補給線を、延々と守らなきゃならない。守るのにも、糧が要る。籠城が長引くほど、向こうの蔵が、確実に、空に近づく」俺は盤面を閉じた。「数字の上では、これが、一番確実な勝ち筋です」
「だが」リーゼは、地図のしるしを見たまま、動かなかった。「そこには、まだ、逃げ遅れた民がいる。その畑は、誰かの、来年の種籾だ」
「分かってます」
その短い答えに、俺の声は、自分でも驚くほど、重く沈んだ。
「焦土をしなければ」俺は続けた。「敵は現地で食い繋ぎ、籠城は長引き、城の八千が、先に飢えます。焦土をすれば、城は生き延びる。けど、村の蓄えと畑が、灰になる。どちらを選んでも、誰かが、何かを失う。それでも、選ばなきゃ、もっと多くを、失う」
「正しいのだろうな、数の上では」リーゼが、低く言った。「だが、正しさで、人の暮らしを焼けるのか」
「焼けません」俺は、即答した。「正しさだけじゃ、焼けない。だからこそ、焼くなら、ただ焼くだけじゃ、駄目なんです」
前世で、俺は、何度も似た判断をした。採算の合わない倉庫を畳む。不採算の路線を切る。紙の上で、線を一本引けば、現場の誰かの仕事が、消えた。その「誰か」の顔を、俺は、見ないようにしてきた。コストとして、数字として、処理してきた。
今、また、同じ線を引こうとしている。違うのは――今度は、その「誰か」の顔を、俺が、全部知っていることだ。
「レンよ」ベルクが、ぼそりと言った。「お前さん、さっきから、ずっと、自分の手を見てるぞ」
気づけば、卓の上で、両手を握りしめていた。焼く者の手だ、と思った。
その夜、俺は、焦土の対象になる村を、自分の足で回った。逃げ残った民を、一人ずつ訪ねた。隠れて断行すれば、楽だった。だが、それだけは、したくなかった。
「あんたの蓄えを、焼かせてほしい」俺は、頭を下げた。「敵に渡せば、奴らはそれを食って、もっと長く、ここに居座る。もっと多くの人が、死ぬ。だから――焼く」
老農夫は、長いこと、黙っていた。囲炉裏の薪が、ぱちりと爆ぜた。煤と、土の匂いがした。
「代官さま」やがて、老農夫が、口を開いた。「あんた、わざわざ、頭を下げに来なすった。焼くだけなら、黙って火をつけりゃ、済む話だ」
「あなたの一年を、奪うんです」俺は言った。「黙って奪うなんて、できません。約束します。この戦が終わったら、種籾も、蓄えも、必ず、領が補う。畑が実るまでの食い扶持も、出す。土地も、元通りにする。焼くのは、今だけだ。あなたの暮らしまで、焼くんじゃない」
老農夫の、皺だらけの手が、俺の手を、ぎゅっと握った。土の匂いのする、固い手だった。
「燃やしな」掠れた声だった。「どうせ敵にくれてやるくらいなら、あんたに、託す。生きて、ここに戻れる戦に、してくれ」
焦土は、計画通り、最小限で断行された。村人を逃がし、家屋は残し、ただ蓄えと畑だけを、選んで焼いた。煙が、雪空に、何本も立ちのぼった。その一本一本が、誰かの一年だった。
城へ戻る道すがら、リーゼが、ぽつりと言った。
「父の戦は、逆だった」雪を踏みながら。「中央は、辺境の砦を、見捨てて焼いた。誰にも、頭を下げなかった。補償も、約束も、なかった。ただ、捨てた」
「……」
「お前は、頭を下げに行った」リーゼが、こちらを見た。「同じ『焼く』でも、お前のそれは、父を見捨てた連中とは、違う。何が違うのかは、うまく言えん。だが、違う」
その言葉が、握りしめていた俺の手から、少しだけ、力を抜いてくれた。
「人を、数字で切るのは、簡単なんです」俺は、煙の立つ空を見た。「採算が合わない。だから切る。それで済ませれば、楽だ。でも、切られる側にも、暮らしがある。顔がある。それを忘れたら――俺は、ただの、冷たい計算機になる。それだけは、なりたくない」
帝国の大軍は、現地調達の道を断たれた。残るは、本国からの、長く細い補給線ただ一本。
数日後、その補給線の動きが、目に見えて、慎重になった。誰かが、こちらの意図を、正確に読み取っている。
「ヴァルター、か」俺は盤面の、遠い線を見た。敵将は、焦土の意味を、即座に察していた。補給線を分散させ、囮の隊を出し、こちらに遮断の的を絞らせない。一本断てば、別の道へ。遮断の的を、決して、絞らせなかった。
「向こうも、必死だ」俺は呟いた。焦土が、効いている証拠でもあった。ヴァルターほどの将が、これだけ用心するのは、それだけ補給が、苦しくなっている裏返しだ。
焼く覚悟を決めた俺の前に、その焦土すら読み切る男が、静かに、対局の駒を進め始めていた。互いに、相手の蔵が、いつ底をつくか。長い、にらみ合いが、また一段、深くなった。




