第46話 飢えない軍
前線の天幕に、湯気の立つ大鍋が届いたとき、兵たちは、しばらく信じられない顔をしていた。
「……来た」誰かが、掠れた声で言った。「本当に、来やがった。約束の日に、約束の量が」
俺が前線へ送ったのは、麦と塩漬け肉、それに、温め直すだけの携帯の粥だった。荷車が、雪道を縫って、隊のすぐ後ろまで上がってくる。兵が、列を作って椀を受け取る。すするたび、白い息が、いくつも立ちのぼった。
「兄ちゃんが、後ろで数えてくれてんだろ」古参の兵が、若い兵に言った。鼻をすすりながら。「いつ、どこで、誰が腹を空かせるか。それを、ぜんぶ。だから、こうして間に合う」
俺は本陣の卓で、盤面と地図を、にらみ続けていた。
全軍を、一つの大きな倉だと思って回す。麦が余る隊から、切れた隊へ、横へ流す。前線の消費の速さを盤面で読んで、尽きる二日前に、次の荷を出す。中継地を三つ置いたから、一本の道が雪で塞がっても、別の蔵で繋げる。
地味な作業だった。華々しい突撃も、英雄的な一騎打ちもない。ただ、樽と日数と道のりを、ひたすら勘定する。けれど、その勘定が、確実に、人を生かしていた。
「レン」リーゼが、雪を払って天幕に入ってきた。頬が、寒さで赤い。「右翼が、押し返し始めた。三日前まで、後退一方だった隊が、だ」
「飢えてなければ、兵は、ちゃんと戦えます」俺は地図に、新しい線を引いた。「足りなかったのは、勇気じゃない。飯です」
「お前の届けた飯が、剣に力を戻した」リーゼが、卓に手をついた。「私は、お前が何日に何を寄越すかを、信じて陣を組んだ。だから、無理な踏ん張りをせずに済んだ。退くべき時に退き、押すべき時に押せた。武と、糧が、初めて、噛み合った」
その言い方に、俺は手を止めた。武勇しか信じてこなかった彼女が、後方の数字を、戦の片輪として数えている。
「リーゼさん」俺は言った。「あなたが前で支えてくれるから、俺は後ろで、安心して数えられる。どっちが欠けても、この戦線はもたない」
リーゼは、ふいと顔をそむけた。だが、口の端が、わずかに緩んでいた。
「……当たり前のことを、言うな」
「一つ、頼みがあります」俺は地図の、敵の左翼を指した。「ここの帝国兵、三日前から、配給が乱れてる。盤面で見ると、糧の届きが、こっちより悪い。腹を空かせ始めてるはずです。攻めるなら、ここ。剣の強い弱いじゃなく、腹が減ってる隊を、選んで突く」
「敵の空腹を、狙えと?」リーゼが、地図を覗き込んだ。
「飢えた兵は、長く粘れません。ひと押しで、退きます」俺は線を引いた。「無理に正面の精鋭とぶつかる必要はない。弱ってる所を選んで押せば、味方の血も、少なくて済む」
リーゼは、しばらく地図を睨んでいた。それから、剣の柄を、ぽんと叩いた。
「お前の数字は、人の死に方まで、勘定に入れてくれるんだな」低い声だった。「いいだろう。明日、左を突く」
配給の現場では、ミナが、また手伝いに駆け回っていた。前線へ送る携帯の粥を、母親たちと一緒に、せっせと丸めている。
「おじさん、これ、固く握ると、何日も傷まないんだよね」ミナが、粉だらけの手を上げた。「冷えても、お湯に溶かせば、すぐ食べられる。兵隊さん、喜んでた」
「よく覚えてましたね」俺は、その手際に、目を細めた。「冷たいまま齧れて、軽くて、腐りにくい。前線の飯は、その三つが揃って、初めて使える。豪華な肉より、よっぽど、命を救う」
「へえ! じゃあ、あたしの握ったおにぎりが、兵隊さんの命を救ってるんだ」ミナが、胸を張った。母親たちが、笑った。その笑い声が、張り詰めた陣中で、ふっと、空気を緩めた。
その日の夕刻、前線の各隊から、奇妙な報せが続いた。兵たちが、自主的に、補給路の見張りを買って出始めたという。自分たちの飯の道を、自分で守ろうとしている。
「面白いもんだぜ、旦那」街道から戻ったガロが、麦酒の杯を片手に笑った。「飯にありつけるとわかったら、兵隊ってのは、急に道を大事にし始める。今まで荷駄なんざ、邪魔者扱いだったのにな」
「腹が満ちて、初めて、後ろのありがたみが分かるんですよ」俺は盤面を閉じた。久しぶりに、頭の芯の痛みが、少し引いていた。「飢えてる時は、誰も、運ぶ者のことなんて考えない」
「旦那の言うことは、半分わからん」ガロが、麦酒を呷った。「けど、当たるんだよなあ、これが。倉庫番だった頃と、やってることは同じだって、言ってたよな」
「同じです」俺は答えた。「砦の倉で樽を数えてたのも、十万の軍を相手にするのも、根っこは変わらない。物が、足りてるか、足りてないか。それを、誰より早く、正しく知る。ただ、それだけだ」
劣勢だった戦線が、膠着へ。そして、押し返しの兆しへと、ゆっくり傾き始めていた。武力で葬られかけた軍が、兵站で、息を吹き返している。
だが、その夜、俺の盤面が、嫌な気配を拾った。
帝国側の補給線が、不意に、整然と組み直されていた。こちらが押し返す動きに合わせ、無駄なく、要所だけを締め直している。慌てた様子は、どこにもない。誰かが、こちらの兵站を、後ろから冷静に観察し、対策を打っている。
中央騎士団を、剣を交えずに飢えで葬った采配。あれは、ただの幸運でも、帝国の蛮勇でもなかった。
帝国にも、糧と流れを読む将がいる。その名が、捕虜の口から、初めて、こぼれた。
「知将、ヴァルター。あの方が、こちらへ来られる」




