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第44話 剣を抜く前に

最初に砦へ流れ込んできたのは、敗報ではなく、馬だった。


鞍だけを乗せ、乗り手のいない軍馬が、数頭、雪の中をふらつきながら門へ寄ってきた。痩せて、肋が浮いている。飼葉を、何日も食べていない馬の歩き方だ。櫓の番兵が、声を失ったまま、それを見下ろしていた。


その日の昼過ぎから、人が来始めた。


中央騎士団の兵だった。あの、磨かれた喉当てをつけていたはずの精鋭が、雪まみれで、鎧を引きずるように歩いてくる。剣には、血の曇り一つない。一度も、振るわれなかった剣だ。彼らを倒したのは、敵の刃ではなかった。


「水を」最初に砦へ辿り着いた兵が、それだけ言って、膝から崩れた。「水を……三日、飲んでない」


俺は、用意してあった湯と粥を、ありったけ運ばせた。後方の小さな倉一つ。それでも、崩れたあとに兵を拾うために、樽ごと荷車に積んで、待たせておいたものだ。温めた麦粥の湯気が、広間に満ちる。すすり泣きと、嚥下の音だけが、しばらく続いた。


「いっぺんに、たくさん食わせちゃ駄目だよ」ミナが、椀を配りながら、しっかりした声で言った。「ずっと食べてない人は、少しずつ。おじさんが、そう言ってた」


その通りだった。飢えた体に、急に食わせれば、かえって命を落とす。粥を薄く、何度にも分けて。ミナは、それを、もう覚えていた。


盤面を開くまでもなかった。逃げてくる兵の、足取りと、頬のこけ方が、すべてを語っていた。


「団長は」俺は、兵の一人に訊いた。「レオハルト団長は、どうなった」


兵は、震える手で粥の椀を抱えたまま、首を横に振った。


「最後まで……前へ、と。腹が減って動けぬ兵に、誇りを思い出せ、と」声が、掠れていた。「でも、馬が、飼葉がなくて動かない。槍を構えても、腕に力が入らない。誰も、剣を、抜けなかった。敵は、笑って、見てました。俺たちが、勝手に倒れていくのを」


剣がすべてを解決すると言った男の軍が、剣を一度も合わせないまま、雪原で崩れていった。敵は、ただ待っていた。武力に武力で応じず、伸びきった糧の線を断ち、あとは空腹が仕事をするのを、見物していた。


「武具は、立派なもんだったぜ」街道から戻ったガロが、低い声で言った。雪原で見てきたものを、吐き出すように。「磨いた喉当て、上等な剣。誰も、それを使う力が、残ってなかった。鎧の重さに、自分でつぶれてた」


「重い鎧は、腹が満ちてこそ、頼りになる」俺は呟いた。「飢えれば、ただの、体を冷やす鉄の塊だ。あの人たちは、敵じゃなく、自分の装備の重さに、負けたんです」


ガロは、何も言わず、椀の粥を、生き残った兵に手渡しに行った。普段の軽口は、今日は、どこにもなかった。


俺は、勝ったとも、言われた通りだとも、思わなかった。胸にあったのは、もっと重く、冷たい何かだった。この崩れは、防げたはずだ。たった一行、進軍を止めるだけで。あの天幕で、もう一言、強く言えていたら。そんな、答えの出ない後悔ばかりが、腹の底に沈んでいく。


夕刻、リーゼの隊が、戻ってきた。


右翼に組み込まれていた彼女の隊だけが、列を崩さずに退いてきた。俺が渡した、あの段取りの紙。それを頼りに、自分の隊の糧だけは、最後まで切らさなかった。


リーゼは、馬を下りると、まっすぐ俺のところへ来た。雪と泥にまみれた顔で、何も言わず、しばらく立っている。


「お前の紙が」やっと、口を開いた。声が、震えていた。「私の兵を、一人も、飢えさせなかった。粥の段取りを書いてくれた、あの一枚が」


「無事で、よかった。本当に」


「だが」リーゼの拳が、剣の柄の上で、固く握られた。「目の前で、見た。誇り高い男たちが、剣を抜けずに雪へ倒れていくのを。馬が痩せて、動かなくなるのを。私は、あの光景を、知っていた」


その目が、遠い場所を見た。乾いて、固い光をしている。


「父の、最期だ」リーゼが言った。「補給を、寄越してもらえなかった砦。矢も、食料も尽きて、それでも退かなかった。今日、私は、同じものを、もう一度見た。十数年経って、何ひとつ、変わっていない」


雪が、二人の肩に降り積もる。広間からは、まだ、生き延びた兵の、すすり泣きが漏れてくる。


「変えます」気づけば、そう言っていた。「あなたの父上のときは、誰も後方を見ていなかった。今日も、誰も見ていなかった。だから、次は、俺が見る。あの白い鎧の最期を、ただの悲劇で終わらせない。この国を、この崩れたところから、もう一度、立て直す」


「お前一人で、できるのか」


「一人じゃ、無理です」俺は、広間で粥を配るミナと、街道から戻ったガロと、荷を采配するヴィオラを見た。「でも、俺の周りには、もう、数を信じてくれる人がいる。あなたも、その一人だ」


「私は、剣しか持たん」


「その剣で、俺の段取りを、前線に通してください」俺は言った。「あなたの隊が、糧を切らさずに退いてきた。それを、みんなが見た。武で守るあなたが、糧を守ったから、兵が生きて帰れた。その事実が、何より、数字の力を証明してます」


リーゼは、俺の顔を、長いこと見ていた。やがて、雪を払うように、ゆっくりと息を吐いた。剣の柄から、手が離れた。


その夜、王国軍の本陣から、早馬が来た。中央騎士団壊滅、王国軍は総退却。北東の防衛線は、崩壊した。


文の最後に、震えた字で、こう書き足されていた。


『至急、ノルド代官レンを、本陣へ。兵站の儀につき、相談したき件あり』


侮られ、追い返された男の名が、いま、国が縋る最後の藁として、本陣に呼ばれていた。

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