第38話 同じ目をした誰か
本作は全70話で完結予定です。
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勝ったあとも、俺は、メルクリオの動きの記録を、卓に並べていた。
ガロが集めてくれた、ひと月分の買い付けの記録。日付、品目、量、場所。何の変哲もない、商いの帳面の束だ。リーゼが、湯気の立つ椀を、横に置いてくれた。麦と豆の、温かい匂いがした。
「もう勝ったんだ。少し休め」リーゼが言った。「お前は、勝った日でさえ、帳面を睨んでいる」
「気になることが、あるんです」俺は記録の一枚を指でなぞった。「ザイルの買い占め、手際が、良すぎた」
盤面を、記録の上に重ねる。メルクリオが、いつ、どこを押さえたか。その順番が、薄い光の線になって、浮かび上がった。
線を追ううちに、背筋を、冷たいものが這った。
「リーゼさん。これ、見てください」俺は線の一つを示した。「俺が、代わりの仕入れ先を思いついた。北の小領だ。動こうとした、その三日前に、メルクリオが、もうそこを押さえてる」
「先回り、か」
「一度なら、偶然です。でも、二度、三度と続いてる」俺は別の線を指した。「俺が頭の中で考えた次の一手を、向こうが先に潰してる。まるで、俺の盤面を、横から覗いてるみたいに」
椀の湯気が、ゆっくりと立ちのぼった。リーゼが、椅子を引いて、座り直した。
「ザイルという男に、そんな芸当ができるのか」
「できません」俺は言い切った。「あの男は、金の力で殴るしか、知らなかった。蔵の麦が腐ることにすら、気づいてなかった。あんな先回りは、ザイルの頭からは、出てこない」
俺は、線の一本一本を、指で追った。北の小領。南の川港。西の塩田。俺が「次はここから引こう」と頭の中で描いた候補が、ことごとく、先に潰されている。一つ二つなら、勘の鋭い商人でも、できる。だが、これは違う。俺の思考の順番を、そっくりなぞって、先回りしている。
「気持ち悪いんです」俺は、低く言った。「自分の頭の中を、後ろから、誰かに読まれてる感じだ。盗み見られてるのは、帳簿じゃない。俺の、考え方そのものだ」
戸口で、ヴィオラが腕を組んで聞いていた。いつから、そこにいたのか。
「裏付けなら、あるわよ」ヴィオラが、ゆっくりと入ってきた。「商業圏で、ずっと囁かれてる噂。メルクリオの裏に、顔の見えない助言者がいる。相場を、神様みたいに先回りする男が。ザイルの異常な強気は、その男の入れ知恵だって」
「その助言者の、正体は」
「誰も知らない」ヴィオラが首を振った。「名前も、顔も。ただ、その読みは、人間業じゃないって。……あなたと、同じよ、レンさん。流れが、見えてるとしか思えない」
部屋が、静かになった。椀の麦粥が、冷めていくのが、匂いで分かった。
俺と同じ目を持つ誰かが、いる。物の流れを、人の疲れを、金の動きを、数字で見る目を。だが、その男は、それを、人を救うためには使っていない。買い占めで領を飢えさせ、独占で人を屈服させる。同じ力を、人を支配し、奪うために、使っている。
鏡を、覗いているようだった。同じ顔の、裏返しの自分が、こちらを見ている。
「思い当たることが、ある」俺は、ぽつりと言った。リーゼとヴィオラが、こちらを見る。
「この力を授かったときから、おかしなことが、何度かあった」俺は、こめかみを押さえた。「砦で横領を追ったとき、触れてもいない領都の取引まで、盤面に映った。あのときは、気のせいだと思った。でも――俺の力は、本当は、俺が思ってるより、ずっと遠くまで届くのかもしれない。そして、それは、俺だけの力じゃない」
「どういう意味だ」リーゼの声が、硬い。
「分かりません」俺は正直に答えた。「ただ、この『管理盤』を、俺に授けた何かが、ある。同じものを、あの助言者にも、授けたんだとしたら。俺たちは、同じ場所から、来たのかもしれない」
言葉にすると、それは、ただの推測のはずだった。なのに、口にした瞬間、それが、ひどく確からしく感じられた。冷めた粥を、俺は一口、すすった。味が、しなかった。
「気味の悪い話ね」ヴィオラが、肩を抱くようにした。「でも、相手が同じ目を持つなら、これからの読み合いは、いよいよ本物の、知恵比べに」
ヴィオラの言葉が、途中で止まった。
俺の意識が、卓の記録から、ふっと逸れていた。盤面が、勝手に、別のものを映していた。呼んでもいないのに。
それも、おかしなことだった。俺の力は、観た物、触れた物しか映さないはずだ。なのに、見たこともない遠い土地の流れが、向こうから、視界に滑り込んでくる。横領を追っていたとき、領都の取引が勝手に映った、あのときと、同じだ。まるで、この力が、俺の意思とは別に、危険を、勝手に拾い上げているように。
大陸の、西の彼方。物の流れが、異常な形に、うねっていた。
兵糧。武具。飼葉。膨大な量が、一つの方向へ、集まり始めている。商いの流れじゃない。これは――。
「レン?」リーゼが、俺の顔を覗き込む。「どうした。顔が、白いぞ」
俺は、椀を置いた。手が、わずかに、震えていた。
「集まってる」声が、掠れた。「西の国境の向こうで、とんでもない量の兵糧と武具が、一か所に。こんな流れ方をするのは、一つしか、ない」
黒幕の影を追う暇は、なかった。もっと大きな、もっと近い影が、地平の向こうで、立ち上がろうとしていた。
「戦争だ」俺は言った。「軍事大国ガルディアが、動き始めた」




