温かな汁物と、最強家族の凱旋
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平家の襲来という予期せぬ嵐が去り、静けさを取り戻した工房。
そしていよいよ、宮中へ向かった親方と兄が帰還します。果たして、帝への献上品はどのような評価を受けたのでしょうか?
すべてが報われる、大団円のエピソードです!
張り詰めていた太い糸がプツリと切れた後のような、ひどく静かで、どこか非現実的なほど穏やかな時間が、工房と母屋を包み込んでいた。
俺は井戸から水を汲み上げ、手桶に張った氷のように冷たい水で雑巾を固く絞ると、縁側や土間の板張りを、端から端まで丁寧に拭き上げ始めた。
父と兄が、都の中心である内裏で、工房の存亡を懸けた人生最大の勝負をしている。
その間、ただ一人残された技術者の自分にできることは、彼らがすべてを終えて帰ってきた時に、少しでも安らげる清潔で整った場所を用意しておくことだけだと分かっていたからだ。
無心で板張りを拭き終えると、俺は今度は台所(土間のかまど)に立つ母さんの隣へ向かった。
「おや、もう手伝ってくれるのかい? さっきはあんな恐ろしい目に遭ったばかりなんだ。無理せず、少し部屋で横になっていればいいものを」
母さんは苦笑いしながらも、嬉しそうに少しだけかまどの前の場所を空けてくれた。
今日の夕餉は、彼らが無事に帰還した際の「祝いの席」にもなるかもしれないということで、小麦粉を水で練ってちぎり、濃厚な汁の中に入れるという、少し手間のかかる「すいとん(水団)」のような温かい汁物を作るとのことだった。
俺は大きな鉢を受け取り、粉に少しずつ井戸水を足しながら、最も力仕事である「生地の練り」を買って出た。
体重をかけ、手のひらの付け根の硬い部分でグッと生地を鉢の底へ押し込み、折りたたんではまた全体重を乗せて押し込む。
異国の木が折れる限界を探り、強靭な革の反発力をミリ単位で計算しながらの、あの血を吐くような張り詰めた作業とは全く違う。
ただ手のひらの温もりの中で、素直にもっちりとまとまっていく柔らかい生地の感触は、俺のささくれ立っていた神経を、底から優しく撫でてくれるようだった。
一定のリズムで生地を練り上げていると、次第に無心になれる。
あの平家の武士から向けられた強烈な殺気と威圧感、そして極度の胃痛も、生地の弾力に吸収されるように、少しずつ、確実に遠のいていくのを感じていた。
「……母さんは、すごいですね」
無心で生地を練りながら、俺がぽつりとこぼすと、母さんはかまどの火の強さを調整しながら、不思議そうに振り返った。
「何がだい?」
「先ほどの、あの平家のお武家様の前でも……一歩も引かずに、俺を助けてくれました。……俺なんか、怖くて声一つ出なかったのに」
情けなさに少し俯く俺に、母さんはふふっと笑い、しゃもじで鍋の縁をカンと軽く叩いた。
「そりゃあ、私にとってこの世で一番大事なのは、お前たち家族だからね。どれだけ恐ろしい武士が相手だろうと、私の大事な『居場所』を理不尽に脅かそうとするなら、女親として体を張って守るに決まってるじゃないか。……それに、私は口を開いただけさ。中身を考えたのはお前なんだから」
母さんは、俺の練っている生地を指先でツンと突いた。
「お前はただ、その誰も真似できない素晴らしい手仕事で、うちの工房の看板をいつもピカピカに磨き上げといてくれれば、それでいいんだよ。口喧嘩は、私と惣太郎の役目さ」
母さんのその飾らない言葉は、何物にも代えがたい絶対的な安心感となって、俺の心の底の冷え切っていた部分に、ジンジンと温かく染み渡っていった。
凱旋と、新たなる時代の幕開け
日がすっかり落ち、かまどから鶏の脂の浮いた出汁と、小麦の煮える甘い匂いが立ち込め始めた頃。
表通りから、ガラガラと空の荷車を引く音と、聞き慣れた慌ただしい足音が近づいてきた。
「おおーい! 帰ったぞ!!」
バンッ! と勢いよく木戸を開けて飛び込んできたのは、顔を真っ赤に紅潮させ、息を切らした兄・惣太郎だった。
その後ろから、肩の重い荷物をすべて下ろしたような、どこか憑き物が落ちて柔らかな顔つきになった親方・源次郎が、ゆっくりと続く。
