第12話 水を、煮る
本作は全70話で完結予定です。
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汚れた井戸に蓋をするのは、骨が折れた。
「先祖代々、この井戸で生きてきた」老婆が杖にすがって抗議する。「今さら使うなとは、どういう了見だ」
「この井戸が、悪いわけじゃないんです」レンは膝を折り、目線を合わせた。「ただ、場所が悪かった。厠と近すぎた。だから、新しい水場を、もっと高いところに掘ります。それまで、少しだけ我慢してください」
説得には、理屈と、辛抱が要った。レンは一軒ずつ回り、「なぜ水を煮るのか」を、噛んで含めるように話した。
「煮ると、なぜいいのか。正直に言えば、はっきりとは、わかりません」レンは正直に言った。村人を煙に巻くより、わからないことはわからないと認めるほうが、かえって信用された。「でも、煮た水を飲んだ者は、腹を下さない。煮ない水を飲んだ者は、下す。これは、確かなんです。理屈はわからなくても、効くなら、やる価値はある」
「水を、温めるだけじゃ駄目なのか」と問う者には、こう答えた。「ぬるいと、駄目です。ぐらぐらと、泡が立つまで煮立ててください。それで、初めて効く」
煮沸が病の元を殺すなど、この世界の誰も知らない。前世では子供でも知っている常識を、ここでは一から、結果で証明しなければならない。だが、それでいい。理屈は、後からついてくる。まず、病人が減るという事実を見せること。それが何よりの説得だった。
リーゼの兵が、村を回って徹底させた。汚れた井戸に蓋をし、高台に新しい水場を掘り、飲み水はすべて一度煮る。病人は別の小屋に移し、世話する者は、その都度、手をよく洗う。地味で、面倒な手順ばかりだ。剣を振るほうが、よほど分かりやすい。
「病人を、なぜわざわざ離すんだ」と兵の一人が問うた。
「病が、人から人へ移るからです」レンは答えた。「同じ家で寝起きすれば、一人の病が、家じゅうに広がる。離して、世話する者を決めて、その者が手を洗う。そうやって、病の通り道を、一つずつ塞ぐんです」
兵は腑に落ちない顔をしながらも、言われたとおりに動いた。リーゼが「やれ」と命じれば、兵は従う。理屈より、信頼で回る部分も、確かにあった。
「こんなことで、本当に病が止まるのか」ベルクが、薪をくべながら半信半疑で問う。釜から、白い湯気が立ち上り、煮立つ水の匂いが小屋に満ちる。
「止まります」レンは断言した。「病は、水と手から、人へ移る。その道を断てば、新しく罹る者は出ない。今寝てる者を治す薬はないが、これ以上、増やさないことはできる」
効果は、数日で現れた。
新しく寝込む者が、ぱたりと止まった。煮た水を飲み、汚れた井戸を断った家から、病人が出なくなる。すでに寝込んでいた者も、清潔な小屋で養生するうち、一人また一人と、起き上がり始めた。
ミナの弟も、熱が引いた。
「おじさん!」ミナが駆けてきて、レンの腰に飛びついた。「弟、起きたよ! お粥、食べたよ!」
その温かい重みに、レンは思わず息を吐いた。間に合った。寝込んでいた子らが、また外で雪玉を投げ合っている。当たり前の光景が、戻ってくる。
「もう、毛皮の襟巻き、ちゃんと巻いてやれよ」レンがそう言うと、ミナは「うん!」と弾けるように笑い、弟のもとへ駆け戻った。雪の上に、小さな足跡が点々と続く。
神官は、ばつの悪そうな顔で、新しい水場に小さな祠を建てた。「精霊が、新しい水を守ってくださる」と言い訳めいて唱える姿に、レンは何も言わなかった。祈りを否定する気はない。病が止まれば、それでいい。
その晩、村の長老がレンの前に進み出て、皺だらけの手を取った。土と、薬草の匂いがする、節くれだった手だった。
「あんたのおかげで、孫に、また飯を食わせてやれる」長老の声が、震えていた。「精霊の祟りだと、諦めかけとった。死ぬのを、待つだけだと。だが、あんたは、諦めなかった」
返す言葉が、すぐには出てこなかった。レンはただ、その手を握り返した。皺の一本一本に、長く生きた者の重みがあった。
民の目が、変わっていた。胡散臭い流れ者を見る目から、頼れる者を見る目へ。飢えを止め、盗賊を退け、今度は病まで止めた。剣も魔法も使わず、ただ水を煮て、井戸を移しただけで。砦は、レンを必要とし始めていた。
「お前は、本当に、戦が下手なのか」リーゼが、湯気の立つ釜の前で、ふと言った。「兵を損なわず盗賊を退け、一人も死なせずに病を止める。これを采配と言わずに、何と言う」
「采配と、戦は、別物です」レンは苦笑した。「俺は、剣を持って前に立つことは、何一つできない。それをするのは、いつもあなただ」
リーゼは、何か言いかけて、口をつぐんだ。釜の湯が、ことことと煮立つ音だけが、しばらく二人の間に残った。
だが、安心するには早かった。
横領を止め、配給を直し、疫病を抑えた。物の流れを整えれば、砦は確かに息を吹き返す。だが、それはすべて「今あるものを、無駄なく回す」工夫にすぎない。元手が尽きれば、いくら上手に回しても、いずれ底をつく。
レンは盤面で、砦の畑を見渡した。冬を越え、来季まで生き延びるには、食料の「入り」そのものを増やさねばならない。回すだけでなく、生み出すこと。痩せた畑が、数字でそう告げていた。
「次は、畑か」レンは雪を被った畝を見やった。やることは、まだ尽きない。




