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第50話 包囲の始まり

地平が、黒く、動いていた。


夜明けとともに、帝国の本隊が、姿を現した。雪原の彼方から、こちらへ向かって、果てしなく続く人と馬の列。旗が、数えきれないほど立っている。胸壁の上で、若い兵が、息を呑む音がした。


「……数が、違う」リーゼが、低く言った。剣の柄に手を置いたまま。「ヴァルターの足止めは、この数を、運び込むための時間だったか」


俺は盤面を開いた。敵軍の規模を、流れから数える。湧き上がる数字に、こめかみが、ずきりと痛んだ。連続して視れば、また視界が白く飛ぶ。それでも、目を逸らせなかった。


「十万を、超えてます」声が、掠れた。「こっちは、城兵と避難民を合わせて、八千。まともにぶつかれば、半日も、もたない」


ノルド領の要衝、要塞都市タレスの城門が、固く閉ざされた。逃げ込んだ民を含めて、ここに、八千の命がある。


「籠城だ」俺は言った。「平地で数に当たれば、押し潰される。だが、城壁の中に籠れば、敵は、城を囲み続けるために、十万の腹を、毎日満たし続けなきゃならない。攻める側のほうが、多くの糧を食う」


「逆じゃないのか」若い隊長が、口を挟んだ。「囲まれて、糧を断たれるのは、こっちだろう」


「半分、その通りです」俺は頷いた。「けど、考えてみてください。城に籠る八千人と、それを囲む十万人。どっちが、多く食うか。どっちが、補給を遠くから運ばなきゃならないか」俺は地図の、敵の後方を指した。「向こうは、十万の食料を、雪道を越えて、毎日、はるばる運び続ける。こっちは、城の蔵から出すだけだ。長引けば、運ぶ手間の分だけ、向こうが先に、音を上げる」


「干上がらせる、というわけか」リーゼが、こちらを見た。「奴らが先に、音を上げるまで」


「それが、唯一の勝ち筋です」俺は地図に、城を囲む包囲線を引いた。「武では勝てない。なら、籠城の物資管理で勝つ。どっちの蔵が先に空になるか。それだけの勝負に、持ち込む」


だが、籠城は、希望の戦い方ではなかった。


俺は、城内の備蓄を、盤面で一気に洗い出した。麦、塩、干し肉、豆、水、薪。八千人が、一日に食う量。それで割る。冷たい数字が、答えを返してきた。


「……四十日」俺は、その数を、口の中で転がした。「今の備蓄で、八千人を生かせるのは、切り詰めて、四十日。それを過ぎれば、こちらが先に、飢える」


城内の広間に、各隊の長と、領の主だった者が集まった。ガロも、ヴィオラも、ベルクも、ミナの母親も、いる。俺は、その四十日という数字を、隠さずに告げた。


「四十日のうちに、帝国を、退かせる」俺は言った。「そのために、今日から、配給を管理します。一粒も、無駄にしない。誰が、いつ、どれだけ食うか。すべて、俺が数えて、決める。きつい話です。けど、どんぶり勘定で食えば、三十日で全員が飢える。数えれば、四十日、皆が生きられる」


「四十日で、足りるのか」ヴィオラが、静かに訊いた。挑発の色は、なかった。


「足りさせます」俺は答えた。「向こうの十万も、楽じゃない。あれだけの大軍を、真冬に、毎日食わせる。敵の蔵も、確実に、削れていく。ヴァルターなら、それが分かってるはずだ。長い籠城は、向こうにとっても、地獄になる」


「儂は、四十年、この城の蔵を見てきた」ベルクが、ぼそりと言った。皺だらけの手で、白い顎鬚を撫でる。「水だけは、城の井戸が枯れたことがない。そこは、安心しろ。あとは、お前さんの数字次第だ」


「井戸が生きてるのは、大きい」俺は頷いた。「水を運ぶ手間がない分、麦に集中できる。ベルクさん、井戸の水量も、毎日、見ておいてください。濁りや減りが、籠城の隠れた急所になる」


ヴィオラが、算盤を、ぱちりと鳴らした。


「配給の帳簿は、私が引き受けるわ」算盤の珠を、指先でそろえる。「あなた一人で八千人ぶんを数えてたら、その頭が先に潰れる。数えるのは、私も得意よ」


「助かります」俺は、本心から言った。盤面の連続使用は、確実に俺自身を削る。任せられる手が、一つでも多いほうがいい。「配給は、二段構えにします。兵には、戦える最低限を。民には、生きられる最低限を。そのうえで、子供と病人には、こっそり、ひとさじ多く回す」


「兵より、子供を厚くするの?」ヴィオラが、眉を上げた。「戦には、不利でしょう」


「子供が痩せていく城は、大人の心が、先に折れます」俺は静かに言った。「数字は、腹の足し算だけじゃない。人の心が、いつ折れるか。それも、勘定に入れないと、籠城はもたない。腹より先に、心が飢えるんです」


ヴィオラは、しばらく俺を見ていた。それから、算盤を、ことりと置いた。


「……あなた、やっぱり、ただの計算屋じゃないわね」


その時、城外で、地を揺らす音が響いた。帝国軍が、包囲線を、ぐるりと完成させた音だった。逃げ道が、塞がれた。鈍く重い、その振動が、城壁ごしに、足の裏に伝わってくる。


俺は、盤面の中の、城内の備蓄に目を落とした。残量を示す数字が、今日から、一日ずつ、確実に減り始める。


四十日。長い冬の、最後の攻防が、始まった。八千人の命の重さが、そのまま、俺の数字の上に、乗っていた。


一粒の麦を、どこで惜しみ、どこで惜しまないか。その判断の一つひとつが、誰かの生死を分ける。盤面の数字を、俺は、これまでで一番、重い気持ちで見つめた。

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