第5話 来ない隊商
本作は全70話で完結予定です。
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砦の空気は、ひと月前とは別物になっていた。
配給が端まで届くようになり、痩せこけた顔に、少しずつ血の色が戻る。ミナは弟妹を連れて毎日のように倉庫を覗きに来て、レンの足にまとわりつくようになった。
「おじさん、これ」差し出してきたのは、ひしゃげた焼き菓子だった。「お母さんが焼いたの。塩、入ってる。久しぶりに」
口に含むと、麦の素朴な甘みと、ほんの少しの塩気が広がった。固くて、お世辞にも上手とは言えない焼き加減だ。それでも、塩を惜しまず使える。それだけのことが、この砦ではご馳走だった。
「うまいな」
「でしょ!」ミナが胸を張る。前歯の抜けた口で、得意げに笑う。「おじさんが来てから、みんなご飯食べられるようになった。魔法、使えないのに。魔法みたい」
魔法みたい、か。
レンは焼き菓子の最後のかけらを、ゆっくりと飲み込んだ。やったことは、ただ物を正しく流しただけ。それを魔法と呼ばれるなら、悪い気はしなかった。
ミナは、焼き菓子を渡すと、すぐに弟妹を連れて駆けていった。倉庫の前で、近頃は子供らの笑い声が聞こえる。配給が安定しただけで、砦の表情はここまで変わる。物の流れが整うと、人の顔つきまで整っていく。前世では、数字の向こうにいるはずの「人の顔」が、ここではすぐ目の前にあった。
「悪くない眺めだろう」ベルクが、隣に並んだ。「お前さんが来る前は、こうじゃなかった。子供が、笑わなんだ」
「これからですよ」レンは焼き菓子の塩気を、舌の上で転がした。「砦の蓄えは、まだ薄い。一冬越せるかどうかも、際どい」
そんな穏やかさに、ひびが入ったのは、昼前だった。
砦に立ち寄った行商が、浮かない顔で言った。「東の隊商、まだ着かねえのかい。あんたら、塩と鉄、待ってんだろ。俺も道中で会わなかったぜ。妙だな、いつもなら、すれ違うんだが」
レンは帳簿をめくった。定期の隊商は、五日に一度。塩、鉄、種を運んでくる、砦の生命線だ。
だが、もう十二日、入っていない。
倉庫の前に立ち、レンは目を凝らした。砦に「入ってくるはずの物の流れ」を、頭の中の盤面に映す。東から伸びる一本の線。それが、街道のどこか、砦から二日ほどの地点で、ぷつりと途切れている。
一度なら、天候か事故で済む。だが、盤面が映すのは、もっと不穏なものだった。
「ベルクさん」レンは老兵を呼んだ。「最近の隊商、荷が予定より減ってませんでしたか。少しずつ」
「言われてみりゃ……減っとったな」ベルクが髭を撫でる。「道が悪いせいだと、思っとったが」
「道のせいなら、毎回ばらばらに遅れます。荷の減り方も、まちまちになる」レンは線の途切れた一点を指した。指先が、わずかに冷たくなる。「でも、これは違う。同じ場所で、毎回、似たような量が抜かれてる。きれいすぎるんです。自然に消えるなら、こんなに揃わない」
ベルクの顔が、強張った。
「盗賊か」
「たぶん」レンは盤面を睨んだ。長く見つめすぎて、こめかみが鈍く疼く。それでも、目は逸らせなかった。「ただ、ひとつ引っかかる。奴らは、毎回同じ場所で、隊商を待ち伏せてる。砦の隊商が、いつ、どこを通るか、知ってるんです。でなきゃ、こんなに正確には抜けない」
風が、倉庫の扉を軋ませた。乾いた麦の匂いに、かすかに、鉄の気配が混じった気がした。
それは、嫌な符合だった。砦の物資の動きを正確に知る者が、街道で隊商を狙っている。先日まで、倉庫の物資を帳簿の外で動かしていた者がいた。二つの線が、どこかで一本に繋がりそうな予感がした。
「ベルクさん。代官の荷馬車、夜中に出てたって話、覚えてますか」
ベルクの目が、すっと細くなった。「……まさか、街道の盗賊と、繋がっとると?」
「断言はできません。でも、考えてみてください」レンは盤面の線を指でなぞった。「砦の在庫を抜いて、外へ流す。隊商を襲って、荷を奪う。どっちも、砦が弱ったほうが得をする者の仕業だ。砦が飢えれば、物の値は上がる。困った砦は、足元を見られて、高く買わされる」
「砦を、わざと飢えさせて、儲ける、と」
「商売としては、最悪のやり方ですが」レンは頷いた。「筋は、通る」
砦の飢えは、ようやく落ち着きかけている。その矢先に、生命線そのものが、外で断たれようとしていた。剣も振れない男に、街道の盗賊をどうこうできるのか。
レンは羊皮紙に、街道の線を引き直しながら、低く呟いた。
「奴らがどこにいて、次にどこを狙うかは、荷の消え方が教えてくれる。盗賊は、自分の食い扶持を、街道に残していくものだ。……問題は、それを信じてもらえるか、だな」
倉庫の外で、馬を鳴らす音がした。
「レン」扉を押して入ってきたのは、リーゼだった。鎧をまとい、街道の埃を肩に乗せている。「東の隊商が、また着かんそうだな。守りを割いて、迎えに出る。お前の言う『流れ』とやらで、何かわかるか」
レンは盤面の線を見つめたまま、答えた。「迎えに出るのは、待ってください。へたに兵を出すと、奴らの思う壺かもしれない」
リーゼの眉が、跳ね上がった。「兵を出すな、だと? 隊商が襲われているかもしれんのだぞ」
「わかってます。だから、ただ出すんじゃなく――どこに、いつ出すかを、決めてからにしたいんです」
剣の柄に置かれたリーゼの手が、苛立たしげに動いた。流れ者の算盤が、また何か言っている。その目は、まだ半分も信じていない。
それでも、彼女は扉の前から、動かなかった。




