第32話 数字で殴り合いましょう
本作は全70話で完結予定です。
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その女は、領館の応接間で、出された茶に手もつけず、俺が入ってくるのを待っていた。
歳は二十そこそこ。旅装のはずなのに、襟元も袖口も、塵ひとつ乱れていない。卓には、帳簿でも荷札でもなく、小さな算盤だけが、きちんと正面を向いて置かれていた。
「あなたが、レンさん」女が顔を上げた。値踏みするでも、媚びるでもない、まっすぐな目だった。「思ったより、お若い……いえ、思ったより、疲れた顔ね。働きすぎでしょう」
「あなたは」
「ヴィオラ。商人よ。後ろ盾なし、店も持たない、一代きりのね」算盤の珠を、指先で一つ弾く。乾いた音が鳴った。「メルクリオの差し金じゃないかって、顔に書いてあるわ。安心して。私、あの会頭ザイルって男が、大っ嫌いなの」
「なら、味方だと?」
「さあ」ヴィオラが、口の端を上げた。「それは、あなた次第。私はね、強い者の側につくの。金の量で強いんじゃなくて、頭で強い者の側に」
リーゼが壁際から動かず、剣の柄に手を置いたままだった。胡散臭い、とその背中が言っている。俺も同感だった。だが、この女が、ただの商人でないことも、もう分かっていた。卓に置かれた算盤の珠は、長年使い込まれて、角が丸い。机上で覚えた数字ではない。場数で叩き上げた手だ。
「警戒されてるわね」ヴィオラが、リーゼをちらりと見た。「いいのよ。剣の人は、剣の人で。私は、その剣が一度も役に立たない戦場の話を、しに来たの」
「言葉が過ぎるぞ、商人」リーゼの声が、低くなった。
「あら、本当のことでしょう」ヴィオラは怯まない。「メルクリオの買い占めに、剣で勝てる? 斬って回る? 相手は大陸中の市場よ。斬る端から、また値が上がるわ」
「試させてもらうわ、レンさん」ヴィオラが身を乗り出した。「メルクリオは今、ノルドの麦と塩を買い占めてる。さて、あれは何のため? 三秒で答えて」
「値を吊り上げて、領を屈服させるため」俺は即答した。「高くなった麦と塩を、最後にノルドへ売りつけて、儲ける。喉が渇いた相手に、水を高く売る。それが狙いだ」
「七十点」ヴィオラが珠を弾いた。「半分しか見てない」
「半分?」
「買い占めるってことはね、レンさん」女の声が、少しだけ低くなった。「その麦と塩を、ぜんぶ自分の蔵に、抱え込むってことよ。山みたいに。あの会頭は今、大陸中の麦と塩の上に、座ってるの。気持ちよさそうに。でも、麦は腐るし、塩だって、置きっぱなしじゃ湿気る。蔵代もかかる。借りた金には、利息がつく」
頭の奥で、何かが、かちりと噛み合った。
「売れて、初めて、儲けになる」俺は呟いた。「買い占めただけじゃ、ただの……」
「ただの、でかい在庫」ヴィオラが言い切った。「売り抜けるまでは、一文の得にもならない、ただの重荷。あの男は今、刃物を握ってるつもりで、自分の喉元に、それを当ててるのよ。本人は、気づいてない」
俺は思わず立ち上がっていた。卓上に盤面を呼び出す。メルクリオが押さえた麦の流れ。塩の流れ。それが行き着く先で、蔵に積み上がっていく、巨大な「残量」の山が、数字となって、目の前にせり上がってきた。
在庫は、力じゃない。在庫は、リスクだ。前世で、何度も叩き込まれた言葉だった。売れない物を抱えた倉庫は、富じゃない。爆弾だ。日に日に、目減りしていく爆弾。
倉庫に物が積み上がるのを見て、安心する経営者は、必ず潰れる。逆だ。物が動かず、棚に居座っている。それは、金が、形を変えて、そこで眠っているということだ。眠った金は、利息も蔵代も、容赦なく食う。前世で、何度、その当たり前を理解しない上司に、頭を下げて説明したことか。あのとき報われなかった理屈が、今、巨大な敵の喉元を、指している。
「売り先さえ、断ってやれば」俺は早口になっていた。「あの山は、儲けに変わる前に、傷み始める。蔵代と利息が、向こうの肉を、毎日削っていく。買い占めれば買い占めるほど、抱えた爆弾は、でかくなる」
「あら」ヴィオラが、初めて、本当に楽しそうな顔をした。算盤を、ぱちりと閉じる。「いい目をしてるじゃない、社畜さん。武力で守るしか能のない連中とは、わけが違うのね」
リーゼの眉が、ぴくりと動いた。が、何も言わなかった。
「数字で殴り合いましょう、レンさん」ヴィオラが手を差し出した。細い、けれど節くれだった、働く者の手だった。「私、武力より好きよ、そういうの。あなたがあの男の在庫を、売れないゴミに変えられるなら――私は、喜んで手を貸す。負けたほうが、勝ったほうの言うことを聞く。どう?」
俺は、その手を、すぐには取らなかった。
この女が、なぜノルドに来たのか。なぜ俺の手の内を、こうも正確に読めるのか。味方の顔をした、もう一人の「読みすぎる誰か」かもしれない。その警戒は、消えなかった。
だが、差し出された手の向こうに、勝ち筋が、確かに見えていた。
「条件があります」俺は言った。「あなたの算盤、こっちにも見せてもらう。腹の内ごと」
「いいわよ」ヴィオラが笑った。「お互いさま、でしょう?」
俺は、その手を、握った。乾いて、温かい手だった。リーゼが、壁際で、小さく息を吐いたのが分かった。納得したのではない。見張ることに、決めた息だった。
「言っておくけど」ヴィオラが、握ったまま、声を落とした。「あの会頭ザイルは、ただの金の亡者じゃないわ。ここ一年、あの男の読みは、人間離れしてきてる。まるで、誰かに、未来の相場を耳打ちされてるみたいに。正直、私も、一度負けてる。それでも、もう一度、嚙みつきに来たの」
その言葉に、ひやりとしたものが、背筋を撫でた。読みすぎる誰か。心当たりが、俺にも、あった。
買い占めとは、巨大な在庫を抱えること。ならば、その在庫を、売れない荷物に変えてやればいい。逆転の算段が、静かに、動き出した。




