第43話 崖までの四日
四日のうち、最初の一日が、何事もなく過ぎた。
それが、いちばん恐ろしかった。盤面の中で、前線の麦の山が、目に見えて削れていく。なのに、現実の空は晴れて、勝報だけが届く。誰もが、崖の手前で、晴天を喜んでいた。
俺は後方の集積所で、自分に許された範囲だけ、必死に荷を整えていた。だが、許されたのは小さな倉一つ。全軍の流れには、手が届かない。
「ヴィオラさん」俺は、帳簿から顔を上げた。「商業圏の早馬を、何頭か貸してください。前線へ、もう一度だけ、報せを送る」
「無駄になるわよ」ヴィオラが、算盤を止めた。挑発の色はなかった。「あの団長、あなたの顔を見るのも嫌でしょうに」
「無駄でも、送らないわけにはいかない。送らずに崩れたら、俺は一生、自分を許せない」
ヴィオラは、肩をすくめかけて、やめた。算盤を置き、立ち上がる。
「馬は三頭。御者は、私の手の者を使いなさい。あの連中、雪道の抜け方を知ってるわ」算盤の珠を、指先でそろえる。「あなた、勝ち目のない賭けに、ずいぶん金を張るのね」
「賭けじゃありません。あとで悔やまないための、保険です」
盤面の上で、もう一つ、嫌な流れが動き始めていた。帝国側だ。レオハルトを追い立てるように、わざと後退しながら、その後ろで荷が、別の方向へ動いている。糧ではない。武具の補修部品と、馬の蹄鉄。それが、レオハルト軍の伸びきった補給線の、ちょうど横腹へ、少しずつ集まっていく。
「これは」背筋を、冷たいものが這った。「逃げてるんじゃない。やっぱり、誘ってるんだ。あの白い鎧を、糧の届かない奥まで、引きずり込んでる」
「修理の部品を、横腹に集めて、どうするの」ヴィオラが、地図を覗き込んだ。
「橋を落とし、道を塞ぐつもりです。補給線を、奥で断ち切る。前線は奥に伸びきって、後ろの糧は、断たれた道の手前で、宙ぶらりんになる」俺は線をなぞった。「敵の誰かが、レオハルトの勢いを、餌に使ってる。武力に武力で当たらず、ただ、相手が自分から伸びきるのを待ってる。ザイルを操った、あの影と、同じ手際だ」
俺は警告の文を書いた。今度は嘲笑を覚悟で、ありったけ具体的に。前線の糧があと三日で尽きること。敵が退いているのではなく、補給線を断つために誘い込んでいること。今すぐ進軍を止め、荷駄を待つこと。
リーゼの隊からも、同じ警告が上がった。前線の良識ある若い隊長が、二人、進言したという。
「念のために、訊くわ」ヴィオラが、地図の上の集積地を指した。「もし、団長が今夜、進軍を止めたら。間に合うの?」
俺は盤面で、糧の残量と、荷駄の位置を、もう一度数え直した。
「ぎりぎり、間に合います」指が、線の上で止まった。「今夜止まって、荷駄を待てば、二日後に糧が追いつく。兵は腹を空かせるが、死にはしない。立て直せる。けど、それは、今夜まで」
「今夜を逃したら?」
「奥の橋まで進めば、もう、戻る道がなくなる」俺は線の先を、こつ、と叩いた。「敵がその橋を落とせば、荷も、退路も、同時に断たれる。あとは、空腹が、勝手に決着をつける」
返ってきたのは、たった一行の伝令だった。
「臆病風に吹かれた者は、後方で震えておれ。団長レオハルト」
三日目の夜、俺は眠れなかった。盤面を、閉じても閉じても、瞼の裏に残量の数字が浮かぶ。連続して視すぎたせいで、頭の芯が鈍く痛んだ。視界の端が、時々、白く飛ぶ。それでも、見えてしまうものは、見ないことにできなかった。
深夜、リーゼからの早馬が、駆け込んできた。文には、彼女の、いつもより乱れた字が並んでいた。
『前線、馬の飼葉が尽きた。明日には、兵の麦も底をつく。雪が、また降り始めた。団長は、それでも前へ進めと言う。お前の数字は、正しかった』
俺は、文を握りしめた。正しかった、という言葉が、これほど苦いとは思わなかった。
「当てたって、何にもならない」窓の外で、雪が、また音もなく降り始めていた。「止められなきゃ、見えてる意味が、ない」
ヴィオラが、いつの間にか戸口に立っていた。手に、湯気の立つ椀を持っている。麦湯の、淡い甘い匂いがした。
「飲みなさい」椀を、卓に置く。「あなたが倒れたら、崩れたあとを拾う人間が、いなくなる。それじゃ、前線で死ぬ兵が、増えるだけよ」
その通りだった。俺は、椀を両手で包んだ。掌に、じわりと熱が戻ってくる。
崩れる。もう、それは止められない。ならば、俺がやるべきことは一つだ。崩れたあと、この国がまだ立っていられるように、後方の蔵を、組み直しておくこと。生き残る兵を、一人でも多く拾える形に。
「ヴィオラさん。ノルドの蔵の鍵を、貸してください」俺は立ち上がった。「冬越えの備蓄を、半分、いつでも前線へ出せるように、樽ごと荷車に積み替えておく。崩れた瞬間に、間髪入れず流し込めるように」
「もう、負けたあとの算段?」
「負けは、半分見えてます。なら、その負けを、どこで止めるかを考えるのが、後方の仕事です」
夜明け前、北の空が、不意に明るくなった。
雪雲の向こうで、何かが、赤く燃えていた。前線の方角。火の手だ。盤面の中で、レオハルト軍を示す光が、糧の尽きた一点が、いま、敵に断たれようとしていた。
「始まった」俺は荷車の方へ駆け出した。椀の麦湯は、まだ半分、湯気を立てていた。




