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37/70

第37話 大陸という盤面

本作は全70話で完結予定です。

毎日5話ずつ、06:40/11:40/17:40/19:40/21:40 に予約投稿しています。

続きが気になりましたら、ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。

「私の負けよ」


差し出された手を、俺はまだ握っていなかった。ヴィオラは、引っ込めもせず、まっすぐ俺を見ている。窓から入る夜風が、燭台の炎を揺らした。蜜蝋の、甘い焦げた匂いがする。


「負け?」俺は問い返した。「あなたと、勝負した覚えはないんですが」


「あったのよ、私の中ではね」ヴィオラの口の端が、ようやく緩んだ。「メルクリオの独占を崩すのは、この大陸で私だって、ずっと思ってた。新興の女商人が、たった一代で。なのに、それを先に、剣も魔法も使えない中年が、やってのけた。悔しくないわけ、ないでしょう」


「俺一人じゃ、できませんでした」


「そう言うところよ」ヴィオラが、ふっと息を漏らした。「あなた、手柄を、ぜんぶ人に配るのね。だから、人が集まる。私には、ない才能だわ」


俺は、その手を握った。二度目の握手は、最初より、ずっと自然だった。


「条件は、前と同じ」ヴィオラが言った。「負けたほうが、勝ったほうの言うことを聞く。私、これからあなたの言うことを聞くわ。……ただし、納得したときだけね」


「それは、聞くと言わないのでは」


「あら、ばれた?」


リーゼが、戸口にもたれて、二人のやり取りを見ていた。腕を組んだまま、ヴィオラを値踏みするように眺めている。


「商人」リーゼが口を開いた。「お前を、信じていいのか」


「信じなくていいわ、騎士団長さん」ヴィオラは怯まない。「私を縛るのは、義理でも忠義でもない。損得よ。レンさんと組んだほうが儲かる。その計算が、裏切らない限り、私は裏切らない。剣の誓いより、よっぽど頑丈でしょう?」


リーゼは、しばらく黙っていた。それから、ふっと肩の力を抜いた。


「……正直な奴は、嫌いではない」


「あら、光栄」


翌朝、俺は二人を卓に呼んで、一枚の大きな地図を広げた。ヴェルダ大陸の、全図だった。


「メルクリオは、一つの商会の独占でした」俺は、メリディオの交易都市群を指でなぞった。「でも、根っこの問題は、ザイル個人じゃない。買い占めれば人が飢える、独占すれば値が暴れる。そういう、流れの歪みそのものなんです」


「歪みを、正すって?」ヴィオラが、地図を覗き込む。「大陸全部の、流通を?」


「一つの領を飢えさせない方法は、もう分かった」俺は、ノルドから大陸各地へ、細い線を何本も引いた。「なら次は、どこの領も飢えさせない流れを、作れないか。物が、余ってる所から、足りない所へ、ちゃんと回る。買い占めても儲からない、独占しても損をする。そんな仕組みを、大陸に、組めないか」


地図の上に、放射状の網が、薄く浮かんで見えた。盤面が映したのではない。俺の頭の中の、まだ存在しない流れだった。砦の倉庫を数えていた男が、今、大陸の物流を、一枚の盤面として見ようとしていた。


「……正気なの?」ヴィオラが、呆れたように呟いた。その目だけが、笑っていなかった。本気で、その絵図の大きさを、測っている目だった。「一商会を潰すのとは、桁が違うわよ。王侯貴族も、ギルドも、敵に回す」


「ええ。だから、何年もかかる」俺は地図を畳まなかった。「でも、種は、撒ける。あなたの大陸商圏の人脈と、俺の流れを読む目。二つあれば、最初の一本は、引ける」


ヴィオラは、地図の上に、自分の指を一本、そっと置いた。北の港。彼女の生まれた町だと、あとで知った。


「面白いじゃない」低い声だった。「いいわ。乗る。一商会の女から、大陸を相手にする女に、格上げしてもらおうかしら」


「あなたも、なかなか欲深いのね」ヴィオラが、面白そうに俺を見た。「砦の倉庫番から始めて、今度は大陸の物流ぜんぶ、ですって。普通、人はそこまで、欲を広げないわ」


「欲じゃ、ないんです」俺は地図から目を上げた。「ただ、見えてしまうんですよ。どこで、物が詰まってるか。どこで、人が、その詰まりのせいで飢えてるか。見えてしまうと、放っておくのが、どうにも、気持ち悪い」


「ふうん」ヴィオラが、肩をすくめかけて、やめた。「変な人。でも、嫌いじゃないわ、その理屈」


リーゼが、地図の端、ノルドの隣の国境線を、じっと見ていた。武人の目が、そこで、止まっていた。指先が、無意識に、剣の柄をなぞっている。


「壮大な話の、腰を折ってすまないが」リーゼが、低く言った。「足元を、忘れるな。大陸を語るなら、まず、この国を守れる前提が要る。剣を持つ者の勘が、さっきから、囁いている。北東が、きな臭い」


その通りだった。俺は地図の、ノルドの北東の縁を見た。アーレンス王国の、外側。何も描かれていない、白い余白。


胸の奥に、小さな、消えない染みがあった。勝った。大陸が見えた。それなのに、ザイルを操っていた、あの「読みすぎる手口」の正体が、まだ、どこにも見つかっていない。


地図を巻き取りながら、俺は、ザイルの先回りの正確さを、もう一度、思い返していた。あれは、ただ商才のある男の動きではなかった。こちらの手の内を、まるで盤面ごと覗いたように、的確に潰してきた。同じことが、できる人間。心当たりは、たった一つしか、なかった。俺自身の、力だ。


メルクリオは敗れた。領は、飢えずに済んだ。だが、あの影は、まだ、どこかで、物の流れを見つめている。俺と、同じ目で。


その正体を確かめる前に、もっと大きなものが、地平の向こうから、近づいてきていた。リーゼの言った「きな臭い」北東。その意味を、俺はまだ、本当には、分かっていなかった。

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