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第10話 砦が、息を吹き返す

本作は全70話で完結予定です。

毎日5話ずつ、06:40/11:40/17:40/19:40/21:40 に予約投稿しています。

続きが気になりましたら、ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。

砦に来て、ひと月あまりが過ぎた。


倉庫の前で、レンは帳簿を締めながら、自分でも信じられない数字を眺めていた。横領で垂れ流していた物資は止まり、配給は端まで届き、交易で現金と必需品が回り始めた。砦の蓄えは、まだ薄いとはいえ、ひと月前のように底をつく勢いではない。


「変わったもんだ」隣でベルクが、しみじみと言った。乾いた麦と、かまどの煙の匂いが、夕風に混じる。「お前さんが来る前は、毎朝、誰が餓えて動けなくなったかを数えるのが、儂の仕事だった。今は、樽の数を数えてる。同じ数えるでも、ずいぶん違う」


「これからですよ」レンは帳簿を閉じた。「冬を越せて、初めて立て直したと言える。まだ、半分も来てない」


「お前さんは、いつもそうだな」ベルクが呆れたように髭を撫でる。「砦じゅうが浮かれてるってのに、一人だけ、次の心配をしとる」


「浮かれてる暇があったら、樽を一つでも多く数えたいんです」レンは苦笑した。「冬を越したら、次は来季の畑だ。畑の次は、街道の整備。きりがない」


「ふん」ベルクが、低く笑った。これは、この老兵なりの、最上級の賛辞だった。「お前さんになら、儂の倉庫、預けてもいい。四十年、誰にも触らせなかった帳面だがな」


集落のほうから、子供たちの笑い声が流れてきた。


ミナが弟妹を引き連れて、倉庫へ駆けてくる。手には、湯気の立つ椀。雑炊の、麦と肉の匂いが、ふわりと漂った。「おじさん、夕飯まだでしょ! お母さんが、おじさんにって」


「いつも、悪いな」レンは椀を受け取った。「お母さんに、礼を言っといてくれ」


「いいの、いいの。おじさんのおかげで、うちの鍋に、ちゃんと具が入るようになったんだから」ミナが胸を張る。


椀の中身は、麦と豆と、わずかな塩漬け肉の雑炊だった。あの、倉庫から消えていたはずの塩漬け肉。横領で外へ流れ、誰かの懐を肥やすはずだった肉が、今はちゃんと、ミナの家の鍋へ、人の口へ、流れている。物の流れを一つ正すだけで、行き着く先が、こんなに変わる。


「いただきます」一口すする。塩気と、肉の脂のうまみが、冷えた身体に染みた。雑炊一杯が、これほどありがたいものだとは。前世なら、コンビニの棚に並ぶ無数の弁当を、見向きもせずに通り過ぎていた。物が溢れていた世界では、一杯の温かさの値打ちが、わからなかった。


「おいしい?」ミナが覗き込む。


「ああ。これ以上ないくらい」


「えへへ」ミナが、はにかんだ。「じゃあ、また持ってくるね。冬になっても、ちゃんと、おじさんに」


冬になっても。その言葉が、ちくりと胸を刺した。冬を、無事に越せるかどうか。それは、これからのレンの采配にかかっている。この子に「また持ってくる」と言わせ続けるために、やらなければならないことが、山ほどある。


その光景を、少し離れて、リーゼが見ていた。鎧を脱いだ、簡素な上着姿だ。レンが椀を置くと、彼女は近づいてきて、隣に腰を下ろした。


「お前が来てから、砦の死人が、ぱたりと止まった」リーゼは前を向いたまま言った。「飢えでも、病でも、盗賊でもなく、ただ……皆、生きている。当たり前のことが、ここでは、ずっと当たり前じゃなかった」


「当たり前を、当たり前にするのが、裏方の仕事です」レンは言った。「派手じゃないし、誰も褒めない。でも、誰かがやらないと、回らない」


リーゼは、しばらく黙っていた。それから、ぽつりと言った。


「私は、お前を見くびっていた。剣を持たぬ流れ者だと。許せ」


武人が、頭を下げる重さを、レンは知っていた。


「気にしないでください。剣を持たない流れ者ってのは、本当のことだ」レンは笑った。「ただ、剣を持たない奴にも、できることはある。それを、見てもらえただけで、十分です」


「お前のような男が、なぜ、こんな辺境に流れ着いた」リーゼが、ふと真顔になった。「どこの生まれだ。その目は、どこで覚えた」


問われて、レンは少し言葉に詰まった。前世のことも、過労で倒れて目覚めたら砦にいたことも、話したところで信じてはもらえまい。


「遠い、ところです」結局、そう答えた。「物の数を数えて、流れを整える。それだけを、ずっとやってきた。誰にも褒められない仕事を、長いこと」


「ここでは、皆が褒めている」リーゼは前を向いたまま言った。「覚えておけ」


その一言が、胸の奥に、じんわりと染みた。


風が、少し冷たくなっていた。


夜気の中に、湿った土とは違う、乾いた、刺すような気配が混じり始めている。ガロの言った、早い冬の匂いだろうか。レンは雑炊の温かさを手のひらに感じながら、空を見上げた。


平穏は、長くは続かない予感がした。


そしてその予感は、椀を片づけて倉庫へ戻ろうとしたとき、形になった。


ミナの弟が、こんこんと、乾いた咳をしている。さっきまで毛皮を巻いて笑っていた、あの子が。


一人ではない。集落の奥から、同じ咳が、いくつも聞こえてくる。耳を澄ますほど、数が増えていく。レンは足を止め、盤面に意識を凝らした。井戸から汲まれる水の流れ。集落の裏手の、汚物溜めの流れ。二つの流れが、地面の下のどこか一点で、交わっている。


背筋が、ひやりとした。


飢えは、物を流せば解ける。だが、これは違う。目に見えない汚れが、水に乗って、人から人へ移っていく。放っておけば、配給を立て直したばかりの砦が、今度は病で倒れる。


「リーゼさん」レンは振り返った。声が、低く、硬くなる。「砦の井戸を、全部、見せてください。今すぐに」


飢えを越えた砦に、今度は別のものが、忍び寄っていた。

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