第47話 兵站を知る敵
その男は、軍使として、たった二騎で、堂々と砦の門前に現れた。
白旗を掲げ、武装は最小限。雪をかぶった外套の下から覗くのは、鎧ではなく、地味な革の胴着だった。歳は五十がらみ。よく日に焼けた、彫りの深い顔をしている。馬の扱いひとつ取っても、無駄がない。
「ガルディア帝国軍、ヴァルターと申す」男は、馬上から、丁寧に頭を下げた。声は低く、落ち着いていた。「ノルドの代官どのに、一目、お会いしたく参った。なに、騙し討ちの趣味はない。剣も、置いてきた」
リーゼが、即座に俺の前へ出た。剣の柄に手をかけている。
「胡散臭い」リーゼが、低く言った。「敵将が、のこのこ単身で来るか」
「警戒は、もっともだ、騎士どの」ヴァルターは、怯む様子もなかった。「だが、私が知りたいのは、戦場の外にある。中央騎士団を、剣を交えずに飢えさせた策。あれを、見抜いた者がいる。その人物の、顔が見たくてな」
俺は、リーゼの肩に手を置いて、前に出た。
「俺です」
ヴァルターの目が、すっと細くなった。値踏みの色ではない。長く探していたものを、ようやく見つけた、という色だった。
「貴公か」ヴァルターは、馬を下りた。雪を踏む音が、やけに静かだった。「失礼ながら、剣士には見えん。武人の気配がまるでない。なのに、全軍の兵站を握り、崩れかけた戦線を繋ぎ直した。いや、面白い。実に、面白い」
「あなたが、中央騎士団を、あの罠に?」
「罠と呼ぶほどのものではない」ヴァルターは、首を振った。「あの白い鎧の将は、勝手に伸びた。私は、彼が自分で伸ばした糸を、一本、断っただけだ。武で来る者は、武の届かぬ所で殺すのが、一番、血が流れぬ。兵站とは、そういうものだろう」
その言葉に、背筋が、ひやりとした。この男は、分かっている。糧が戦を決めるという、この世界の誰もが見下してきた真実を、骨の髄で理解している。
「帝国は、武の国だと聞いていました」俺は言った。
「だからこそ、私のような者が、一人は要る」ヴァルターは、口の端を、わずかに上げた。「皆が剣の数を誇るとき、誰かが、麦の樽を数えねばならん。貴公の国に、貴公がいるようにな。おそらく、私と貴公は、互いの軍で、一番、孤独な役目を負っている」
リーゼが、剣の柄を握ったまま、二人を見比べていた。敵将と俺が、奇妙に同じ言葉で、話している。その光景に、戸惑っている。
「一つ、訊いていいですか」俺は言った。「あなたほどの人が、なぜ、自分の民の村まで空にして、兵糧を集める? 帝国のあのやり方は、いずれ、自分の国を飢えさせる」
ヴァルターの顔から、笑みが、すっと消えた。
「……それを問うか、貴公は」低い声だった。「私は、軍人だ。集めろと命じられれば、最も無駄なく集める。だが、集めた後で国がどうなるかは、私の手の外にある。命じる者が、別にいる。――そこは、貴公とは、立場が違うな」
その一言に、引っかかるものがあった。命じる者。ヴァルターほどの将に、無理を強いる、その上の存在。だが、ヴァルターは、それ以上、語らなかった。
「言っておく」ヴァルターは、馬に戻りながら、振り返った。「これまで、貴公の相手は、自分の慢心で崩れる者ばかりだったろう。私は、崩れぬ。貴公が補給網を組めば、私はその急所を探す。貴公が読めば、私も読む。自滅を待つ戦い方は、私には通じんぞ」
「ええ」俺は、引かなかった。「だから、面白い。あなたとは、まともに数で殴り合える」
「数で殴り合う、か」ヴァルターが、低く笑った。「貴公、良い言い方をする。覚えておこう」
二騎が、雪の中へ遠ざかっていく。その背中を見送りながら、俺の手は、わずかに汗ばんでいた。
「レン」リーゼが、硬い声で言った。「あの男、これまでの敵とは違う」
「ええ。あの人は、強がりを言わなかった」俺は、遠ざかる二騎を見ていた。「レオハルトは、補給なんて雑事だと、鼻で笑った。ヴァルターは、補給こそが戦だと、本気で信じてる。同じ敵でも、怖さの種類が、まるで違う」
「勝てるのか」
「分かりません」俺は正直に言った。「ただ、一つだけ、はっきりしたことがある。あの人は、味方の慢心に頼れない。自分の頭ひとつで、こっちを崩しにくる。なら、こっちも、誰の油断もあてにできない。今までで、一番、気を抜けない相手です」
「気を抜けない相手か」リーゼが、ふっと息を吐いた。白い息が、夜に溶けた。「妙だな。お前がそう言うと、なぜか、少し嬉しそうに聞こえる」
「……そうですか?」俺は、自分の頬に手をやった。言われて、初めて気づいた。胸の奥が、確かに、ざわついている。恐怖だけではない、何か別のものが。
「ええ」俺は盤面を開いた。敵の補給線が、ヴァルターの帰陣に合わせて、また一段、隙のない形に締まっていく。「あいつには、俺の盤面はない。なのに、経験と勘だけで、ほとんど同じ所まで読んでくる。こっちが油断した瞬間に、糧の道を、一本、断たれる」
自滅する敵は、もういない。これからは、互いの補給線を読み合う、一手の読み違いが命取りになる、本物の頭脳戦だ。慢心も、油断も、もう、こちらの味方をしてくれない。
俺は、地図の上に、自軍と敵軍の補給路を、何本も引き直した。その線の一本一本が、これから、刃になる。




