第11話 呪いではなく、流れ
本作は全70話で完結予定です。
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夜のうちに、寝込む者が三人に増えた。
朝、レンが集落へ下りると、戸口の前に神官が立ち、香を焚いて祈祷を唱えていた。煙の甘ったるい匂いが、咳の音に混じる。
「祟りじゃ」神官は青ざめた顔で言った。「砦が栄え始めたのを、土地の精霊が妬んだのだ。供物を捧げ、祈るほかない」
集まった村人が、不安げに頷き合う。寝込んだ者は、みな同じ症状だった。腹を下し、熱を出し、水ばかり欲しがる。年寄りと子供から、先に弱っていく。
ミナの弟も、その輪の中で、こんこんと咳をしていた。昨日まで毛皮の襟巻きを巻いて笑っていた子が、今朝は頬を赤くして、母親の膝でぐったりしている。母親が、藁にもすがる目で神官を見上げ、なけなしの干し肉を供物に差し出していた。飢えをしのぐための、貴重な食料を。
それを見て、レンは黙っていられなくなった。祈りで腹の虫は治まらない。供物に出した肉の分だけ、この家は、また飢えに近づく。
「祟りじゃありません」レンは言った。
神官が、きっと睨んだ。「では、何だと言うのだ、流れ者」
答える代わりに、レンは盤面に意識を凝らした。
集落の地面の下を、水が流れている。井戸から汲み上げる、飲み水の流れ。そして、集落の裏手にある汚物溜めから、じわじわと土に染みていく、別の流れ。二本の流れが、地中のどこか一点で、交わっていた。きれいな水と、汚れた水が、見えないところで混ざっている。
「水です」レンは井戸を指した。「この井戸の水に、汚れが混じってる。厠の汚れが、地面の下を通って、飲み水に流れ込んでる」
「証拠が、どこにある」神官が鼻で笑う。
「証拠なら、病人の家を辿ればわかります」レンは集落を見渡した。盤面が、どの家が井戸を使い、どの家が高台の湧き水を使っているかを、薄く照らす。「病で寝込んでるのは、この井戸を使ってる家ばかりだ。坂の上の、別の水を汲んでる三軒からは、一人も出てない。精霊の祟りなら、なぜ井戸の家だけを選ぶんです? 精霊は、水の汲み場で、人を選り分けるんですか」
村人たちが、顔を見合わせた。半信半疑の沈黙。だが、言われてみれば――と、ざわめきが広がる。坂の上のあの三軒は、確かに、誰も寝込んでいない。
「言いがかりだ」神官の声が尖る。「水が病を運ぶなど、聞いたこともない。病は、目に見えぬ精霊の業じゃ」
「目に見えないのは、同じです」レンは引かなかった。「精霊も、水の汚れも、目には見えない。だったら、どっちが本当か、確かめればいい。祈祷で病人が減らなければ、精霊のせいじゃない。井戸を変えて病人が減れば、水のせいだ。試してみる価値は、あるはずだ」
理屈は通っている。だが、長年の言い伝えを、流れ者の一言が覆せるものではない。村人の目は、まだ神官のほうを向いていた。
そこへ、馬を下りたリーゼが歩み寄ってきた。土を踏む長靴の音が、ざっと響く。雪まじりの風に、馬の汗の匂いが流れる。
「何を揉めている」リーゼが問うと、神官がここぞとばかりに訴えた。流れ者が、精霊の祟りを水のせいにして、神聖な井戸を閉じろと言っている、と。
リーゼは一通り聞き、それからレンに目を向けた。「お前は、確かなのか。井戸を閉じれば、病が止まると」
「百のうち、九十は」レンは正直に答えた。「残りの十は、わかりません。でも、井戸を閉じて損はない。当たれば病が止まり、外れても、祈祷はそのまま続けられる」
リーゼは、しばし考えた。それから、村人たちに向き直る。
「レンの言うことを聞け」彼女は短く言った。「この男は、倉庫の数を当て、盗賊を一兵も損なわず退けた。世迷言を言う男ではない」
砦の騎士団長の言葉は、重い。村人たちが、たじろいだ。
「だが、団長」神官が食い下がる。「もし違っていたら、精霊の怒りはさらに――」
「違っていたら、私が責めを負う」リーゼは言い切った。「祈祷も続ければいい。だが、井戸も変える。両方やって、損はあるまい」
神官は、唇を噛んで黙った。
レンは、リーゼに小さく頭を下げた。彼女は前を向いたまま、低く返した。「お前の数字を、もう一度だけ信じる。外すなよ」
外せない。今度の相手は、盗賊ではない。目に見えない、水の中の汚れだ。剣も、説得も効かない。効くのは、ただ流れを断つ段取りだけ。
「ベルクさん」レンは振り返った。「この井戸は、今日から使用を止めます。坂の上に、新しい水場を掘りましょう。それと、村じゅうの水を、煮てから飲ませる支度を。薪を集めて、釜をいくつも据える。急ぎで」
「煮る? 水を、わざわざか」ベルクが訝しむ。
「煮れば、汚れが消えます。理屈は後で話します」レンは言った。「今は、信じて手を動かしてください。一日遅れれば、それだけ寝込む者が増える」
簡単なことだ。井戸を変え、水を煮る。ただそれだけ。だが、簡単なことほど、人は信じない。目に見える剣で斬る敵なら、誰もが従う。目に見えない水の汚れと戦えと言われて、すぐ頷ける者は少ない。
レンは、寝込んだミナの弟の、熱い額を思い浮かべた。さっきまで毛皮を巻いて笑っていた、あの子。間に合わせなければ、この子は――。
砦に戻る道で、新たな咳が、また一つ、背後で上がった。雪が、しんしんと降り積もり始めている。時間との、静かな競争だった。




