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第30話 大陸の、影

本作は全70話で完結予定です。

毎日5話ずつ、06:40/11:40/17:40/19:40/21:40 に予約投稿しています。

続きが気になりましたら、ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。

大商会メルクリオが動き始めたのは、ガロの噂を聞いてから、ひと月もしないうちだった。


最初は、奇妙な「親切」の形で来た。


ノルド領の品を扱いたい、という申し出が、メルクリオの名で、いくつも届いた。鉄も、織物も、酒も、メルクリオの広い販路に乗せれば、大陸じゅうに売れる。条件も、悪くない。むしろ、破格に良かった。


「うますぎる話だな」リーゼが、申し出の書状を睨んだ。上等な羊皮紙に、金泥で縁取りがされている。書状一枚にも、商会の財力が滲んでいた。「これだけ良い条件を、なぜ、向こうから? 大商会が、辺境の小領に、頭を下げてくるなど」


「うますぎる話には、たいてい裏があります」レンは盤面で、メルクリオの動きを追った。「条件が良すぎる、というのが、何よりの証拠だ。商人が、損になる取引を持ちかけるときは、その損を、どこかで何倍にもして取り返す算段がある。今は損をしてでも、ノルドを、自分の懐に取り込みたい。そういうことです」


「取り込んで、どうする」


「これは、餌です」レンは書状を指で弾いた。「ノルドの品を、メルクリオの販路に、どっぷり頼らせる。砦の塩を、ギルドが握っていたのと、同じ手口だ。最初は親切に、たっぷり儲けさせる。ノルドが、メルクリオなしでは商売できない身体になるまで。そして、頼り切ったある日、ぷつりと止める。そうなれば、ノルドの商いは、丸ごとメルクリオの言いなりだ。値も、量も、向こうの胸三寸で決まる。今の好条件は、その日のための、撒き餌です」


リーゼの眉が、険しくなった。「飼い慣らしてから、首輪をつける、というわけか」


「ええ。だから、餌には、食いつけません」


「では、断るのか」


「断れば、別の手で来ます」レンは書状を置いた。「向こうは、ノルドを、自分の支配下に置きたい。手に入らないなら、潰してでも、競争相手を消す。受けても地獄、断っても地獄、という形に、持ち込もうとしてる」


その読みは、すぐに裏づけられた。


ノルドが申し出に色よい返事をしないと見るや、メルクリオは、態度を変えた。各地の市場で、ノルドの品に、買い手がつかなくなり始めたのだ。メルクリオが、取引先に圧力をかけている。「ノルドと商売をする者とは、メルクリオは取引しない」と。


巨大な販路を握る商会の、無言の脅し。逆らえば、自分もメルクリオから締め出される。多くの商人が、保身のために、ノルドを避け始めた。せっかく評判になった領産の品が、よその市場で、ぱたりと買い手を失っていく。倉庫に、売れない鉄や織物が、積み上がり始めた。


「兵糧攻めですね。今度は、大陸規模の」レンは、その包囲を、盤面で見つめた。ギルドのときよりも、はるかに太く、広い。塩一品ではなく、ノルドの商い全部を、一度に締め上げてくる。一領の蓄えでは、到底張り合えない、資本の壁だった。


工房の職人たちにも、不安が広がり始めていた。せっかく戻ってきた仕事が、また失われるのではないか。レンが街を歩くと、すがるような視線が、あちこちから注がれる。立て直したばかりの暮らしが、また脅かされている。その重みを、レンは肩に感じた。


「勝てるのか、こんな相手に」リーゼの声に、珍しく、硬さがあった。


「正面からは、勝てません」レンは正直に答えた。「金の量では、踏み潰される。でも――」


レンは、メルクリオの動きを、もう一度、丁寧に読み直した。圧倒的な資本。広大な販路。隙がないように見える。だが、これほど巨大な商会が、ノルドのような小さな領に、わざわざ本気で牙を剥く。それ自体が、一つの「歪み」だった。


「なぜ、メルクリオは、こんな辺境の領に、ここまで本気なんでしょうね」レンは呟いた。「鉄や織物が評判だから? それだけにしては、力の入れようが、おかしい。まるで――ノルドを潰すこと自体が、目的みたいだ」


ザッハの、正確すぎた買い占め。顔の見えない「助言者」の影。そして、メルクリオの、過剰な執着。


ばらばらに思えた点が、レンの頭の中で、一本の線に繋がりかけていた。砦で横領を追ったとき、触れてもいない領都の取引まで盤面に映った、あの違和感。ザッハが、レンの頭の中の仕入れ先を、見透かしたように潰してきたこと。それらが、すべて、同じ一つの原因から来ているとしたら。


誰かが、ノルドの背後で――いや、レン自身の背後で、糸を引いている。物の流れを読む、自分と同じ目で。そして、その力を、人を支配し、富を奪うために、使っている。


「リーゼさん」レンは顔を上げた。その目に、恐れではなく、闘志の光があった。「次に来るのは、ただの商売じゃない。経済を武器にした、本物の戦争です。資本で殴り合えば、負ける。だから、流れで勝つ。メルクリオの強さは、その巨大さだ。でも、巨大なものほど、急には止まれない。動き出した大商会の流れを読み切って、その勢いを、逆手に取ってやる」


その夜、東の空、メリディオの方角から、見たこともない紋章を掲げた大きな隊商が、ノルドへ向かっているという報せが届いた。メルクリオの紋だという。撒き餌の次は、何を仕掛けてくるのか。


立て直したばかりの領を守り抜けるか。レンの数字が、いよいよ大陸の巨大な資本と、正面からぶつかろうとしていた。経済戦争の、最初の一手が、すぐそこまで来ている。

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