第49話 父の最後の手紙
大軍が来る前の夜は、奇妙なほど、静かだった。
砦の見張り櫓で、俺は最後の物資台帳を繰っていた。明日にも、地平を埋めた帝国の本隊が、ここへ届く。その前に、籠城に備えて、蔵の中身を一袋まで数え直しておきたかった。
「まだ、数えているのか」リーゼが、櫓の梯子を上ってきた。手に、毛織りの肩掛けを二枚抱えている。一枚を、黙って俺の肩に乗せた。羊の匂いが、ふわりとした。
「明日からは、数える暇もないでしょうから」俺は台帳を閉じた。「今のうちに」
二人で、雪の積もった胸壁に並んだ。眼下の闇に、帝国軍の松明が、無数に灯っている。星が地に降りたように、それは静かで、そして、恐ろしい数だった。
「父も」リーゼが、ぽつりと言った。松明を見たまま。「あんな夜を、見たのだろうな」
俺は、何も言わずに、続きを待った。湯気の立たない、冷えた夜気が、二人の間を流れていく。
「父の砦は、もっと小さかった」リーゼの声は、低かった。「帝国とは別の、内乱の戦だ。中央は、辺境のその砦を、囮に使った。本隊が逃げる時間を稼ぐために、わざと、補給を止めた。矢も、食料も、最初から、寄越す気がなかった」
風が、櫓の旗を鳴らした。
「父は、気づいていたと思う」リーゼの指が、胸壁の雪を、無意識になぞった。「補給が来ないと。見捨てられたと。それでも、退かなかった。退けば、後ろの村が、踏み荒らされる。だから……飢えて、矢が尽きて、それでも、最後まで」
言葉が、途切れた。俺は、肩掛けの下で、彼女の手が、固く握られているのを見た。
「最後の手紙に」やがて、絞り出すように続けた。「『腹が、減った』と。それだけ書いてあった。武勇では、誰にも負けなかった人が。最期に、書き残したのが、それだ」
「ずっと」俺は、静かに訊いた。「武で守ることに、こだわってきたのは」
「……父の死を、否定したくなかったんだ」リーゼが、初めて、こちらを向いた。乾いた目をしていた。「武が、父を殺したと認めたら、父の生き様まで、間違いだったことになる。だから、武勇こそ騎士の本分だと、自分に言い聞かせてきた。違うと、どこかで分かっていながら」
俺は、しばらく、松明の海を見ていた。掛ける言葉を、慎重に選んだ。安い慰めを言えば、この人は、二度と心を開かない。
「あなたの父上を殺したのは、武じゃない」俺は言った。「補給を軽んじた、指揮です。軽んじた側が、人を殺した。あなたの父上は、軽んじられた側だ。最後まで、村を守ろうとした。恥じることなんて、何ひとつ、ない」
リーゼの肩が、わずかに、震えた。声は、漏らさなかった。雪が、その肩に、静かに積もっていく。
「俺は、それが許せないんですよ」俺は、続けた。「数えれば防げた死を、誰も数えなかったから、人が死ぬ。あなたの父上のような人が、腹を空かせて死ぬ。だから、俺は、数える。意地でも。同じ手紙を、二度と、誰にも書かせない」
リーゼは、しばらく、何も言わなかった。やがて、胸当ての内側から、一枚の、古い紙片を取り出した。幾度も折り畳まれ、角が擦り切れている。
「これが、その手紙だ」リーゼが言った。「十数年、肌身離さず、持っていた。誰にも、見せたことがない」
俺は、受け取らなかった。受け取る資格が、自分にあるとは思えなかった。代わりに、その擦り切れた紙片を、ただ、じっと見た。
「あなたの父上は」俺は言った。「最期まで、村のことを、考えてた。腹が減ったと書いたのは、弱音じゃない。後ろの誰かに、補給を、頼みたかったんだと思う。届かなかっただけだ。その声は、確かに、ここまで届いてます。十数年、越えて」
リーゼの手の中で、紙片が、かすかに震えた。彼女は、それを、そっと、胸当てに戻した。
長い、沈黙があった。松明の灯が、風に、いっせいに揺れた。
「レン」リーゼが、口を開いた。声に、もう震えはなかった。「私は、決めた。武で守れぬものを、お前が、糧で守る。なら――お前が守ったものを、私の剣で、守り抜く」
それは、父の死を、十数年かけて、ようやく置き直した言葉だった。武勇と、兵站。長いあいだ、彼女の中で相容れなかった二つが、初めて、一本に繋がった。
「頼りに、してます」俺は言った。「明日からは、あなたの剣がなければ、俺の数字も、ただの紙切れだ」
「ふん」リーゼの口の端が、わずかに緩んだ。「言うようになったな、倉庫番」
「一つ、約束してください」俺は、松明の海を見たまま言った。「無茶を、しないでほしい。あなたが前で倒れたら、俺は、後ろで数字を数える理由を、半分、失います」
リーゼが、こちらを見た。何か言いかけて、口をつぐむ。雪が、二人の間に、静かに降りていた。
「……善処する」やがて、ぶっきらぼうに、そう言った。「お前こそ、盤面の使いすぎで、ぶっ倒れるなよ。後ろで数える奴が潰れたら、私の剣も、振るう先を失う」
おあいこだ、と言いたげな顔だった。俺は、つい、笑ってしまった。こんな夜に、笑えるとは思わなかった。
リーゼは、それ以上、何も答えなかった。ただ、肩掛けの位置を、もう一度、俺の肩の上で直した。その手が、少しだけ、長く留まった。羊の匂いと、夜気の冷たさの中で、その温度だけが、はっきりと残った。
明日、大軍が来る。物資の極限の地獄が、始まる。
それでも、隣に、この人がいる。守るべきものと、守ってくれる人が、はっきりと、ここにいた。それだけで、明日の数字に、向き合える気がした。




