第19話 飢えた牙
本作は全70話で完結予定です。
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バルガスの一団が、雪の街道を駆けてくる。
馬蹄が、凍った地面を蹴る音。雪を巻き上げ、白い影が迫る。数は、二十ほどに減っていた。脱落した者、馬を失った者を除いた、残りの精鋭。だが、その動きには、五日前の精彩がなかった。馬は痩せ、兵の足取りは重い。飢えと寒さが、剣の腕を、確かに鈍らせている。最後の力を振り絞った、捨て身の突撃だった。
「来るぞ」リーゼが剣を抜いた。刃が、雪明かりを鈍く弾く。砦の兵が、白い息を吐きながら、雪を背に隊列を組む。
レンは、丘の上から盤面を睨んでいた。バルガス軍の消耗度が、数字で見える。馬の体力、兵の疲労、残った兵糧。どれもが、底に近い。攻めてきているのは、力の余った軍ではない。最後の力を振り絞った、痩せ細った群れだ。
「リーゼさん。正面で受け止めないでください」レンは叫んだ。「退きながら、奴らを深追いさせる。雪の深いところへ、引き込んでください」
「逃げ腰に見えるぞ。兵が、不安がる」
「見えるだけです。すぐに、わかります」レンは言った。「飢えた相手に、こっちから攻める必要はない。攻めれば、こっちも傷つく。雪を、味方につけるんです。深雪は、足を取る。腹いっぱいの兵なら、踏み越えられる。でも、何日も飢えて、痩せた馬に乗った兵には、その一歩が、重くのしかかる。同じ雪でも、腹の減り具合で、重さが変わる」
「腹で、雪の重さが変わるか」リーゼが、口の端を上げた。「面白いことを言う。いいだろう。引き込んでやる」
リーゼの隊は、レンの指図どおり、じりじりと退いた。バルガスたちは、勝機と見て追ってくる。だが、街道を外れ、深い雪に踏み込んだ途端、その足が鈍った。痩せた馬が雪に脚を取られ、棒立ちになる。息が上がり、剣を振る腕に、力が入らない。
「今です」
リーゼの号令が、雪原に響いた。退いていた砦の兵が、いっせいに反転する。雪に足を取られて孤立した傭兵を、一人ずつ、確実に取り囲んでいく。数の上では互角でも、足場と体力が違いすぎた。砦の兵は、踏み固めた道の上。傭兵たちは、腰まで埋まる深雪の中。
斬り伏せるまでもなかった。剣を突きつけられた傭兵たちは、もはや抗う気力もなく、次々と得物を雪に落とした。膝をつき、肩で息をする。何日も飢え、寒さに削られた身体に、もう一戦を支える力は残っていない。剣の腕がどれだけあろうと、立っていられなければ、何の意味もなかった。
バルガスだけが、最後まで吼えていた。
「なぜだ! 俺たちは、戦に負けたことなんざ、一度もねえ!」雪まみれの頭目が、膝をつく。「一度も、斬り合ってねえじゃねえか! なのに、なんで――」
「あんたは、戦には負けてない」レンは、ゆっくりと丘を下りた。「負けたのは、勘定だ。一日に何人が、何を食う。それを数えずに、奪えば済むと思った。奪えなくなった日のことを、考えなかった。腹は、剣より正直だ。あんたの兵を倒したのは、俺たちじゃない。あんた自身の、空っぽの兵糧庫だ」
バルガスは、何か言い返そうとして、できなかった。剣を握る手に、力が入らない。痩せこけた自分の手のひらを見下ろし、それから、雪に落ちた自分の剣を見た。何十もの戦場を生き延びてきた、その剣。今は、雪に半分埋もれて、ただの鉄の棒だった。
「……腹が、減ったな」掠れた声で、バルガスは呟いた。それが、降伏の言葉だった。奪い続けることでしか立っていられなかった男の、静かな終わりだった。
砦の兵に、命を落とした者は、一人もいなかった。傷を負った者すら、ほとんどいない。剣を交えぬ勝利。それは、武勲を誇る者には理解しがたい、しかし誰も死なせない、レンの勝ち方だった。
投降した傭兵たちは、武装を解かれ、街道の関から退かされた。痩せこけた彼らに、リーゼは意外にも、わずかな食料を持たせた。「飢えた者を、飢えたまま追い返せば、また奪うしかなくなる。それでは、何も終わらん」と、彼女は短く言った。レンは、その采配に、黙って頷いた。武で勝ち、しかし無駄な遺恨を残さない。リーゼなりの、戦の収め方だった。
東の関は、その日のうちに空いた。塞き止められていた隊商が、堰を切ったように砦へ流れ込み、塩と鉄が、ようやく届く。固く凍りかけていた冬の補給線が、また一本、繋がった。砦に、生きた血が巡り始める。
帰り道、リーゼがレンの隣に馬を寄せた。雪を踏む蹄の音が、二つ、並んで響く。
「お前は、武で討てなかった敵を、飢えで退けた」彼女は前を見たまま言った。「父が、もし生きていたら……お前の話を、聞いただろうか。補給を軽んじるなと、上の貴族に、食ってかかれただろうか」
「聞いたと思います」レンは静かに答えた。「そして、きっと、こう言った。『よく言ってくれた』と。補給を軽んじるな、と声を上げ続けて、誰にも聞いてもらえなかった人なら、なおさら」
リーゼは、しばらく黙っていた。その横顔を、白い息が、ゆっくりと流れていく。やがて、彼女は前を向いたまま、ぽつりと言った。「礼を言う。父のことを、そんなふうに言ってくれた者は、お前が初めてだ」声が、いつもより、少しだけ柔らかかった。
砦は、また一つ、冬の危機を越えた。だが、レンは知らなかった。この小さな辺境の勝利が、思いもよらぬ場所まで、噂となって届きつつあることを。




