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第48話 読み合う二人

最初に動いたのは、ヴァルターだった。


「旦那、西の中継地が襲われた!」ガロが、雪まみれで駆け込んできた。「荷駄が三台、焼かれた。守りは薄かったが……よりによって、なんであそこを」


俺は盤面を開いた。西の中継地。三つ置いた要のうち、一番、目立たない一つだった。兵糧の本筋ではない。馬の蹄鉄と、修理用の鉄。地味で、誰も狙わないと踏んでいた場所だ。


「……読まれてる」掌が、ひやりとした。「あいつは、麦じゃなく、蹄鉄を狙った。馬が止まれば、押し返しの足が鈍る。兵糧を断つより、静かで、効く。中央騎士団を葬ったのと、同じ考え方だ」


ヴァルターには、俺の盤面はない。視界も、触れた範囲も、数値も見えていない。なのに、長年の用兵だけで、俺が「ここは安全」と油断した一点を、正確に嗅ぎ当ててくる。


「俺の盤面に匹敵する読みを、こいつは、経験だけでやってる」俺は呟いた。背筋を、冷たいものが這う。「気味が悪い。けど――あの読みすぎる影とは、違う」


ザイルを操っていた、あの正体不明の手口。あれは、こちらの思考の順番までなぞる、不自然な先回りだった。ヴァルターは違う。彼の読みには、ちゃんと、人間の理屈の足跡がある。経験と、観察と、用兵の積み重ね。だから、こちらにも、読み返せる。同じ土俵で、戦える。


「リーゼさん」俺は地図を広げた。「次にヴァルターが狙うのは、こっちの想像の裏です。俺たちが『次は北を守る』と思えば、あいつは南を突く。なら、わざと、北を手薄に見せましょう」


「囮か」リーゼが、身を乗り出した。


「あいつは、俺が手薄にした所を『罠かもしれない』と疑う。疑って、慎重になる。その慎重さの分だけ、向こうの動きが、遅くなる」俺は線を引いた。「決定打は出せない。けど、向こうにも出させない。互いに、急所を守り合いながら、にらみ合う」


「敵の動きを、止めるために、自分の隙を見せるのか」リーゼが、唸った。「綱渡りだな」


「囮の北が、本当に突かれたら、こっちが崩れます」俺は正直に言った。「だから、北の手薄は、見せかけだけ。盤面で、ヴァルターの本隊の糧がどっちへ流れてるかを見て、あいつが本気で北を狙ってないか、最後の最後で見極める。一手、読み違えたら――終わりです」


読み合いが、始まった。


俺が補給路を組み替えれば、ヴァルターはその意図を読んで、別の急所を探る。ヴァルターが囮を置けば、俺は盤面で物資の流れを確かめ、それが本命か囮かを見抜く。一手ごとに、互いの呼吸を計る。決め手のない、神経をすり減らす攻防が、幾日も続いた。


何度か、肝が冷えた。ヴァルターの一手が、俺の盤面の読みを、わずかに上回った瞬間があった。南の橋を、半日早く落とされ、荷駄が一日、立ち往生した。すぐに迂回路へ回して事なきを得たが、もし盤面で流れを追っていなければ、丸ごと飢えていた。


「ぎりぎり、防いだ」俺は冷えた汗を拭った。「あいつは、橋が落ちる前提で、こっちの迂回路まで読んでた。その迂回路の、さらに裏まで手を打とうとしてた。盤面がなけりゃ、こっちが先に音を上げてる」


一度だけ、奇妙なことがあった。俺が囮に置いた北の手薄を、ヴァルターは、最後まで突かなかった。本気で狙えば、こちらが慌てて兵を割く場面だった。なのに、彼は手を出さず、ただ、こちらの慌て方を、じっと観察していた。


「あいつ、囮を見抜いて、あえて乗らなかった」俺は唸った。「いや、違う。乗らないことで、こっちに『見抜かれた』と思わせて、次の囮を打ちにくくしてる。一手先じゃない。二手、三手、先を読んでる」


「化け物だな」リーゼが、低く言った。


「ええ。でも、こっちにも、盤面がある」俺は地図に指を置いた。「あいつが経験で読む速さと、俺が盤面で見る正確さ。どっちが、先に相手の息切れを掴むか。そういう勝負です」


「お前の盤面でも、まだ、勝てる気がしないのか」


「あの人の読みには、底が見えない」俺は、冷えた指を、火にかざした。「ただ、人間が経験で読む以上、必ず、どこかに穴がある。記憶にない事態。想定の外。そこを、盤面でこじ開ける。一度でいい。あいつが『そんな手があったか』と、息を呑む瞬間を作れれば――そこから、崩せる」


「膠着、だな」リーゼが、夜営の火のそばで言った。薪の爆ぜる音がした。「攻めきれず、攻めきられず」


「ええ。あいつも、決め手を欠いてる」俺は、冷えた麦湯を口に運んだ。「俺の盤面が、ぎりぎり、向こうの読みに食らいついてる。互角です。でも」


俺は言葉を切った。盤面の隅で、ずっと引っかかっていたものが、はっきりと形になり始めていた。


帝国の後方。ずっと奥、本国の方角。そこから、新しい流れが、太く、こちらへ向かって動き始めている。兵糧。武具。そして、膨大な数の、人の流れ。


「ヴァルターの膠着は、時間稼ぎだ」俺は地図の、はるか奥を指した。「あいつは、俺と互角でいるあいだに、後ろで、本国の大軍を呼んでる。互角の読み合いをしてる、その裏で」


リーゼの顔が、火明かりの中で、こわばった。


「数で、押し潰すつもりか」


「武で来たレオハルトは、糧で崩せた。糧を知るヴァルターは、互角で止めてる」俺は盤面を閉じた。「けど、互角を、数の暴力でひっくり返されたら、支えきれない。次に来るのは、籠城の、最大の危機だ」


雪が、また激しくなってきた。その白い闇の向こうで、数えきれない松明が、地平を、ゆっくりと埋め始めていた。

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