第41話 商人風情の戦支度
国境を越えた帝国軍は、三日で二つの村を焼いた。
その煙が、ノルドの北の空を、薄く汚していた。雪に焦げた匂いが混じって、風に乗ってくる。物見櫓の上で、ガロが鼻のあたまをこすった。
「旦那、ありゃあ……人の住んでた場所が燃える匂いだぜ」
俺は盤面を開いた。北東の村から、人と荷の細い流れが、こちらへ向かって逃げてくる。鍋を一つ、子供を一人、背負って。その背に乗った荷の残量が、どれも、ひと月ともたない量だった。
「逃げてくる人を、数えてます」俺は言った。「あと十日で、二千人がこの砦に集まる。それまでに、その腹をどう満たすか。今はそれが、戦より先です」
「二千」ガロが、ひゅうと口笛を吹いた。「そりゃ、町が一つ増えるようなもんだ。旦那、蔵、もつのかい」
「もたせます。冬の備蓄を、避難民の分だけ前倒しで割り振る。粥にすれば、麦は三倍に伸びる。塩を効かせれば、薄くても腹に残る」俺は指を折った。「足りないのは食料より、煮る鍋と、薪と、人手のほうです。そっちを、先に手配しましょう」
避難民の受け入れ場所には、ミナが真っ先に駆けつけていた。小さな手で、震える子供に、温めた麦湯の椀を握らせている。
「だいじょうぶ。ここのおじさん、ご飯のこと、なんでも知ってるから」ミナが、胸を張った。「魔法は使えないけど、魔法みたいなんだよ」
その声に、こわばっていた母親の肩から、すっと力が抜けるのが見えた。守りたいのは、こういう、ありふれた安心だ。
蔵の前では、倉庫番のベルクが、樽の列を睨んでいた。四十年、樽を数えてきた老人だ。
「儂の蔵を、空にする気か」ベルクが、ぼそりと言った。
「半分です」俺は帳簿を見せた。「冬の備蓄を、避難民の分だけ前倒しで割り振る。代わりに、春の作付けを一畝ぶん早める段取りを、組んでおきました。これで、夏までは、足ります」
ベルクは、しばらく帳簿を睨んでいた。それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「先の作付けまで、もう数えてあるのか」皺だらけの手が、樽を一つ、ぽんと叩いた。乾いた、いい音がした。「……持っていけ。腐らせるより、人の腹に入るほうが、樽も本望だ」
その日の午後、王国軍の合同軍議が、領都の城館で開かれた。俺も、ノルドの代官として、末席に呼ばれた。
長卓の上座に、王都から下ってきた将たちが並んでいる。錦の肩当て、磨かれた喉当て。雪道を来たはずなのに、泥ひとつ跳ねていなかった。荷駄を引かず、身一つで早駆けしてきた証だ。それを、誇らしげな顔がしていた。
俺は、地図を卓の中央へ滑らせた。
「失礼します。物資の流れから、帝国軍の規模と狙いが読めています」線を指でなぞる。「敵は徴発で自国の村まで空にして、兵糧を一か所に積み上げた。短期決戦を狙っています。慌てて突出すれば、補給の切れたところを狙われる。全軍の補給と兵站の設計を、私に任せてもらえませんか」
将の一人が、酒杯を置いた。音が、思ったより高く鳴った。
「任せる、だと?」
「兵が何人で、一日に麦がどれだけ要るか。どの街道なら荷が前線まで届くか。それを束ねる者が、いま、いません」俺は引かなかった。「ばらばらに運べば、必ずどこかで詰まる。詰まれば、前線が飢えます」
「商人が、戦の采配を語るか」将が、唇の端を歪めた。脂の浮いた、よく肥えた顔だった。「貴公の役目は、自分の領を守り、後ろで樽を数えることだ。前線に口を出すな。栄えある王国軍に、兵糧の心配など要らぬ。剣がすべてを解決する」
「剣は、空腹には勝てません」
「黙れ」
短い一言が、広間を冷やした。リーゼが、壁際で剣の柄を握り直すのが、横目に見えた。
軍議で俺に許されたのは、ノルド領の守りと、後方の小さな集積所ひとつ。それだけだった。全軍の流れには、指一本、触れさせてもらえない。
城館を出ると、雪が本降りになっていた。リーゼが、肩に積もる白を払いもせず、隣に並んだ。
「すまない」絞り出すような声だった。「私が口添えしても、変わらなかった」
「あなたのせいじゃない」俺は北の空を見た。煙は、まだ細く立っている。「ただ、見えてるんですよ。あの人たちが、どこで腹を空かせて止まるか。見えてるのに、止められない。これが、いちばんこたえる」
「私は前線へ組み込まれた」リーゼが言った。「中央騎士団の、右翼だ。お前とは、前と後ろに離れる」
「なら、これを」俺は懐から、折り畳んだ紙を渡した。「あなたの隊だけの、補給の段取りです。何日目にどこで何を受け取るか、書いてある。中央が崩れても、あなたの隊だけは、飢えさせない」
リーゼは、その紙を、しばらく見ていた。雪が、文字の上に落ちて、すぐに溶けた。
「お前は」かすれた声で言う。「全軍を断られて、まず私の隊の腹の心配か」
「全軍は、手が届かない。でも、あなたの隊なら、届く」俺は雪の向こうの北を見た。「届く範囲を、確実に守る。それを積み重ねるしか、俺にはできません。できることから、順番に、ですよ」
リーゼは、紙を、丁寧に折り直して、胸当ての内側へしまった。雪に濡らさない場所へ。
その時、城館の門が大きく開いた。雪を蹴立てて、白馬の一団が乗り込んでくる。先頭の男の鎧だけが、曇り空の下で、やけに白く輝いていた。
兵たちが、いっせいに背筋を伸ばす。誰かが、声を震わせて呼んだ。
「中央騎士団長、レオハルト様!」
その男が、俺たちの脇を、見もせずに通り過ぎていく。馬上から見下ろす目に、後方も、兵站も、最初から映ってはいなかった。




