第35話 迷宮は、棚だ
本作は全70話で完結予定です。
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ダンジョンの入り口は、湿った石の匂いがした。
黒い洞穴の前で、冒険者たちが、五、六人、たき火を囲んでいた。具足はあちこち凹み、誰の顔にも、生気がない。俺たちが近づくと、一番の年嵩らしい男が、気だるげに顔を上げた。
「領のお偉いさんが、こんな所に何の用だ」男が、串に刺した干し肉をかじる。脂が、火に落ちて爆ぜた。「言っとくが、ここはもう、旨味のねえ穴だ。浅い層は狩り尽くした。深い層は、死ににいくようなもんだ。誰も、本気で潜らねえよ」
「ドルグさん、でしたね」俺はしゃがんで、火に手をかざした。「ギルドで、一番長く、この迷宮を見てきた人だと聞きました」
「だから?」
「この穴、儲からないんじゃない。儲け方を、間違えてるんです」
ドルグの眉が、寄った。隣で、ヴィオラが算盤を抱えて、にやにやしている。
俺は、洞穴の口に向かって、盤面を開いた。こめかみが、ずきりと痛む。範囲の外、暗闇の奥までは見通せない。それでも、これまで運び出された素材の「流れ」が、薄い数字の層になって、目の前に浮かんだ。
「あなたたちは、魔石と、鉄鉱石だけを狙って潜ってる。高く売れるから」俺は数字をなぞった。「でも、それを掘る途中で、捨ててるものが、山ほどある。光らない苔。地下の泉に湧く、白い魚。岩に生える、食える茸。――あなたたちが、ゴミだと思って踏んでるものが、外の世界じゃ、宝なんですよ」
「茸ぁ?」ドルグが、鼻で笑った。「あんなもん、誰が買う」
「乾かせば、ひと冬もつ保存食になります」俺は言った。「白い魚は、塩がなくても、地下の水が冷たいから、傷みにくい。今、ノルドは、メルクリオに塩と麦を握られて、首を絞められてる。そこへ、腐らない食料が、地面の下から、いくらでも湧いてくるとしたら――どうです」
冒険者たちの顔が、変わった。だるそうだった目に、火が点いた。
「待て」ドルグが、串を置いた。「茸や魚を運んで、銭になるってのか」
「なります。買い取るのは、領です」俺は懐から、書きつけを出した。「魔石も鉄も、今まで通り買う。それに加えて、苔も茸も魚も、ぜんぶ買う。あなたたちは、迷宮で死ぬほど命を張ってるのに、稼ぎは博打みたいに上下する。それを、変えたい」
盤面に、冒険者たちの「負荷」が見えていた。疲労の偏り。怪我の絶えない、無理な潜り方。俺は、それを指した。
「あなたたちの潜り方は、無駄が多すぎる。同じ層を、別々の組が、何度も荒らしてる。情報を、まとめてない」俺は石の地面に、迷宮の見取り図を描いた。「どの層に、何が、どれだけある。誰が、いつ、どこを受け持つ。それを、ギルドで一つの帳面にまとめれば、無駄足が減って、死人も減る。稼ぎは、増える」
「迷宮を……棚卸しする、ってのか」ドルグが、呆然と呟いた。
「迷宮は、棚なんですよ」俺は立ち上がった。「いつ、何が、どれだけ補充されるか。読めれば、ただの危ない穴が、領を養う、一番でかい蔵に変わる」
「だが、棚と違って、こいつは噛みついてくるぜ」ドルグが、洞穴の闇を顎で示した。「魔物が湧く。深いほど、強くなる。欲をかいて潜って、帰ってこなかった奴を、何人も見送った」
「だから、欲をかかせません」俺は盤面に、層ごとの危険と実りを並べた。「深い層の魔石は、確かに高く売れる。でも、命と引き換えなら、割に合わない。浅い層の苔と魚は、安いけど、安全で、量がある。安全に何度も取れるものを、束ねたほうが、結局、儲かるんです。一度の大博打より、毎日の確かな稼ぎ。前世で、それを嫌というほど、学びました」
ドルグは、しばらく見取り図を睨んでいた。それから、ぼろぼろの手を、無造作に差し出した。
「面白え。乗った」歯を見せて笑う。「四十年、迷宮に潜って、初めてだ。穴を、蔵だなんて言った奴は」
その日から、ダンジョンが、変わった。
冒険者たちは、組ごとに層を分け、無駄な重複が消えた。運び出される素材は、魔石だけでなく、保存の利く食料に、薬になる苔に、加工できる素材に広がった。俺の盤面が、流れと負荷を見張り、無理が出れば、人を入れ替えた。怪我人が、目に見えて減った。
「すごいことになってるわよ、レンさん」帳簿をめくりながら、ヴィオラの声が弾んでいた。「地面の下から、麦でも塩でもない食料が、毎日湧いてくる。メルクリオが、どんなに上流を握っても、絶対に届かない流れ。あの会頭、自分の蔵で麦を腐らせながら、これを知ったら、どんな顔をするかしら」
迷宮の口で、ドルグの組が、籠いっぱいの白い魚と、乾いた茸を担いで上がってきた。麓の集落から、それを買い付けに、人が集まる。冒険者の懐が潤い、酒場が賑わい、子供らが駆け回る。ミナが、籠を覗き込んで、目を丸くしていた。
「魚だ! 大きい! おじさん、これ、土の中から?」
「ああ。迷宮の、地下の泉でな」
「魔法、使えないのに、地面から魚を出すの?」ミナが、口をぽかんと開けた。「やっぱり、おじさん、魔法使いより、すごいや」
供給の管は、これで揃った。本流をメルクリオに握られても、領は、もう、飢えない。
あとは、待つだけだった。
メリディオの大蔵で、買い占められた麦が、行き場をなくして、傷み始める。蔵代と利息が、毎日、会頭ザイルの肉を削る。売り先を失った巨大な在庫が、利益に変わるはずだった山が、ゆっくりと、腐臭を放つ重荷へと変わっていく。
その時が、すぐそこまで来ていた。経済戦争の、決着の鐘が、鳴ろうとしていた。




