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第28話 空振りの代償

本作は全70話で完結予定です。

毎日5話ずつ、06:40/11:40/17:40/19:40/21:40 に予約投稿しています。

続きが気になりましたら、ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。

買い占められたザッハの塩を、売れない荷物に変える。


そのためにレンが打った手は、単純だった。塩を、市場で売り買いすること自体を、しばらく止めてしまうこと。


「領が、塩の直接配給を始めます」レンは役所の名で、お触れを出した。「領の蔵から、民へ、決まった量を、決まった値で配る。ギルドの市場を、通さずに」


元手は、製鉄や織物で稼いだ、領の蓄えだった。それで、ザッハが買い占めなかった遠方の港から、細々と塩を仕入れる。量は多くない。一度に運べる塩も、ザッハの倉庫の山に比べれば、ほんのひと匙だ。だが、民が「明日の塩」に困らない程度には、行き渡る。ガロの足が、その細い供給線を、辛抱強く支えた。


「ちまちました量だぜ、旦那」ガロが荷を運びながらこぼした。塩袋を担ぐ肩から、汗が湯気を立てている。「これっぽっちで、ザッハの山に勝てるのかい」


「勝つ必要はないんです」レンは言った。「民が、飢えなければいい。塩がなくて困る、という状況さえ作らせなければ、ザッハの抱えた山は、ただの邪魔な在庫になる」


「わからん理屈だな」


「たとえば、こうです」レンは指で説明した。「喉が渇いて死にそうな旅人がいたら、水は、金貨一枚でも売れる。でも、すぐ近くに、ただで飲める井戸があると知れたら? 誰も、その水を、金貨で買わない。ザッハの塩は、その『金貨一枚の水』だ。俺たちは、井戸を一つ、掘ってやる。すると、奴の水は、ただの水になる」


ガロが、塩袋を担ぎ直しながら、にやりとした。「なるほどな。旦那の言うことは、相変わらず半分わからん。けど、面白え」


配給の現場では、塩を受け取った村の女が、レンに頭を下げた。「ありがとうございます。子に、まともな味の汁を、また飲ませてやれます。ギルドの塩は、高くて、ほんのひとつまみしか」


「これからは、心配要りません」レンは言った。塩の一袋が、誰かの食卓の味になる。数字の向こうに、こうした顔があることを、レンは砦で学んでいた。


ザッハの誤算は、そこにあった。


買い占めとは、抱えた在庫を、いずれ高く売り抜けて、初めて儲けになる。値が三倍に跳ね上がった塩を、民が泣く泣く買う――その絵を、ザッハは描いていた。だが、領が細々とでも塩を配り始めたせいで、その絵が崩れた。誰も、三倍の塩を、慌てて買わない。領の配給を待てば、適正な値で手に入るからだ。


塩は、放っておけば、ザッハの倉庫で湿気を吸い、固まり、傷んでいく。


「持ち堪える、と思いますか」リーゼが問うた。


「持ち堪えられません」レンは盤面で、ザッハの倉庫を読んだ。「あれだけの塩を買い占めるのに、奴は、ありったけの金をつぎ込んだ。倉庫の保管にも、金がかかる。塩を寝かせている間、一文も入ってこない。金が、出ていくばかりだ。焦って、必ず、動きます」


その読みは、当たった。


ひと月もしないうちに、ザッハは焦り始めた。抱えた塩を、どこかで捌かなければ、つぎ込んだ金が、まるごと死ぬ。彼は、値を下げて、塩を売りに出した。三倍から、二倍へ。それでも売れず、適正な値まで。


だが、いったん「領の配給で足りる」と知った民は、慌てて買わない。ザッハが値を下げれば下げるほど、「もっと下がる」と買い控える。塩の値は、下げ止まらず、ついに仕入れ値を割った。


ザッハは、高く買った塩を、安くしか売れない。買い占めに注ぎ込んだ金が、塩が売れるたびに、損へと変わっていく。投げ売りが、さらに値を崩し、損が損を呼ぶ。


「自分で、自分の首を絞めてますね」レンは盤面を見つめた。同情は、湧かなかった。ザッハが買い占めで吊り上げた塩で、何人の民が、煮炊きにも困ったか。


買い占めの失敗は、ギルドの内側を揺らした。


莫大な損を出したザッハに、ギルドの他の商人たちが、距離を置き始める。彼に従って塩を抱えた者たちも、巻き添えで損をした。「あの男に従えば、また損をする」。そんな空気が、ギルドに広がっていく。


ギルドの結束を保っていたのは、ザッハの「儲けさせる」力だった。彼の言うとおりにすれば、確かに儲かった。だから、誰もが従った。だが、その力が一度空振りすれば、結束を縛るものは、何もない。義理も、忠義もない。あるのは、損得だけ。これも、街道の傭兵団が、奪えなくなった途端に崩れたのと、同じ構図だった。利で集まった群れは、利が尽きれば、散る。


会頭の座は、もはや、ぐらついていた。


レンは、ザッハを一度も、糾弾しなかった。


ただ、塩を配り、民が飢えないようにした。それだけだ。ザッハは、自分の買い占めで、自分が転んだ。砦の代官が、役所の役人頭が、そうだったように。武力でも、権威でもなく、自分の欲が、自分を崩した。


「これで、ギルドの牙も、ずいぶん鈍りました」リーゼが言う。


「ええ。ですが」レンは、まだ晴れない一点を、胸に抱えていた。ザッハの、あの正確すぎる買い占め。レンの仕入れ先を、頭の中から盗み見たような、不気味な手口。あれは、ザッハ一人の知恵だったのか。それとも――。


その疑念に答えるように、敗れたザッハのもとを、一人の男が訪れたという噂が、レンの耳に届いた。顔も、名も、誰も知らない。ただ、「商いの助言をする者」とだけ。


霧の向こうの影が、また、ちらりと、尾を見せた。

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