第39話 届かない警告
本作は全70話で完結予定です。
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夜が明けても、盤面の中の異常は、消えていなかった。
俺は、ひと晩かけて、西の流れを、数えられる限り数えた。連続して使いすぎたせいで、頭の芯が、鈍く痛む。視界の端が、時々、白く飛んだ。それでも、見えてしまったものは、見なかったことにできなかった。
「これだけの兵糧を、一か所に集める」朝の食堂で、俺は地図にしるしをつけた。「干し肉、堅パン、塩、飼葉。十万、いや、それ以上の軍が、ひと月、二月と動ける量だ」
「十万」リーゼが、椀を持つ手を止めた。豆のスープが、揺れた。「砦の守備隊が、二百だぞ。桁が、違う」
「集め方も、尋常じゃない」俺は、流れの線を指でなぞった。「商人から買い集めてるんじゃない。村から、町から、力ずくで取り上げてる。徴発だ。自分の民の蓄えを、空にしてでも、軍を太らせてる。そういう流れ方をしてる」
「ガルディアの、やり口だな」リーゼの声が、低くなった。「武こそすべて。民は、戦の薪。あの帝国は、昔から、そうだ」
「自分の民を飢えさせてまで集める、というのが、引っかかります」俺は、こめかみを揉んだ。「普通、戦の準備でも、ここまで無茶はしない。後で、自分の国が、もたなくなる。誰かが、采配を振るってる。短期で決着がつくと、確信してるんです。長引けば、自滅するのを承知で、それでも、やる」
「勝てると、踏んでいるわけか」
「ええ。だから、急いでる」俺は、集積の速さを示した。線が、日に日に太くなっていく。「これだけの量を、これだけの速さで集める。誰かが、流れを、完璧に管理してる。無駄なく、最短で。――嫌な、手際の良さだ」
ザイルを操っていた、あの影が、頭をよぎった。同じ匂いがする。だが、今は、それを追っている暇はなかった。
向かいで、ヴィオラがパンを千切る手を止めていた。
「標的は、どこなの」
俺は、地図の上で、集積地から伸びる、いくつかの細い流れを追った。武具の補修部品。馬の蹄鉄。それらが、どの街道へ向けて、少しずつ運ばれ始めているか。
指が、止まった。
「東だ」俺は言った。「集めた兵糧と武具が、ゆっくり、東へ動き始めてる。向かう先は――アーレンス王国」
スプーンの落ちる音がした。リーゼの手から、こぼれたのだ。
「この国を、攻める気か」
「準備の段階です。まだ、剣は抜いてない」俺は地図を、二人のほうへ向けた。「でも、こういう流れは、止まらない。これだけの物を動かし始めた軍は、もう、引き返せない。動いた荷物を、無駄にはできないから。――半年、いや、もっと早いかもしれない」
その日のうちに、俺は警告の文を書いた。物資の流れから読み取った、帝国の動員の規模。徴発の痕跡。標的。数字で、できる限り、具体的に。リーゼが、騎士団の正式な早馬で、王都アーレンシアへ送ってくれた。
返事は、思いのほか早く来た。だが、それは書状ではなかった。
ひと月後、王都から、巡察の役人が、ノルドへやってきた。錦の上着を着た、若い貴族だった。砦の粗末な広間を、汚いものでも見るように見回して、鼻を鳴らす。
「これは、これは。例の、流れ者の代官どのか」役人は、扇で口元を隠した。「妙な書状を、王都へ送りつけたそうだな。帝国が攻めてくる、と。算盤を弾いて、戦が読めるとは、たいした商人だ」
「数字は、嘘をつきません」俺は、地図を差し出した。「ご覧ください。これだけの兵糧が」
「結構」役人は、地図を見もしなかった。「いいか、代官どの。戦というのはな、剣と、血と、誉れで決まるものだ。穀物の樽の数で決まるなら、騎士はいらん。商人が槍を持てばいい」
「では、一つだけ」俺は引かなかった。「兵が一万なら、一日に麦が要ります。馬が三千頭なら、飼葉がその何倍も要る。それが、ひと月。国境の村は、もう帝国に空にされてる。現地で奪うあてが、ない。その軍は、どこで、何を食うんです」
役人の扇が、一瞬、止まった。だが、それだけだった。
「兵糧など、いくらでも、後から運ばせればよかろう」面倒くさそうに、扇を振る。「そのために、貴公のような者がいるのだ。御託を並べる暇があれば、樽を、せっせと数えておけ」
運ぶ道がない、運ぶ手配にこそ何月もかかる、と言いかけて、俺は口を閉じた。この男には、何を言っても、同じ壁に跳ね返される。壁は、分厚かった。
広間が、しんとした。リーゼの拳が、震えているのが、横目に見えた。
「中央騎士団は、大陸最強だ」役人は、扇を畳んだ。「帝国が本当に来るなら、迎え撃って、蹴散らすだけのこと。後方の樽勘定は、貴公のような者に任せておく。せいぜい、麦でも数えていたまえ」
役人は、土産の酒だけ持って、来た時より機嫌よく、帰っていった。
広間に、俺とリーゼと、ヴィオラが残った。窓から、冷えた風が吹き込んでくる。秋の終わりの匂いがした。
「あれが、王国の中央だ」リーゼが、絞り出すように言った。「父も、ああいう連中の下で、戦った。補給など雑事だと、笑う連中の下で」
その横顔を、俺は初めて見た。いつもまっすぐな目が、今は、遠い昔の、暗い場所を見ていた。
「あの男たちは、剣を抜く前に、飢えで崩れる」俺は、静かに言った。「俺には、それが、もう見えてる。なのに、声が、届かない」
「届かせるしか、ない」リーゼが、こちらを向いた。瞳に、火が戻っていた。「お前の数字が正しいなら、この国は、お前を必要とする。あの慢心が崩れたとき、後方を立て直せるのは、お前だけだ」
俺は、地図の上の、白い余白を見た。何も描かれていない、王国の北東。やがて、そこが、戦場になる。
警告は、届かなかった。だが、帝国の荷は、もう、東へ動き始めている。武力を誇る者たちが、その荷の重さを知るまで、あと、どれだけも、なかった。