「親父! 兄上! ……どう、でしたか?」
俺が、手についた小麦粉を前掛けで拭いながら小走りで出迎えると。
兄上は俺の肩を両手でガシリと掴み、興奮のあまり声の裏返った状態で、堰を切ったように叫んだ。
「大勝利だ、藤太!! 完全勝利だ!! 帝は御簾の奥からあの『四季の浮き彫り』を大変深くご覧になり、そして……藤原様と共に、直々にあの車にお乗りになられたんだ!!」
「帝が、自ら……!」
「ああ! そして車が長柄に引かれて動いた瞬間、内裏の広い白砂の庭にいた大宮人全員が、息を呑んで静まり返ったよ。あの圧倒的で重厚な黒木の彫刻の車が、車輪の音以外まったく立てず、まるで『宙に浮いているかのように』、音もなく滑り出したんだからな!」
親方も、嬉しそうに目元を太い指で拭いながら深く頷いた。
「ああ。藤原様はそれはもう、御所の中で一番の鼻高々でな。帝から直々に『天下無双の技なり』という身に余るお褒めの言葉を賜り、我が工房に、蔵が建つほどの莫大な褒美と絹を下さったぞ」
「それだけじゃないぞ!」
兄上は、俺の肩を揺さぶりながらさらに身を乗り出した。
「昨日、母上と藤太が考えたあの『専売(総代理店)』の提案……! 納品の興奮冷めやらぬ藤原様に、帰り際にそっと打診してみたんだ。そうしたら、大層お気に召してな!
『ほう……我が左大臣家を介してのみ、あの名車を他家へ下賜しようというのだな。ならば、都中の権力と富は、車を通じて我が手に集まるというわけだ! よかろう!』と、藤原様の強烈な見栄と虚栄心を完全にくすぐり、見事に話に乗ってくださったんだ!」
大興奮で報告を終えた兄上に、俺は一つ、深く息を吐いてから、今日の昼間の出来事を二人に打ち明けた。
突然、平家の恐ろしい武士が直接注文にやってきたこと。
俺が恐怖で声を失ってしまったこと。
そして、母さんが前に出て、機転を利かせて藤原様の名前を出し、見事にその注文を左大臣家(窓口)へと誘導して追い返したことを。
それを聞いた兄上と親方は、一瞬、呆然として口を開けたまま固まり。
次の瞬間、兄上は天を仰いで、腹を抱えて大爆笑した。
「あっははははっ! 完璧だ! 完璧すぎるぞ! すでにあの武力自慢の平家が、車欲しさに藤原様の門を叩きに行っているとなれば、藤原様の『公家としての優越感と特権』はさらに満たされ、我が工房への独占卸売を通した注文(量産型の第三の型)も、完全に確定したも同然だ! 母上、藤太、お前ら最高だ!!」
すべてが、俺たち家族の描いた図面通りに。
いや、それ以上の完璧で強固な形となって、歴史という大きな舞台で組み上がったのだ。
「さあさあ、立ち話はそのくらいにして、早く手を洗っておいで。今日は無事の帰還を祝って、腕によりをかけて、熱くて腹持ちのいいすいとんの汁物を作ったんだから。冷めないうちに食べるよ!」
母さんの明るい声が母屋に響き、男三人は顔を見合わせて、底抜けに明るく笑い合った。
囲炉裏を囲み、俺が全体重をかけて練り上げた、もっちりとした小麦の生地がゴロゴロと入った熱い汁を啜りながら、家族四人で、天下無双の祝杯を上げる。
外の暗闇の中、今この瞬間も、都ではすでに「全く揺れない魔法のような牛車」の伝説が、貴族たちの間で凄まじい勢いで広がり始めていることだろう。
しかし、この小さな工房の母屋の中にあるのは、権力闘争やドロドロとした嫉妬とは全く無縁の、家族の確かな絆と、自分たちの持てる技術と知恵のすべてで、未来を切り拓いたという誇りだけだった。
歴史的な大仕事を成し遂げた若き天才車大工の夜は。
世界で一番温かく、美味い飯と、愛する家族の笑い声とともに、穏やかに、そして輝かしく更けていった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
無事に帝への献上を終え、大絶賛を受けた源次郎工房。
そして、平家が直接来たことが、逆に「左大臣家を代理店にする」という作戦の最強のアシストになるという見事な伏線回収! 藤太の練ったすいとんも美味しそうですね。
これにて、理不尽な権力に立ち向かった「帝への献上品編」は、最高のハッピーエンドで幕を下ろします!
最後まで家族の戦いを見守ってくださり、本当にありがとうございました!




