第31話 買い占め
本作は全70話で完結予定です。
毎日5話ずつ、06:40/11:40/17:40/19:40/21:40 に予約投稿しています。
続きが気になりましたら、ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。
朝の市場で、塩の値札が、ひと晩で倍になっていた。
「冗談だろ、おい」客の一人が、樽を覗き込んで声を上げる。「昨日まで銅貨二枚だったぞ。それが四枚?」
「うちのせいじゃねえよ」塩売りの親父が、両手を広げた。「仕入れが、入ってこねえんだ。隊商が、まるごと買われちまった」
俺は人垣の後ろで、盤面を開いた。市場に並ぶ塩の量。袋の数。残量。視界の端に、薄い数字の層が重なる。――少ない。普段の三分の一もない。麦の棚も同じだった。値は朝のうちにまた上がるだろう。需要は変わらないのに、物がない。値が跳ねるのは、当たり前だ。
「レンの旦那!」
人混みを縫って、ガロが駆けてきた。息が上がって、いつもの軽口が出てこない。
「やられた。完全に、やられたぜ」膝に手をついて、ガロが喘ぐ。「東の街道の隊商、根こそぎだ。麦も塩も、メリディオの商会が、相場の倍を積んで先に押さえちまった。俺たちの買い付けが行くころにゃ、樽の底しか残ってねえ」
「メルクリオですね」
「あいつら、銭の量がちげえ」ガロが顔を歪めた。「こっちが銅貨一枚で競るところに、向こうは金貨を投げてくる。商売の喧嘩じゃねえ。物量で、踏み潰しに来てやがる」
市場のあちこちで、似たような声が上がっていた。麦の棚に群がる人。空の籠を抱えて、立ち尽くす老婆。値札を見るたび、誰かが、ため息とも呻きともつかない声を漏らす。やっと、飢えの記憶が遠のいたばかりだった。その記憶が、塩と麦の値段とともに、また、すぐ後ろまで戻ってきていた。
「旦那、どうする」ガロが声を落とした。「このまま黙ってちゃ、領の連中、ひと月で干上がるぜ」
領館に戻ると、廊下が騒がしかった。役人たちが書類を抱えて行き来し、誰もが早口で何かを言い合っている。立て直したばかりの領が、ひと晩で、足元から揺れていた。
「レン殿」リーゼが大股で寄ってきた。剣の柄に手をかけたまま、行き場のない力を持て余している。「どういうことだ。市場が、騒ぎになっているぞ。塩がない、麦がないと」
「メルクリオが、上流を押さえました」俺は卓に大陸の地図を広げた。「ノルドが食う麦と塩は、ほとんどが東の交易路から入ってくる。その流れの、入り口を、まるごと金で買い取った。蛇口を、握られたんです」
地図の東端を、指で叩く。交易都市メリディオ。大商会メルクリオの、本拠だ。
「ひと月前、奇妙な親切で近づいてきた連中が、いましたよね。相場より高く、ノルドの鉄を買ってくれた商会が」俺は言った。「あれは、撒き餌だった。こっちの台所の中身を、こっちが何を、どこから仕入れてるかを、覗くための。覗き終えたから、今度は、本気で蛇口を閉めに来た」
「ならば、別の道から運べばいい」
「運びます。でも、それも読まれてる」
俺は盤面で、街道の物の流れを追った。北の峠道。南の川舟。代わりの経路を一つ思い浮かべるたび、そこに既にメルクリオの先回りの買い付けが入っているのが見えた。こちらが手を伸ばす先に、先に手が置かれている。まるで、俺の頭の中の地図を、誰かが横から覗いているようだった。
その感触に、背筋が冷えた。横領を追ったあのとき、触れてもいない領都の取引が盤面に映った違和感。あれと、同じ匂いがする。
「数えてみましょう」俺は声に出して、自分を落ち着かせた。「メルクリオが押さえた物の量。値の上がり方。領が、あと何日もつか」
役人を集めて、在庫を洗い出させた。蔵の麦、塩、塩漬けの樽。盤面に映る数字と、帳簿の数字を、一つずつ突き合わせる。出てきた答えは、はっきりしていた。
「このままなら、ふた月で、領の蓄えが底をつきます」俺は淡々と告げた。「値はまだ上がる。庶民から順に、塩が買えなくなる。冬を前に、また飢えが戻ってくる」
部屋が、静まり返った。誰かが、唾を飲む音が、やけに大きく聞こえた。
ミナの顔が浮かんだ。やっと毎日飯が食えるようになったと、鼻の頭に粉をつけて笑っていた、あの顔。塩漬けの肉を、初めて口にして、目を丸くしていた、あの顔。あれを、また奪われるのか。よそから来た、顔も知らない金持ちの、儲けの都合で。
腹の底で、静かな火が点いた。声は荒げない。荒げる代わりに、頭が、急に冷たく、速く回り始めた。
「正面から、金で競るのは、やめます」俺は地図から顔を上げた。「向こうの財布は、底が見えない。殴り合えば、こっちが先に倒れる」
「では、どうする」リーゼの声が硬い。
「考えます。資本では勝てない。だったら、別の戦い方を探すだけです」俺は地図の上の、メルクリオの紋を指でなぞった。「これだけの量を買い占めるってことは、向こうも、それだけの荷物を抱え込むってことだ。山ほどの麦と塩を。……必ず、そこに、隙がある」
その言葉に、自分でも、まだ確信はなかった。ただ、握りしめた拳の中に、糸口の端だけが、確かにあった。
「旦那」ガロが、ぼそりと言った。「妙な噂を、聞いた。今朝、ノルドの宿場に、女が一人、入ったらしい。若い女商人だ。お付きも連れず、馬車一つで。宿の主人に、こう言ったとさ」
「なんて」
「『この領で、一番頭の切れる男に会いに来た』――ってよ」
ガロが、ごくりと喉を鳴らした。
「メルクリオの差し金か。それとも、別の手か。どっちにしろ、ただの行商じゃねえ。旦那、会うのかい、そいつに」




