第36話 売れない山
本作は全70話で完結予定です。
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会頭ザイルは、金糸の上着の裾を払って、領館の椅子に腰を下ろした。
「賢明な男だと聞いている」茶には手をつけず、指輪だらけの手を組む。脂粉の匂いが、卓越しに漂ってきた。「だから、単刀直入に言おう。麦と塩を、売ってやる。今なら、相場の三倍でいい」
「三倍」俺は繰り返した。
「飢えるよりは、安いだろう」ザイルが、唇の端を持ち上げる。「この冬、ノルドの民を干上がらせたくなければ、頭を下げて買うことだ。なに、商人同士、悪いようにはしない」
リーゼが壁際で、剣の柄を握り直した。俺は、構わず盤面を開いた。
ザイルという男の周りに、薄い数字の層が立ち上がる。本人ではない。この男が背負っているもの――遠いメリディオの蔵に積まれた、買い占めの山。その「残量」と「劣化度」が、目の前にせり上がってきた。
麦の劣化が、すでに二割を超えていた。蔵代と借入の利息が、日に日に山を食っている。この男は、儲けの上に座っているつもりで、腐りかけの爆弾を抱えて、ここまで来ていた。
「ザイルさん」俺は地図を、卓の真ん中へ滑らせた。「あなたの蔵の麦、いつまでもつと思っていますか」
ザイルの眉が、わずかに動いた。
「夏越えの麦を、密閉もせず積み上げれば、下から蒸れます。今、二割が傷んでる。ひと月後には半分。三月後には、飼料にしかならない」俺は淡々と続けた。「あなたは、それを抱えたまま、ここまで来た。利息を毎日払いながら」
「馬鹿な。でまかせを」
「でまかせなら、断っても困りませんよね」俺は窓の外を指した。「市場へ行ってみてください。塩の値、もう下がり始めてます。ノルドは、あなたの麦がなくても、飢えません」
ザイルの顔から、脂じみた笑いが、すっと引いた。
代替の供給網。物々交換で集めた、二十本の細い管。地面の下から湧くダンジョンの食料。それらが束になって、領を養い始めていた。この男が「唯一の売り先」と決めてかかった相手は、もう、頭を下げる必要がなくなっていた。
「あなたが買い占めれば買い占めるほど」俺は声を落とした。「抱えた荷物は重くなる。売り先がなければ、それは富じゃない。腐っていく、ただの山だ」
「ならば、よその領へ売る!」ザイルが、声を荒げた。「ノルドだけが、買い手ではないわ!」
「どこへ運びます?」俺は地図を指でなぞった。「あなたの蔵は、メリディオにある。よその領まで運べば、また運び賃がかかる。傷んだ麦を、運び賃まで足して、誰が、相場より高く買いますか。運べば運ぶほど、損が膨らむ。動かしても、動かさなくても、あなたの山は、目減りしていく」
数字は、逃げ道を、一つずつ塞いでいく。盤面の中で、ザイルの背負った山の「劣化度」が、こうしている今も、わずかに上がっていくのが見えた。時間そのものが、この男の敵だった。
ザイルは、しばらく動かなかった。組んだ指の関節が、白くなっていく。それから、椅子を蹴るように立ち上がった。
「言わせておけば、図に乗りおって! 後悔するぞ、流れ者風情が!」
捨て台詞を残して、ザイルの隊商は、来た時の倍の速さで、メリディオへ引き返していった。
それからの崩れ方は、見ていないのに、手に取るように分かった。
「旦那、聞いたかい」三日後、ガロが息せき切って駆け込んできた。「メルクリオが、麦を投げ売りし始めた。傷む前にさばこうって、相場の半値で。そしたら市場がびっくりして、麦の値が、どんどん落ちてやがる」
「自分の投げ売りで、自分の在庫の値を、下げてるんですね」
「そういうこった」ガロが頭を掻いた。「高く買って、安くしか売れねえ。損が、雪だるまだ。商会の出資者連中が、真っ青になって、ザイルの首を吊るし上げてるってよ」
ヴィオラが、帳簿から顔を上げた。その目が、商人の冷たい光を帯びていた。
「投げ売りは、毒よ」算盤を、ぱちりと鳴らす。「一人が安く売れば、皆が『もっと下がる』と思って、買い控える。買い手が引けば、値はもっと落ちる。落ちれば、また焦って投げ売る。底なしの渦よ。あの男は、自分で、その渦を回し始めたの」
「止められないんですか」リーゼが訊いた。
「止まらないわ」ヴィオラが首を振った。「止めるには、売るのをやめて、抱え続けるしかない。でも、抱えれば、利息と蔵代で、毎日血が流れる。売っても地獄、抱えても地獄。買い占めた量が大きいほど、地獄も、深い」
「会頭は、もう終わりね」ヴィオラが、声を落とした。「メルクリオは、潰れはしない。でも、ザイルは失脚よ。買い占めで領を屈服させた英雄になるはずが、商会を傾けた戦犯になった。誰のせいでもない。自分が、抱えすぎたの」
俺は、勝ったという実感を、声に出さなかった。指一本、触れていない。罵りもしていない。ただ、出口を、そっと閉めただけだった。男は、自分の握った刃の重さで、自分の足を貫いた。
夕暮れの市場で、ミナが塩の樽を覗き込んでいた。値札の前で、桝を持った手を、ぱっと上げる。
「おじさん! 塩、安くなってる! これで、また漬物作れるよ!」
その声に、棚の前の人々が、ほっと肩の力を抜くのが見えた。やっと、息が吐けた。そういう顔だった。守れたのは、この、誰かの普通の夕飯だ。それで、十分だった。
その夜、ヴィオラが、一人で俺の部屋を訪ねてきた。算盤も帳簿も持たず、手ぶらで。窓辺に立って、しばらく外を見ていた。
「レンさん」やがて、振り返らずに言う。「私、あなたを試しに来たって、言ったわよね」
「ええ」
「あれは、嘘」ヴィオラが、こちらを向いた。いつもの挑発の色が、消えていた。「本当は、確かめに来たの。メルクリオの独占を、ぶち壊せる人間が、本当にいるのかどうか。……いたわ。ここに」
算盤を持たない手が、まっすぐ差し出された。




