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第29話 潤い始めた領

本作は全70話で完結予定です。

毎日5話ずつ、06:40/11:40/17:40/19:40/21:40 に予約投稿しています。

続きが気になりましたら、ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。

ザッハが会頭の座を退いた頃には、ノルド領は、見違えるほど活気づいていた。


かつて空き家の並んでいた路地に、人が戻ってきた。閉じていた工房が開き、市場には、領産の品が、堂々と並ぶ。領の鉄で打った鍋、北の羊毛で織った厚布、麦を醸した酒。どれも、出来がいいと評判で、よその領の商人まで、わざわざ買いに来るようになった。


「すごいもんだな」リーゼが、賑わう市場を歩きながら言った。串焼きの肉の匂いと、客の呼び込みの声が、通りに満ちている。「半年前は、物乞いの子が、道に座り込んでいたのに」


「その子も、今は工房で糸を紡いでます」レンは、ふと目を細めた。「賃金で、靴を買ったそうですよ」


街角で、子供たちが、こまを回して遊んでいた。痩せて、目だけが大きかった子らの頬に、今は丸みがある。腹が満ちれば、子供は笑う。それは、砦のミナたちで、嫌というほど見てきた光景だった。


そういえば、ミナは元気にしているだろうか。レンは、ふと、雪の砦を思い出した。ベルクの倉庫は、今もきちんと回っているはずだ。あの老兵に任せておけば、間違いはない。落ち着いたら、一度、顔を見に戻りたい。


「砦のことを、考えているな」リーゼが、横目で言い当てた。


「わかりますか」


「お前は、わかりやすい男だ」彼女は、わずかに口元を緩めた。「数字を読むときは鬼のようだが、人を思うときは、すぐ顔に出る」


鬼のよう、とまで言われて、レンは苦笑するしかなかった。


「税が公平になって、人が戻ってきました」レンは盤面で、領の流れを読んだ。線が、太く、滑らかに巡っている。「人が増えれば、商いが増える。商いが増えれば、税も増える。今、領の蔵は、痩せるどころか、肥え始めてます。搾り取るのをやめたら、かえって、富が増えた」


「皮肉なものだな」リーゼが笑う。「吸い上げるのをやめたら、潤った」


「富は、貯め込むと腐る。回すと、膨らむ」レンは言った。「ザッハや役人は、それを知らなかった。蔵に貯め込むことが、豊かさだと思ってた。でも、本当の豊かさは、流れの中にあるんです」


その夕、レンとリーゼ、それに領都へ顔を出したガロは、安酒場の隅で、ささやかな祝杯を上げた。


「いやあ、領が変わったもんだ」ガロが麦酒の杯を掲げた。泡の弾ける、香ばしい匂いがする。「俺も、商売がやりやすくなったぜ。ギルドにみかじめを取られなくなったしな。旦那、あんた、商人ギルドを丸ごと敵に回して、勝っちまった」


「勝った、というより」レンは杯を傾けた。「腐ってたものが、勝手に倒れただけです」


「謙遜が過ぎるぜ」ガロは笑い、それから声を落とした。「だが、旦那。ひとつ、耳に入れときたい話がある」


「なんです?」


「大商会メルクリオ、って名前、聞いたことあるかい」ガロの目が、わずかに鋭くなった。「東の交易都市メリディオを根城にする、大陸でも指折りの商会さ。ギルドなんざ、可愛く見えるくらいの、化け物だ」


「どのくらい、大きいんです」


「想像もつかねえぞ」ガロは、卓の上に、麦酒の染みで地図のようなものを描いた。「大陸じゅうの主な交易路に、メルクリオの倉庫がある。船も、隊商も、何十と持ってる。穀物、塩、鉄、布――生活に要る品の流れの、半分近くを、あの商会一つが握ってるって話だ。値を決めるのも、品を止めるのも、思いのまま。国の一つや二つ、飢えさせるくらい、わけもねえ」


商人ギルドが街を握っていたのと、同じ構図を、大陸の規模でやっている。レンは、その途方もなさに、思わず息を呑んだ。


「そのメルクリオが、最近、ノルド領に、やけに目をつけてるって噂だ」


レンの杯を持つ手が、止まった。


「ノルドの品が、評判になってるからな」ガロは続けた。「鉄も、織物も、酒も、よそより安くて質がいい。メルクリオは、その商売を、丸ごと飲み込む気かもしれん。あるいは――潰す気か」


「ギルドの、上をいく相手、ですか」


「比べものにならねえ」ガロは杯の酒を、一息に呷った。「それと、もう一つ。メルクリオに対抗できる、唯一の若手って噂の商人がいる。ヴィオラっていう、女商人だ。まだ二十そこそこだが、メルクリオの独占を、目の敵にしてるらしい。敵か、味方か、そいつも、いずれノルドに現れるかもな」


メルクリオと、ヴィオラ。


聞き慣れない、二つの名が、レンの胸に、小さな波紋を広げた。領を立て直し、ギルドを退けて、ようやく一息つけると思った矢先だった。だが、領が豊かになればなるほど、それを狙う、より大きな影が、寄ってくる。痩せた獲物には、誰も見向きもしない。肥えてきたからこそ、大きな獣の目に留まる。豊かさは、それ自体が、新たな危険を呼ぶ。皮肉な話だった。


「終わりが、ないですね」レンは、苦笑とともに杯を干した。麦酒の苦みが、舌に残る。一つ片づけば、また一つ。砦の飢えから始まって、ずっとそうだ。だが、不思議と、嫌な気はしなかった。


その夜、宿へ戻る道で、レンは盤面を、大陸の方角へ、ぼんやりと広げてみた。


砦から、領へ。そして今、その視界の果てに、見たこともないほど太い、物と金の流れが、うっすらと浮かんでいた。大陸の交易を貫く、巨大な動脈。その一本が、ゆっくりと、ノルドの方角へ、向きを変え始めているのが、見えた気がした。

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