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第20話 辺境から、領へ

本作は全70話で完結予定です。

毎日5話ずつ、06:40/11:40/17:40/19:40/21:40 に予約投稿しています。

続きが気になりましたら、ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。

雪解けの頃、砦に一人の使者が訪れた。


街道のぬかるみが乾き始めた、よく晴れた朝のことだった。領都ヴェルクからの早馬だという。泥のはねた外套を翻し、使者はまっすぐ砦の広間へ通された。長旅の埃と、馬の汗の匂いをまとっていた。レンが呼ばれたとき、その手には、封蝋を施した一通の書状があった。


「タレス砦の、レン殿でよろしいか」使者は値踏みするような目を向けた。「噂は、領都にも届いている。横領の代官を暴き、盗賊と傭兵崩れを兵一つ損なわず退け、疫病を防ぎ、飢えた砦を黒字に立て直した。流れ者、と聞いていたが」


「ただの、流れ者です」レンは正直に答えた。


「その流れ者に、領主様から沙汰がある」使者は書状を掲げた。「ノルド領は、汚職と窮乏で、見るも無残に荒れている。領都の蔵は鼠の巣、街道は荒れ放題、民は領を捨てて逃げ出している。この砦一つを、半年で甦らせた手腕を、領全体に振るってほしい。レン殿を、ノルド領の代官代に任ずる」


広間が、ざわめいた。兵も、村の者も、信じられないという顔で囁き交わす。


身分も血統もない流れ者が、領の実務を束ねる代官に。前例のない抜擢だった。だが、それを覆すだけの実績が、この半年で、確かに積み上がっていた。


レンは、すぐには答えなかった。


砦は、ようやく立ち直った。ミナたちは飢えず、ベルクの倉庫は満ち、リーゼの兵は飢えずに冬を越した。ここに留まれば、この穏やかさを守れる。手の届く範囲の、確かな幸せを。


だが、レンの目には、見えていた。


砦の横領も、街道の傭兵も、たどっていけば、領全体の腐敗に根があった。砦の物資を抜いて私腹を肥やした代官。その代官に物を流させた、領都の大きな商人。砦が痩せれば痩せるほど得をする、誰か。砦一つをいくら手厚く守っても、領という大きな器が腐っていれば、いずれまた、同じことが繰り返される。


「砦一つを救っても」レンは口を開いた。「領そのものが腐っていれば、いずれまた、この砦も巻き込まれて飢える。横領も、傭兵も、元をたどれば、領の腐敗に根がある。そこを正さなければ、本当の意味で、この砦も守れない」


レンは、まっすぐに顔を上げた。「謹んで、お引き受けします」


使者が去ったあと、ベルクが、ぼそりと言った。


「行くんだな」白髭を撫でる。「止めはせん。お前さんは、ここに収まる器じゃない。砦一つを直すだけで終わる男なら、儂が四十年かけて見抜けなかった横領を、半日で暴いたりはせんさ」


「買いかぶりすぎですよ」


「いいや」ベルクは首を振った。「お前さんは、数えるだけで、世界を変えちまう。剣も魔法もなしに、な。儂は、長く生きてきたが、そんな男は初めて見た」


その晩、砦は静かな送別の宴になった。乏しい蓄えから、それでも村人たちが少しずつ持ち寄り、ささやかな膳が並ぶ。半年前なら、考えられない光景だった。あの頃は、明日の粥にも、誰もが事欠いていた。それが今は、人を送る膳に、わずかでも肉が乗る。


「行っちまうのか、おじさん」ミナが、唇を尖らせた。目に、涙が滲んでいる。「せっかく、毎日ご飯持ってきてたのに」


「遠くへ行くわけじゃない」レンはミナの頭に手を置いた。「領が良くなれば、この砦も、もっと豊かになる。お前たちのためにも、やるんだ。それに、この砦には、ベルクさんがいる。倉庫は、安心して任せられる」


「あたしも、いつか、おじさんみたいに数えられるようになる?」ミナが、涙を拭いながら言った。


「なれるさ。お前は、賢いからな」レンは笑った。「いつか、この領で、お前みたいな子が、当たり前にご飯を食べて、字を覚えて、好きな仕事を選べるように。そういう領にする。だから、行くんだ」


「ふん」ベルクが、白髭を撫でた。その目が、わずかに潤んでいる。「四十年守った倉庫だ。お前さんに恥はかかせん。……達者でな」


リーゼは、馬の支度を整えていた。


「私も、領へ行く」彼女はこともなげに言った。「砦の守りは、副官に任せる。お前一人を、汚職と利権の巣窟に放り込むわけにはいかん。剣の要る場面は、いくらでも出てくるだろう」


「心強いです」レンは頷いた。「正直、助かります。汚職の巣に丸腰で飛び込むのは、さすがに怖い。あなたがいてくれると、安心して数字に向き合える。剣は、あなたに任せます」


リーゼは、ふいと顔を背けた。耳が、わずかに赤い。「……勘違いするな。砦の代表として、領を見届けるだけだ」


「もちろんです」レンは笑いをこらえた。「砦の代表として、よろしくお願いします」


「わかればいい」リーゼは咳払いをして、馬の腹帯を、必要以上にきつく締め直した。


翌朝、レンとリーゼは、砦を発った。


見送りに、砦じゅうの者が集まった。ベルクが、ミナが、回復した村人たちが、雪解けの道に並ぶ。半年前、胡散臭い流れ者として、誰にも歓迎されずに転がり込んだ場所。それが今は、帰る場所のように、温かかった。


雪解けの水が、きらめきながら街道を潤していく。砦から領へ。点から、面へ。扱う数字の桁が、一つ上がる。レンの算盤が、より大きな盤面で、試されようとしていた。


だが、領都ヴェルクで待っていたのは、砦の比ではない、根深い汚職と、その奥に巣食う、巨大な利権の影だった。砦の代官が小物に思えるほどの、もっと大きな何かが、領の暗がりで、息を潜めていた。

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